らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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月生城 (上高井郡高山村高井水中)  

◆川中島の戦いにちなんだ伝承が残る城◆

掲載した城と城館の数が500を超えたのは目出度いが、未掲載の在庫の城館は増えつつあり100を越えている。

別に生鮮品では無いので腐る事は無いにしても、写真撮影した場所の記憶が消えて「ここは何処?私は誰?」(汗)

今回ご紹介するのは美しき名を冠する「月生城」(つきおいじょう)。城主・城歴が不明という謎の城である。

月生城(上水内郡高井村) (3)
雨引城からの道が途中で消えて崖を決死の覚悟でトラバースしながら辿り着いた南尾根。(写真は城域手前の堡塁の位置)

【立地】

月生城は明覚山(標高957.8m)から派生する尾根上の月生山(標高718m)一帯、水中集落の背後に築かれている。ここは大岩城のある尾根の東側になる。城域の東側は「謙信道」と呼ばれる灰野峠への道が通っていて、この道との関連を抜きには考えられない。北西0.8kmには大岩城、北北東1.9kmには城山城があり、背後の尾根を登り切ると雨引城になる。

月生城(上水内郡高井村) (12)
郭3手前の堀切㋗。岩石の露出した堀切は往時の難工事を物語る。

月生城(上水内郡高井村) (10)
西斜面に下る堀切㋗。伐木を堀に捨てるのは止めていただきたい・・・

【月生城と謙信道】

月生城のすぐ東側には「謙信道」と呼ばれる道が通っている。謙信道とは、川中島の戦いの際に越後(新潟県)の上杉謙信が通ったという道である。謙信道は、謙信の本拠地春日山城(新潟県上越市)から富倉峠(飯山市)を越えて信濃に入り、飯山市・木島平村・山ノ内町・中野市の山間部をへて高山村に至る。高山村内は、小池峠(中野市境)から牧・黒部・久保・月生城の東側を通過して、灰野峠(はいのとうげ 須坂市境)から須坂市の仙仁、長野市の保科・大室へ続いている。

月生城(上水内郡高井村) (13)
郭3(30×10)

月生城見取図②
縄張り図。東側を通る灰野峠(はいのとうげ)に対しての防御を意識している事がわかる。

【城主・城歴】

月生城に関する史料は全く無く、築城年代や築城者等は不明である。西側の尾根にある大岩城を本城とする大岩系須田氏(上杉氏を頼って越後へ落ち延びた)との関わりも充分考えられるが、武田方の侵略に伴い上杉方の防衛拠点⇒武田方の飯山口への前進拠点へと改修された事もかんがえられようか。

謙信道(推定)
中央を流れる松川を境として北が高梨領、南が大岩系須田領であった。

月生城(上水内郡高井村) (23)
南東から見た堀切㋖。

月生城(上水内郡高井村) (20)
南東尾根と東尾根の間は堀底に土塁をかさ上げして二重堀切を形成。沢からの敵兵の横移動を阻止している。

月生城(上水内郡高井村) (37)
堀切㋖は西斜面に対して畝状の堀㋕を増設している。

月生城(上水内郡高井村) (58)
西側の斜面に残る畝状の堀㋔。(郭2から西斜面を見下ろす)上杉方の築城技術と見る方もいる。

【川中島の戦いに関する伝承】

上杉軍が月生城の山麓に三千頭の軍馬を隠し、川中島に出撃したという伝承がある。灰野峠側には「牧ノ平」「間瀬口」など、馬の生産に関する地名があり、古代、高山村には高位牧(たかいまき)があり、馬の生産が盛んだったという。
また、月生城の東側の麓には「勝負田」と呼ばれる水田地帯がある。勝負田の向かい側には「上野」という地名もある。弘治三年(1557)、第三回川中島の戦いは、上野が舞台となった。上野の地は現在の長野市若槻上野が有力視されているが、謙信道や「勝負田」などの地名から、月生城周辺とする説もある。
※「探訪信州の古城」(2007年 郷土出版社)の月生城の酒井健次氏の解説記事より引用

月生城(上水内郡高井村) (47)
主郭を外周する郭と西尾根の接続部分は堀切㋒で断ち切っている。この尾根の先には堀切一条のみの防御である。

月生城(上水内郡高井村) (51)
大手道と思われる北尾根の付け根を遮断する堀切㋑。

月生城(上水内郡高井村) (50)
東側部分の美しい切岸。在地土豪の技術レベルと土木工事量では無い事がわかる。

【城跡】

特筆すべきは城域東側の厳しい防御であろう。東尾根と南東尾根には「笹曲輪」(ささくるわ 段郭のひとつ)が階段状に多数設けられている。また、北側の尾根を遮断する堀切㋑は竪掘と横堀を組み合わせた八の字状の堀がみられる。笹曲輪と八の字堀の組み合わせは武田氏の築城法とも云われている。
また、主郭の西側には畝状の堀が何本かみられ、この技法は上杉氏の築城法の特色だとも伝わる。

月生城(上水内郡高井村) (64)
郭1には標柱がある。上書きされた塗料剥がれてしまい、明治三十年の記載と平成三年の記載が共に消えかかっている

月生城(上水内郡高井村) (65)
郭1から見た郭2。左側(西側)に対して土塁が確認出来る。

月生城(上水内郡高井村) (66)
北尾根側の外郭から虎口が入る。

城歴は不明というものの、大勢力による交互の改修が施されたようである。甲越間の軍事的衝突が避けられなくなった時期に大岩須田氏の支城だった月生城を上杉軍が改修し、その後、北信濃が武田の支配下となった時に前線基地として武田軍が改修したものであろう。
松川を越えた高梨領にある枡形城(山田城)は非常によく似た縄張りで、こちらも謙信道を抑える要衝にあった事から、同じように上杉・武田の改修を受けたものと思われる。

月生城(上水内郡高井村) (67)
郭2の端には天水溜めのような窪地がある。

月生城(上水内郡高井村) (69)
東尾根には20段以上の笹曲輪が展開する。我々信濃先方衆には踏査する体力すら残っていなかった・・・(汗)

月生城(上水内郡高井村) (60)
土手付きの堀切㋘。東斜面の竪掘として増設されたものであろう。

月生城(上水内郡高井村) (69)
東尾根は笹曲輪と呼ばれる二十段以上の段郭の防御構造だ。

月生城(上水内郡高井村) (28)
東尾根のV字型の段郭。

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南東尾根から見た東尾根。数段の笹郭は数条の堀切よりも防御効果は高い。

月生城(上水内郡高井村) (76)
北尾根より見上げた主郭方面。

月生城(上水内郡高井村) (80)
かつての大手道であったという北尾根を下るが、途中で道が消えてしまう・・・(汗)



≪月生城≫ (つきおいじょう)

標高:718m 比高:210m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上高井郡高山村高井水中
攻城日:2014年4月20日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:?分 駐車場:迷惑のかからぬように路駐。
見どころ:段郭、堀切、土塁、など
注意事項:雨引城からのルートは途中で道が喪失し崖になるのでお勧めしません。淨教字からのルートが一般的。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編⑧ 2013年 宮坂武男著」、「探訪信州の古城」(2007年 酒井健次記述の月生城)
付近の城跡:雨引城、大岩城、城山城、枡形城など

月生城(上水内郡高井村) (93)
北の大手道にあたる淨教寺付近から撮影した月生城遠景。










Posted on 2014/10/19 Sun. 22:06 [edit]

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