らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0913

堀之内城 (布引城 小諸市大久保 リテイク)  

◆謎多き布引城の巨大な二重(三重?)三日月型堀切◆

そのうちブログタイトルが「らんまるVS行政機関の仁義なき戦い~三日市場城編」になりそうな勢いである・・・

んで、未掲載の城のバックオーダーが100以上あるのに、また過去記事のリテイクなんぞしてて大丈夫かしら・・・(笑)

まあね、脇毛の左若気の至りといえども、間違った認識や誤った情報は正さなくちゃいけないし、そもそも地元のヤツが掲載する信濃の城は見どころをキチンと押えて皆さまにご紹介しないといけません・・(汗)

という訳で東信濃の「三日月堀シリーズ第三弾!」は堀之内城。(5年前のブログ記事では布引城としているが、楽巌寺城と堀之内城を含めた一帯が布引城とも)

この城の大手の馬出しと三日月型堀切こそが武田による布引城の大改修の証しとされているのだ。今回はそこをピンポイントでご案内したい。

楽巌城・布引城201409 (63)
何の変哲もない神社とその周辺こそが、この城の最大の見どころなのである。


【立地】

佐久平を北に流れる千曲川が小諸城付近で大きく西へ流域を変更する左岸の御牧原台地の北端に位置する。「牛に引かれて善光寺参り」の伝説で有名な布引観音(釈尊寺)から西600mにあり、城域の西・北・東は断崖絶壁で、南のみ細尾根が御牧原台地に接するまさに要害の地である。

大室城201409 (27)
対岸の大室城(小諸高原美術館)から見た布引城一帯。東信濃における武田軍の最前線基地として構築された。

こんな写真を掲載すると、お尻がムズムズして「いざ、信濃へ出撃!!」と思う方もいるだろう・・お出掛け下され・・(笑)

先日この城跡を調査中に大型のエテ公(竹中秀吉か?・・笑)に遭遇し、かなりビックリ・・(汗)。これからの時期はエテ公とクーさん対策は必須であろう。


【城跡】

高白斉記には「天文十七年(1548)五月十七日 信州布引ノ城鍬立」とあり、望月方に属して楽巌寺城の楽巌寺氏と共に最期まで武田に抵抗していた布下氏の詰め城の堀之内城が落城後に改修され布引城と呼ばれたらしい。
南東400mには楽巌寺城があり、縄張りや構造が堀之内城に良く似ていることや、釈尊寺を取り囲むように防御ラインが設営され大規模な軍隊の駐留地としてリニューアルされた部分も含めた総称として「布引城」と呼ばれたと思われる。

布引城二重堀

【武田城郭マニア垂涎の隠れた名城である所以】

前述したように「高白斉記」ではたった一行の記載なので、楽巌寺城と堀之内城が布引城だったとは断定出来ない。
がしかし、両城とも大掛かりな土木工事が施された痕跡の残る城であり、小豪族だった楽巌寺氏や布下氏が投下出来る土木工事量では無い事は、現地を見れば分かる。
そしてそこには、三日月堀の原形と断定されている二重(三重とも?)三日月堀と馬出しがあるのだ。

楽巌城・布引城201409 (67)
諏訪神社が祀られた郭6。背後の土塁は後世のものではなく、城の大手郭時代の土塁跡である。

楽巌城・布引城201409 (69)
神社の勧進と道路工事で改変されたものの、何とか西半分の郭と土塁は残っている。

楽巌城・布引城201409 (71)
堀之内城の大手(追手)の馬出しで、ここを落とさないと先には絶対に進めない関門である。

●堀切㋑

・郭3との間の取り付け道路の開通により一部破壊されているが、諏訪神社(郭6)の外側の三日月堀で遺構も比較的良く残っている。上巾6mだが、かなりの深さがある。

楽巌城・布引城201409 (73)
神社の南側には結構立派な堀切跡が残っているので驚いた。小豪族の加工レベルでは無い。

楽巌城・布引城201409 (66)
堀は東側に向けて神社の勧進により埋め立てられたと思われる。

●郭7(堀切㋑と㋐の中間地点)

「戦国武田の城」の著者である中田正光氏は縄張図における「郭7」を堀切として三重の三日月堀として見ているが、宮坂武男氏は中間に位置する郭として二重の堀切だったとしている。

楽巌城・布引城201409 (76)
郭7。

郭7は堀切㋐に対して高土塁を巡らすが、高低差を考慮すれば堀では無く郭としての作りであろう。馬出しという防御構造の試行錯誤段階での措置のように思えるがどうであろうか。


●巨大で鋭利な刃物を想像させる三日月堀㋐◆

現在残る堀之内城の遺構も楽巌寺城(らくがんじじょう)の遺構も元々の領主であった小豪族の土木工事では無い事は確かである。こんな手の込んだ技巧や縄張り技術などあろうはずもなかろう。

いわゆる「大勢力」と呼ばれる戦国大名の普請である。

楽巌城・布引城201409 (79)
鋭角に削られた堀切㋐の北側の斜面。

楽巌城・布引城201409 (82)
上巾11mもある巨大な三日月堀㋐。

楽巌城・布引城201409 (83)
往時の堀底は更に深かったと思われる。素晴らしい遺構である。

武田軍の信濃侵攻とともに丸馬出し+三日月堀を備えた独自のスタイルの縄張りを持つ城が「鍬立て」されていくのだが、堀之内城と隣にある楽巌寺城はその途中過程を知る貴重な遺構が残されていると見るべきであろう。

楽巌城・布引城201409 (85)
東の道路側から見た堀切㋐。


【壊滅的な打撃から辛うじて逃れた城跡】

昭和の高度成長期における別荘開発に伴い、堀之内城も楽巌寺城もかなりの打撃を受けたようである。なかでも楽巌寺城の破壊は酷いもので、土塁を破壊して道路を開け、堀底に別荘をおっ建てる有り様だった(次号で触れたい)

楽巌城・布引城201409 (90)
城の主要部へ続く痩せ尾根。道路の西側斜面にはウサギ小屋のような別荘のゴーストタウンがある。

楽巌城・布引城201409 (93)
郭3手前の堀切㋓

楽巌城・布引城201409 (98)
周囲に土塁を残す郭③。

ここから先の郭2、郭1は割愛させていただく。千曲川を眼下に望む崖の上に、まさかお思うぐらいの広さの台地があり、三ヶ所の溜池がコンコンと水を湛えている。千人ぐらいの兵隊は楽に収容出来る。
※私有地なので見学の際には必ず一言断ってから見せて頂く事。

楽巌城・布引城201409 (104)
城跡には2軒の民家があり、代々の城守(しろもり)だという。

布引3
北側の溜池。この奥には周囲を土塁で囲まれた長方形の郭が存在し、楽巌寺城の作りと共通している遺構がある。

布引1
堀之内城の見張り台(郭5)から北方面。(2009年5月撮影)信玄がここを拠点とした理由が分かるような気がする。


≪堀之内城≫ (ほりのうちじょう 布引城)

標高:765m 比高225m(北山下より)
築城年代:不明
築城・居住者:布下氏、武田氏
場所:小諸市大久保
攻城日:2014年9月3日 (再訪)
見どころ:土塁、郭、二重の三日月堀跡など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し(邪魔にならないように路駐)、道路が狭いので注意。
その他:メインの城域は私有地であり耕作地等があるので、立ち入りは許可を取りましょう。郭3、6、7は問題ない。
参考文献:「信濃の山城と館①」(宮坂武男著 2013年)、「戦国武田の城」(中田正光 2010年)

大室城201409 (40)
武田により改修されネットワーク化された城砦群(大室城より撮影)


地図は三日月堀の位置。











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Posted on 2014/09/13 Sat. 07:25 [edit]

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