らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0824

前橋城 (群馬県前橋市大手町)  

◆「辿り着いたらいつも雨降り」第二弾◆

「そうだ、後閑城へ行こう!!」

8月16日、お盆のUターンラッシュの事など気にもせず高速道路に乗って安中榛名ICへ向かった。

下調べなどせず、アウェーの群馬県に鉄砲玉のように飛び出したが、それはそれで結構楽しかった。余計な前知識を入れずに純粋に城跡を隅々まで見て歩くことは、想像力と妄想力の鍛錬になるのだ。(まあ、場所だけは事前に調べないと・・)

今回ご案内するのは、前回の高崎城と同様に仕方なくオマケで訪問した前橋城。
近世城郭は大嫌いだが、幕末に不死鳥の如く甦った廃城というストーリーを聞けば、どーしても見たくなった・・(笑)

前橋城(群馬県) (1)
前橋公園の西側に残る高土塁。

【立地】

越後山脈を源流とする日本最大の流域面積を誇る利根川が、渋川で吾妻川と合流した10km先の平野部の河岸沿いにあり、榛名山の北麓の沼田経由で三国峠を越えて越後へ、榛名山の南麓を西へ進めば箕輪城の監視に晒され碓氷峠を越えて信濃に通じる交通の要衝で、関東方面への入口を抑える重要な場所でもある。

前橋城(群馬県) (2)
城域の西側は親水ステージの公園になっているが、元々は利根川が外堀として流れていたと云う。(遠方の建物はグリーンドーム前橋)

【中世時代の城主・城歴】

前橋城の前身は厩橋城(うまやばしじょう⇒まやばしじょうへ変化?)で、15世紀末に固山宗賢(こざんそうけん)が築城したと伝わるが、笠間明玄や太田道灌という説もあり、ハッキリしていない。
永禄三年(1560)、上杉謙信が小田原の北条氏を攻め厩橋城を奪取。箕輪城の支城として長野賢忠を城代とし、厩橋城にて越年。永禄六年(1563)には、謙信の配下であった北条高広(きたじょうたかひろ)が城代に任命され、関東方面の軍事・行政を一任される。がしかし、この男、謙信も認めたその才覚ゆえにあっちゃこっちゃ策を練り過ぎて最終的には自爆する・・(汗)その辺のお話は、また今度・・(笑)

前橋城(群馬県) (4)
本丸跡に建つ偉そうな県庁(笑)。土塁の外側は水堀址だろうか。

その後紆余曲折を経て甲州征伐で武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣である滝川一益が上野国を与えられ厩橋城に入るも、本能寺の変が起こり、上野国に侵攻してきた後北条氏と神流川で戦うも滝川軍は敗れ、後北条方の城となる。

【近世の城歴】

天正十八年(1590)、後北条氏の滅亡後に関東に移封された徳川家康は、厩橋城に譜代の平岩親吉を入封する。
慶長六年(1601)、平岩親吉の甲府への移封に伴い、川越藩から徳川家重臣の酒井重忠が入封となる。

この時家康は初代前橋藩主となる酒井重忠に「なんじに関東の華(はな)をとらせる。」と云ったのは有名な話で、関東北部における厩橋城の地位の高さが伺える。

前橋城(群馬県) (6)
土塁の上の遊歩道。近世城郭とはいえ、高崎城も前橋城も基本「土の城」なので好感が持てる。

前橋城(群馬県) (7)
三の丸の北に隣接する「柳原口内」と呼ばれた郭(現在の前橋公園敷地)

元和三年(1613)、酒井忠世の代に近世城郭として整備され三層三階の天守を造ったという。その後、慶安二年(1649)に藩主忠清の時に厩橋城⇒前橋城に改称したという。

その後は、「坂東太郎」とまであだ名がつくほどの利根川は、度重なる洪水や河川の氾濫により前橋城とその付近の住民に莫大な損害を繰り返しもたらした。

前橋城(群馬県) (8)
いかに巨大な土塁だったかが分かる写真。

寛延二年(1749)、酒井忠恭が播磨の姫路へ転封となり、代わって姫路より松平朝矩しが入封。
(この転封は、財政が破綻寸前の姫路藩松平家の仕組んだ罠とも伝わるが、はっきりしたことは分からないという)

利根川の大規模な氾濫が数年おきに続き、揚げ句の果てに城下で大火まで発生して前橋城はもはや修復不能の状態となる。明和四年(1767)、松平家は武蔵国川越城への移転を申請し許可され、前橋城は廃城となった。
前橋藩は川越藩となり、前橋には陣屋が置かれたのである。

前橋城(群馬県) (16)
前橋東照宮は松平家とともに変遷し1871年に川越から現在の場所に移転した。

【日本最期の築城となった幻の前橋城】

廃城から約100年経過した文久三年(1863)、前橋藩の復活と藩主の復帰を願う地元領民の強い想いと生糸景気による豊潤な経済力に後押しされた川越藩第十六代当主の松平直克は、幕府に築城許可を嘆願しようやく許可を得る。
許可の背景には、万が一外国による江戸城攻撃が始まった場合の幕府の移転先として考えられていた事があるという。

また、この年は江戸時代最期の築城ブームでもあり、七年がかりで工事を進めていた函館の五稜郭が完成。萩から山口に城を移した毛利氏もこの年に山口城を築いている。

また、小生の住む信州佐久地方でも田野口藩(竜岡藩)がミニ五稜郭と呼ばれる竜岡城の築城にとりかかり、岩村田藩も藤ヶ城を築城している。(築城術は前橋城によく似ている)

前橋城見取図①
新・前橋城の縄張図(前橋市の観光案内パンフレットより転載)。何と丸馬出しが二つある。

再建された前橋城は旧前橋城の三の丸を本丸とした近代城郭としての縄張りに改められ、全ての郭は外周を高土塁と堀で囲まれ、要所には砲台が置かれ稜堡式として十字砲火が掛けられる仕様になっている。
ヨーロッパにおける火砲の発達による築城術の情報を取り入れた重火砲にも耐えうる設計で、標的となってしまう櫓すら建てない防御構造は、軍事学的にも時代の最先端であったと思われる。

慶応三年(1867)、三年八カ月の歳月と77,673両の費用をかけた新・前橋城が完成し、松平直克は川越藩から前橋藩に移った。

前橋城(群馬県) (18)
「るなぱあく」という遊園地のある場所は前橋城の北側の空堀跡である。

前橋城(群馬県) (19)
臨江閣の庭園付近も空堀跡。

明治維新を迎え、明治二年(1869)の版籍奉還で直克は前橋藩知事に就任。
明治四年(1871)廃藩置県により前橋城は再び廃城となり、明治政府は真っ先に前橋城を取り壊した。再築城から僅か四年の幻の城であった。

前橋城(群馬県) (20)
群馬県警察本部の脇に建つ城碑入口の標柱。この時間帯から土砂降りの雨になる・・(汗)

前橋城(群馬県) (25)
城碑のある場所は前橋城三の丸東南隅の土塁で、砲台が置かれたところだという。

降りしきる雨の中、ビショビショになりながら見学しているのは自分だけ・・もはや意地だけの世界・・(笑)

しかもお隣は警察署なので、不審者として職質される恐れもあるし・・(汗)

前橋城(群馬県) (29)
立派な土塁でございます。隣は群馬県警です。くわばらくわばら。

前橋城(群馬県) (31)
雨の中の土塁散策も風情でございます。

強固な縄張りとして生まれ変わった前橋城に反政府軍が立て篭もったら厄介ですもの。
明治政府が危険視したのも無理からぬ事。それにしても、後世の研究材料として半分くらいは現物を残しておいても良かったんじゃないかしら・・(笑)


≪前橋城≫ (まえばしじょう 厩橋城)

標高:107.1m 比高:- 
築城年代:不明
築城・居住者:長野氏、北条氏、後北条氏、酒井氏、松平氏
場所:群馬県前橋市大手町
攻城日:2014年8月16日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:0分 駐車場:有り(県庁有料駐車場)
見どころ:高土塁、堀址
注意事項:特に無し
参考文献:城跡の説明看板、前橋市の観光案内など
付近の城址:色々

前橋城(群馬県) (33)
県庁北側駐車場に残る土塁跡。










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Posted on 2014/08/24 Sun. 08:18 [edit]

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