らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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吉田城 (愛知県豊橋市今橋町)  

◆石垣見たくて寄り道しただけの城◆

そう書いてしまうと身も蓋も無いし、吉田城愛好家の方から叱られそうだが、事実である・・(汗)

2012年の秋に念願叶って二泊三日で遠江・三河ツアーを敢行。近代城郭など見る気も無かったが、掛川城・浜松城・吉田城は嫌いな徳川さんの城とは言えせっかくなので寄らせていただいた。(笑)
いずれも戦国の城から近世城郭に変貌を遂げた過程があるので仕方あるまい。

吉田城(三河) (3)
今橋城時代の本郭跡と伝わる金柑丸に建つ説明板。この郭の写真は取り損ねた。そんな程度の興味である(笑)

【立地】

三河湾に注ぐ豊川河口から約5kmの川沿いに立地し渥美半島の付け根部分にあたる。伊那街道と東海道が交わる三河の西端にあり古来より要衝の地であったという。

吉田城(三河) (1)
金柑丸の東側の水堀跡。

【城主・城歴】

永正二年(1505)、豊川の一色城主の牧野古自により今橋城が築かれたという。(一説には1496年とも)この時の対抗勢力は田原の戸田氏で、今橋城より東にある二連木城の城主であった。
大永二年(1522)今橋は吉田と改名され、吉田城は戦国時代の争乱の中で、今川、武田、松平(徳川)ら戦国武将により激しい争奪戦が繰り広げられた。現在の金柑丸が今橋城の本丸であったという言い伝えがあり、豊川を望む台地の縁辺部に沿って郭が連なる形であったと考えられている。

吉田城(三河) (6)
本丸東側の堀。

土塁の堀側は土のままで切岸にして、内側(本丸内部)へは石垣という珍しい方式だが、攻める側からすれば土の壁のが登りづらいという特性を生かしている。

吉田城配置図①
吉田城模式図(豊橋市発行のパンフレットより引用)

近代城郭として整備された現在の吉田城は輪郭方式の縄張りだが、以前は解説にある通り連郭式だったようである。
近年実施された部分的な発掘調査では戦国時代のV字の薬研掘(やげんぼり)と江戸時代の箱掘が並行して散見されるので、酒井忠次時代には既に輪郭式の縄張に改修されていたようである。

吉田城(三河) (7)
土橋から見た本丸裏御門と石垣。

吉田城(三河) (10)
裏御門から見た本丸正面の虎口。南御多門があった。

【酒井忠次と池田輝政の時代】

吉田城は牧野古自の今橋城築城以来、幾度となく争奪戦が繰り広げられたが、永禄七年(1564)に松平家康(徳川家康)が今川方の吉田城代の小原鎮実を攻めて吉田城を奪取すると、酒井忠次を城主としてこれを守らせた。
酒井忠次は吉田城を改修し新たに堀を増設した事が発掘調査より判明している。また、当時の大手は飽海口(あくみぐち)であったとされており、東側が正面んある構造であった。

吉田城(三河) (12)
昭和29年に復興された鉄櫓。吉田城の櫓の中では一番大きく古絵図にはこの櫓を天守と書いているのが何枚かあるらしい。

吉田城(三河) (13)
北側の腰郭との間にある枡形。この城の弱点である豊川側の防御は念入りに作られている。

天正十八年(1590)、徳川家康が関東八州へ転封になり酒井忠次もそれに従い移転。代わって羽柴秀吉の配下である池田照政が岐阜城十三万石から十五万二千石に加増され吉田城へ入った。照政は吉田城を石高に見合う大城郭への改造に着手する。照政時代の遺構には鉄櫓下の石垣があり、当時としては最新の技術で積まれた石垣は豊職系城郭の象徴的な存在である。
照政は家康の娘である督姫を娶り、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後に五十二万石へ加増されて姫路へ転封となる。それを機に輝政と改名し現在世界遺産となっている姫路城を築いた。

吉田城(三河) (14)
昔はこういう櫓(建物)にトキメキを感じたが、最近はどーでも良くなった・・(笑)

吉田城(三河) (15)
鉄櫓の北側と西側の石垣が池田輝政時代の野面積の遺構。(写真は北側・・・草で良くわかんない?・・汗)

吉田城(三河) (19)
しからば新旧対比の写真を掲載してつかわそう・・(笑)

吉田城(三河) (20)
鉄櫓西側の石垣。二度の大地震にも耐えた野面積(のづらづみ)の安定性はさすがでございます。

吉田城の見どころは何といっても石垣で、新旧の見比べと石垣の刻文が見れるとこかしら。
しかも、その石垣も本丸の内側と二の丸の堀の一部にしかない。なんでかって?

池田氏15万石の後に入封したのは徳川家の譜代の大名なんだけど、いずれも3万石~4万石。
とても池田さんの築城工事を継続出来る訳などないし、維持するだけでも大変。名古屋城の余った石垣貰っても「要りません」とはいえずにせっせと積んだのでしょうねえ・・・(悲)

吉田城(三河) (17)
北の豊川に面した帯郭は周囲を総石垣で囲まれている。石垣の刻文は18箇所あるらしい。

吉田城(三河) (18)
敵が川を渡航しても容易に攻め込まれないように落差と折れを付け、登った先は枡形になっている。

吉田城(三河) (22)
天下普請じゃないので、適当に曲がってても藩が取り潰しになることはありません・・・・

【城跡】

豊川と朝倉川を背にして本郭、二の郭、三の郭を重ねていく輪郭式の縄張りでいわゆる「後ろ堅固(うしろけんご)」と呼ばれるものである。弱点としては主郭が川に面して晒されているので、渡航して直接攻撃されるとイッキに崩れる点であろうか。その為、吉田城は腰郭を増設して川手櫓を置き、鉄櫓、入道櫓とを多門櫓で組み合わせて防御をかなり強化している。
排水の陣のような縄張りを嫌って家康は居城にすることは無かったというが、どうであろうか。

吉田城(三河) (24)
本丸西側土塁。土の構造物を見ると安心する(笑)

吉田城(三河) (25)
南西の千貫櫓。.の石垣(東より撮影)

【石垣の刻文(刻印)】

吉田城の石垣にも名古屋城の石垣にあるような、丸に三角や扇子、軍配などユーモラスなしるしがみられます。
これを『刻文』(または刻印)といい、築城工事を分担した大名と家臣のしるしです。苦労して運んだ石を他の大名家のものと間違え、無用なトラブルが起きることのないようにつけたものです。
天下普請の名古屋城で余った石垣が運び込まれたものなので、あって当然でしょうか・・(笑)

吉田城にも約50箇所の刻文があるそうですが、一ヶ所しか見てきませんでした・・・(汗)
興味のある方は全て探し当てて下され!!

吉田城(三河) (26)
この石垣の刻印は土佐藩とか。そんな落書きあるように見えますか?

吉田城(三河) (261)
いかん、トサ(逆文字)の「ト」の位置がずれている・・・・

吉田城(三河) (29)
興味のある方は是非とも宝さがしに来て下さいませ。

【オマケのお話】

元亀二年(1571)4月28日、武田信玄が遠江・三河侵攻作戦を行い、徳川方の吉田城を攻めたという史実が通説となっているが、最近どうやらこの史実に疑義が生じているらしい。

そんな疑問を丁寧に解説しているサイトがあったので、ご紹介しておきます。

静岡県のお城

管理人はTaizoさんという方で、文献史料が専門のスペシャリストのようです。お若いのに凄いなあー(溜め息)

吉田城(三河) (31)
南東の堀び面する切岸は石垣。正面ですものカッコつけなきゃいけません!(笑)

吉田城(三河) (34)
本丸虎口。喰い違い虎口になっている。

≪吉田城≫ (よしだじょう)

標高:10.5m 比高:- 
築城年代:不明
築城・居住者:牧野氏、今川氏、松平(徳川)氏、池田氏
場所:愛知県豊橋市今橋町
攻城日:2012年10月10日 
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:0分 駐車場:有り
見どころ:石垣、高土塁、堀、復元櫓
注意事項:特に無し
参考文献:豊橋市発行の観光パンフレット、その他
付近の城址:長篠城、田峯城、亀山城、岡崎城、浜松城、二連木城など。(あっ、二連木城見るの忘れてた・・)

吉田城(三河) (33)
何の変哲もない二の丸の風景を見ながら吉田城とはお別れです・・・(武蔵の五遁さんをパクったゾ)



吉田城(三河) (21)
同じ築城者なのにねえー、同情しますよ・・(爆)




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Posted on 2014/08/14 Thu. 16:11 [edit]

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