らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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岩尾城2 (佐久市鳴瀬 リテイク)  

◆佐久地方の武田方の拠点として改修された三日月堀を持つ堅城◆

佐久市鳴瀬にある岩尾城といえば、天正壬午の乱で徳川家康の命に従い信濃佐久地方を平定する直前で依田信蕃が討死した城として有名である。
その死を悼んだ家康が信蕃の幼少の長子に松平姓を与え、小諸城と周辺の所領を与え、更に自分の一字を与えて康国と名乗らせ大久保忠世を後見とする破格の待遇を与えている。

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岩尾城から見た南東方面。依田信蕃の最後の居城である田口城は前山城から東へ7km先にある。

後北条氏を翻弄した依田信蕃の捨て身の活躍が無ければ、天正壬午の乱において兵力差では圧倒的に不利だった徳川が優位な条件で和睦など出来るはずも無かった・・。まさに信濃国佐久平定戦の最大の功労者である。

武田勝頼配下の有能な武将として二俣城田中城の城代を勤めた依田信蕃は、殺到する徳川軍相手に一歩も引く事は無かったという。

そんな歴戦の勇士だった信蕃さん、難攻不落の岩尾城の攻撃で焦り鉄砲に撃たれて敢え無く討死。その後、岩尾城主の大井行吉は徳川軍に城を明け渡した。依田信蕃の死と引き換えに佐久は徳川により平定された。

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県指定史跡だったとは不覚であった・・(笑)。駐車場も無いし西ノ郭は藪茫々だし縄張図もありゃしないお粗末さ。

【武田時代の岩尾城】

佐久地方の大井庄の地頭であった大井一族の大井行俊により岩尾城が築城されたのは文明十年(1478)と伝わる。
岩尾城の記載が高白斉記に初めて登場するのは、天文二十年(1551)で、戸石崩れの翌年である。

その年の五月に真田幸隆が戸石城を奇襲し乗っ取ると、信玄は翌月に佐久平定の仕上げとして甲府を出陣し若神子へ着陣する。これに先立ち、一門である栗原左衛門が佐久に入り未だ降伏しない土豪の懐柔工作を行っていたらしい。

以下は岩尾城に関わる高白斉記の引用である。

・七月二十日丙午、岩尾弾正(大井弾正行真)初めて若神子まで出仕。

・七月二十五日幸亥、若神子より御馬納めらる。

・七月二十六日壬子、孫六(晴信の弟)御前迎えに出て駿府に着く。未刻、小田原の使者遠山方に御対面。烏帽子落し之由聞き候。

・七月二十八日節。晦日丙辰巳刻、重ねて御出馬。

・八月小朔日丁巳、桜井山へ御着城。 ※桜井山とは勝間反砦であろうと推定されている。

・八月九日乙丑天晴地霧。辰巳の刻より酉の刻まで。

・八月二十二日己卯、御曹司様の西の御坐立ち始む。

・八月二十八日甲申午刻、未の方に向い岩尾の城の鍬立七五三(くわだてしめかけ)同岩村の鍬立、申の刻未の方に向い七五九。栗原左ヱ門仰せ付けられ侯て相勤むる。

※七五三とは「しめかけ」と読む。千歳飴の「しちごさん」では無い(笑)。注連縄(しめなわ 七五三縄とも書く)の事を指していると思われ、新たな武田の城を縄張りするにあたり地鎮祭のような神事が執り行われたのであろう。

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三島神社の鳥居と道路建設により三日月堀付近は改変を余儀なくされたらしい。

この時信玄は大門峠ではなく佐久甲州街道を通り臼田の桜井山城に入り宿営しているのがわかる。
岩尾城主の大井弾正(行吉か?)は信玄が佐久に入る前に若神子に出向き武田に降ったとみられる。

その後の大井氏の動向は不明で、岩尾城が新たに鍬立てされたと記載されているので、武田直轄の城として作りなおされ、大井氏は代替え所領を与えられたのだろうか。眞田幸隆が城を預かっていたとも云われているので、内山城と共に佐久における重要な拠点であったのは間違いないと思われる。

【三日月堀は実在したのか?】

どうしても武田の城=三日月堀+馬丸出し丸馬出しという公式が付いて回る・・(笑)

岩尾城の古絵図にも三日月堀が描かれているし、発掘調査でも三日月型の堀が確認出来たらしいが、現在は標柱が建つのみで壊滅している。

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縄張図だけ見ると、郭の中間地点に三日月堀を備えているのが分かる。大抵の場合、三日月堀と丸馬出しは外郭の虎口に設置されるのだが、この位置は珍しい。類似するのは遠江の小山城ぐらいだろうか?まあ、小山城のスケールには遠く及ばないが・・・(汗)

最も、現在の大手台郭や大手郭が当初の城域から拡大されて後付けされたとすれば納得は出来る。

岩尾城② (8)
見学者の誰もが戸惑う道路脇の「三日月堀跡」の標柱。三角形は何処?教えてくれ!!(怒)

岩尾城と三日月堀①
こんな感じの説明板があると、「なるほど」とイメージしやすい。

岩尾城② (9)
盛り上がっているので道路が堀で土塁が馬出しの土手に見えるが、土手が堀の部分。

岩尾城② (7)
まあね、強引に落書きするとこんな感じかしら・・・(汗)

ものの本によれば、勝頼の時代にも改修が施されたというが、真の程は定かではない。
武田氏の滅亡とともに大井行吉は再び岩尾城主として故郷に戻り、北条氏を頼ったという。

岩尾城② (10)
三日月堀の標柱付近から見た三の郭。

家柄から云えば、格下の依田信蕃の降伏勧告に従う事などプライドが許さなかった。

がしかし、その憎き依田信繁が討死した以上、徳川に抗う理由は無くなった。だから開城したのである。

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雪の部分が丸馬出しであろうか。

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この大手台郭から見た三日月堀跡と三の丸。(鳥居の右側が三日月堀跡)

天正十一年(1583)2月25日、攻城戦も三日目に入り焦燥していた依田信蕃は弟の信幸と共に自ら城へ攻め込み、敵弾に斃れた。信幸はほぼ即死、信蕃は翌日亡くなったという。享年三十六才。

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三の丸手前の空堀(三日月堀と連結)には祠がある。信蕃が撃たれた場所なのだろうか?

信蕃が敵弾に斃れたのは大手台郭の空堀とも三の丸手前の三日月堀付近とも云われるが定かではない。

勝頼時代には二俣城、田中城の城将として名を馳せた依田信蕃が、武田の縄張りと伝わる岩尾城の三日月堀付近で生涯を終えたとは皮肉なものである。

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城域北側からの岩尾城遠景。

岩尾城の大手の東側には、岩尾城の城主だった大井氏の菩提寺である桃源院があり、歴代の城主の墓がある。

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大井氏の墓。

それにしても、県指定史跡なのだから、もう少しキチンと整備して欲しいと思うのは小生だけであろうか?
とかく行政とは新しい施設の建設や指定史跡になるまでの整備については熱心だが、作ってしまえば、指定してしまえば、それで終わり!というのが多過ぎる。

中世の城館に関しても、今一度見直しと整備を進めて欲しいものである。

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南側の千曲川から見た岩尾城。まさに「所堅固の城」であろう。

夏バテで更新のペースも下降気味だが、もうすぐ攻城戦再開の季節になるので、なんとなく嬉しいこの頃です・・(笑)





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Posted on 2014/08/30 Sat. 07:19 [edit]

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