らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
1030
岩井城 (中野市岩井・飯山市吉) 
◆甲越戦争における飯山方面の最前線◆
このところ信州ではクーさんの出撃目撃情報が例年になく多く、刃傷沙汰に及ぶ事件も発生している。
「クーさん、殿中でござる!!」などと叫んでも言葉は通じません・・・(汗)
さりとて山中を徘徊せねばならぬ身の上ゆえ、「早いとこ冬眠しておくれやす・・・」と願うこの頃ではある・・(笑)

登り口の木島神社から見た綱切橋。謙信が退却の際にここで渡河し、追手が渡れぬよう綱を切ったという言伝えが残る。
【立地】
千曲川の右岸で、高社山(1351m、別名:高井富士)の北側の外輪山の一角に位置する。山の上の尾根は古道として中野地方と木島地方を結ぶ道で戦国時代においては戦略上重要な場所でもあった。
ここから千曲川流域の諸城は余すことなく見渡せるロケーションでもある。

ここから飯山城は目と鼻の先にある。
【城主・城歴】
岩井城は、謙信・景勝の信任の厚かった岩井氏が築城したと伝わる。岩井氏の経歴については以下を参照願いたい。
岩井氏は高井郡岩井(中野市)を本貫とした武士で高梨氏と同族だった(「天文日記」)。その後昌能・信能父子は武田の侵略により越後へ逃れ上杉謙信のもとで活動した。永禄十一年(1568)には飯山城が武田信玄の急襲で乗っ取られたとき、上杉謙信が城将の泉一族を叱責する使者として昌能がみえる。岩井家は御館の乱では、景勝方と景虎方に分裂した。景勝側についた信能は景勝重臣として頭角をあらわした。

飯山城の鎮護として勧進された飯綱宮。天文二年(1533)に飯山城主だった泉重信の造成として伝わる。
特に武田氏滅亡後、信能(のぶよし)は海津以北の諸侍に上杉家に帰属させる工作を行ったり、昌能や尾崎氏ら外様地域の諸士が旧地飯山領に攻め込んだ時、自らも協力したいと景勝に申し出るなど積極的に活動した。
こうして天正十年六月には替佐・静間・蓮・岩井を与えられ、翌十一年には飯山城将となった。さらに海津城副将の屋代秀政が徳川方に内応したため、急遽海津城に入城、さらに牧之島城将芋川氏の援軍に出陣した。
飯山城は慶長三年まで信能が城将で、町作りや城普請にも尽力した。慶長三年の会津移封で信能は宮代城将として6000石を得た。慶長六年、米沢への移封では国替奉行として上杉家臣団の安全な移動をはかった。信能は大坂の陣に出陣、元和六年(1620)没。
(長野県立歴史館 平成十九年度秋季企画展「武田・上杉・信濃武士」の展示図録のP84の解説文引用)

笹郭と八の字堀、長い竪堀と横堀の組合せは武田主体の改修だが、織田の来襲に備えた景勝も手を入れたであろう。

木島神社(飯綱宮)からのコースは結構な距離を歩く。城域の東側の林道から登るコースもあるが藪が酷いらしい。
武田統治時代には永禄十一年(1568)にこの地域は市河信房に与えられ、武田が滅亡後の天正十年(1582)には上杉景勝も引き続き市河氏に本領を安堵している。
岩井氏が越後へ去った後は、武田氏が改修しその管理を市河氏に委ね、御館の乱後に武田が滅び織田軍の進攻の脅威に晒されると、上杉による改修が行われたとみるべきであろうか。

城域への入口には旗塚の址が数基確認出来る。この尾根に立てればさぞかし目立ったであろう。
【城跡】
頂部を中心にした三つの郭に横堀と竪掘り組み合わせた連郭式の山城である。北から東、南の尾根にかけて腰郭(段郭)を設置し備えはなかなか厳重である。
少し前までは手入れされていたようだが、現在は藪が酷く手入れもされていない状態で荒れ放題。郭2とその周辺は熊笹に覆われ横堀等の遺構を確認するのはかなり厳しい。

堀切㋙。帯郭のように見えるが、横堀にする途中で放棄されたようだ。

堀切㋘。土手付き堀とは言うものの、単に掘り出された土を堀の縁に盛り上げただけのことだ。

堀切㋘の北斜面は竪掘となり攻め手の横移動を阻止している。

隣接するように東隣に増設された竪掘。往時はもっと深かったと思われる。
●堀切で守られた西尾根
この城の指向特性(防御方向)を特定するのは困難であり、飯山城の支城としては南に向けた防御を備え、武田の飯山攻めの拠点としては西尾根を増設していたと思われる。

膝上まで生い茂る藪だらけの急斜面を登る。何が潜んでいるか分からない恐怖だ・・・(汗)

堀切㋗は中央に土橋が入っている。すぐ上に堀切㋕を置いて二重堀切としている。

横堀⇒竪掘となる北斜面の堀切㋗。藪が少なく辛うじて撮影出来た。

変則的な二重堀仕様の堀切㋕。
●城の中心部
台形の主郭を中心に三つの郭で構成される。周囲を囲むように帯郭+横堀が巡らされ東側斜面に対しては竪掘を二条入れ間に段郭を構える強固な構えである。
地元では烽火台として伝わっているようだが、その姿は激戦区として戦国末まで使用された戦国の城であろう。

堀切㋕から郭3を見上げる。

郭3(18×18)

郭3と郭1の間の堀切㋔の処理(北斜面)

藪に覆われた主郭に建てられた説明板。地元の方に大切にされていたという昭和の良き時代の名残りである。

郭1(24×20)。前後の堀切手前に土塁があるだけで全周していた形跡は認められない。
●技巧的な郭2周辺
残念ながらこの城の一番美しいはずの郭2と周回する横堀+竪掘の組合せは、熊笹と藪で覆われ写真撮影はおろか見る事も叶わない状態である。ここの部分の縄張りは大峰城と枡形城に似ており、原形はここだったのか、と思わせるに充分である。

主郭背後の堀切㋓と郭2の間の堀切㋓。この先でT字路になる技法が素晴らしいが、藪で何が何だか・・(汗)

腰まで埋まる熊笹が密生している郭2(45×25)。得体のしれない生物が登場する恐怖に恐れおののく始末・・(汗)

郭2を周回する堀切㋒。補助線を引いても無理がある。

「勇者」の称号を貰っても歩きたくなかった横堀㋒。小生は「愚か者」で「冒険者」では無いのだ・・(笑)
キチンと整備されれば、物凄い遺構を持つ「戦国の城」である。残念ながらその価値は我々のようなヲタクでしか理解出来ず、地元の皆さんの協力を得て再度公園化するには無理があると思われる。
それでも、昭和の高度成長期には歴史に興味を持つ方々が郷土の歴史を伝えようとした場所である。
我々が伝えねば、誰が伝える?・・・そう思いつつ、いつかまた陽の目を見る事を信じて止まないのであります。

城跡から辛うじて見える壁田城(へきだじょう)。
≪岩井城≫ (いわいじょう 吉の城山)
標高:544.5m 比高:230m
築城年代:不明
築城・居住者:岩井氏、市河氏
場所:飯山市吉/中野市岩井
攻城日:2014年5月11日
お勧め度:★★★★☆ (藪が無ければ満点)
城跡までの所要時間:60分(木島神社より) 駐車場:特に無し。路駐。
見どころ:横堀、竪掘、笹郭、土塁など
注意事項:長袖長ズボン、長靴または登山用のトレッキングシューズ。藪や笹が多いので蛇対策は必須。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編⑧ 2013年 宮坂武男著」「平成19年度 長野県立歴史館 秋季企画展図録」

蓮城方面から見た岩井城遠景。
このところ信州ではクーさんの
「クーさん、殿中でござる!!」などと叫んでも言葉は通じません・・・(汗)
さりとて山中を徘徊せねばならぬ身の上ゆえ、「早いとこ冬眠しておくれやす・・・」と願うこの頃ではある・・(笑)

登り口の木島神社から見た綱切橋。謙信が退却の際にここで渡河し、追手が渡れぬよう綱を切ったという言伝えが残る。
【立地】
千曲川の右岸で、高社山(1351m、別名:高井富士)の北側の外輪山の一角に位置する。山の上の尾根は古道として中野地方と木島地方を結ぶ道で戦国時代においては戦略上重要な場所でもあった。
ここから千曲川流域の諸城は余すことなく見渡せるロケーションでもある。

ここから飯山城は目と鼻の先にある。
【城主・城歴】
岩井城は、謙信・景勝の信任の厚かった岩井氏が築城したと伝わる。岩井氏の経歴については以下を参照願いたい。
岩井氏は高井郡岩井(中野市)を本貫とした武士で高梨氏と同族だった(「天文日記」)。その後昌能・信能父子は武田の侵略により越後へ逃れ上杉謙信のもとで活動した。永禄十一年(1568)には飯山城が武田信玄の急襲で乗っ取られたとき、上杉謙信が城将の泉一族を叱責する使者として昌能がみえる。岩井家は御館の乱では、景勝方と景虎方に分裂した。景勝側についた信能は景勝重臣として頭角をあらわした。

飯山城の鎮護として勧進された飯綱宮。天文二年(1533)に飯山城主だった泉重信の造成として伝わる。
特に武田氏滅亡後、信能(のぶよし)は海津以北の諸侍に上杉家に帰属させる工作を行ったり、昌能や尾崎氏ら外様地域の諸士が旧地飯山領に攻め込んだ時、自らも協力したいと景勝に申し出るなど積極的に活動した。
こうして天正十年六月には替佐・静間・蓮・岩井を与えられ、翌十一年には飯山城将となった。さらに海津城副将の屋代秀政が徳川方に内応したため、急遽海津城に入城、さらに牧之島城将芋川氏の援軍に出陣した。
飯山城は慶長三年まで信能が城将で、町作りや城普請にも尽力した。慶長三年の会津移封で信能は宮代城将として6000石を得た。慶長六年、米沢への移封では国替奉行として上杉家臣団の安全な移動をはかった。信能は大坂の陣に出陣、元和六年(1620)没。
(長野県立歴史館 平成十九年度秋季企画展「武田・上杉・信濃武士」の展示図録のP84の解説文引用)

笹郭と八の字堀、長い竪堀と横堀の組合せは武田主体の改修だが、織田の来襲に備えた景勝も手を入れたであろう。

木島神社(飯綱宮)からのコースは結構な距離を歩く。城域の東側の林道から登るコースもあるが藪が酷いらしい。
武田統治時代には永禄十一年(1568)にこの地域は市河信房に与えられ、武田が滅亡後の天正十年(1582)には上杉景勝も引き続き市河氏に本領を安堵している。
岩井氏が越後へ去った後は、武田氏が改修しその管理を市河氏に委ね、御館の乱後に武田が滅び織田軍の進攻の脅威に晒されると、上杉による改修が行われたとみるべきであろうか。

城域への入口には旗塚の址が数基確認出来る。この尾根に立てればさぞかし目立ったであろう。
【城跡】
頂部を中心にした三つの郭に横堀と竪掘り組み合わせた連郭式の山城である。北から東、南の尾根にかけて腰郭(段郭)を設置し備えはなかなか厳重である。
少し前までは手入れされていたようだが、現在は藪が酷く手入れもされていない状態で荒れ放題。郭2とその周辺は熊笹に覆われ横堀等の遺構を確認するのはかなり厳しい。

堀切㋙。帯郭のように見えるが、横堀にする途中で放棄されたようだ。

堀切㋘。土手付き堀とは言うものの、単に掘り出された土を堀の縁に盛り上げただけのことだ。

堀切㋘の北斜面は竪掘となり攻め手の横移動を阻止している。

隣接するように東隣に増設された竪掘。往時はもっと深かったと思われる。
●堀切で守られた西尾根
この城の指向特性(防御方向)を特定するのは困難であり、飯山城の支城としては南に向けた防御を備え、武田の飯山攻めの拠点としては西尾根を増設していたと思われる。

膝上まで生い茂る藪だらけの急斜面を登る。何が潜んでいるか分からない恐怖だ・・・(汗)

堀切㋗は中央に土橋が入っている。すぐ上に堀切㋕を置いて二重堀切としている。

横堀⇒竪掘となる北斜面の堀切㋗。藪が少なく辛うじて撮影出来た。

変則的な二重堀仕様の堀切㋕。
●城の中心部
台形の主郭を中心に三つの郭で構成される。周囲を囲むように帯郭+横堀が巡らされ東側斜面に対しては竪掘を二条入れ間に段郭を構える強固な構えである。
地元では烽火台として伝わっているようだが、その姿は激戦区として戦国末まで使用された戦国の城であろう。

堀切㋕から郭3を見上げる。

郭3(18×18)

郭3と郭1の間の堀切㋔の処理(北斜面)

藪に覆われた主郭に建てられた説明板。地元の方に大切にされていたという昭和の良き時代の名残りである。

郭1(24×20)。前後の堀切手前に土塁があるだけで全周していた形跡は認められない。
●技巧的な郭2周辺
残念ながらこの城の一番美しいはずの郭2と周回する横堀+竪掘の組合せは、熊笹と藪で覆われ写真撮影はおろか見る事も叶わない状態である。ここの部分の縄張りは大峰城と枡形城に似ており、原形はここだったのか、と思わせるに充分である。

主郭背後の堀切㋓と郭2の間の堀切㋓。この先でT字路になる技法が素晴らしいが、藪で何が何だか・・(汗)

腰まで埋まる熊笹が密生している郭2(45×25)。得体のしれない生物が登場する恐怖に恐れおののく始末・・(汗)

郭2を周回する堀切㋒。補助線を引いても無理がある。

「勇者」の称号を貰っても歩きたくなかった横堀㋒。小生は「愚か者」で「冒険者」では無いのだ・・(笑)
キチンと整備されれば、物凄い遺構を持つ「戦国の城」である。残念ながらその価値は我々のようなヲタクでしか理解出来ず、地元の皆さんの協力を得て再度公園化するには無理があると思われる。
それでも、昭和の高度成長期には歴史に興味を持つ方々が郷土の歴史を伝えようとした場所である。
我々が伝えねば、誰が伝える?・・・そう思いつつ、いつかまた陽の目を見る事を信じて止まないのであります。

城跡から辛うじて見える壁田城(へきだじょう)。
≪岩井城≫ (いわいじょう 吉の城山)
標高:544.5m 比高:230m
築城年代:不明
築城・居住者:岩井氏、市河氏
場所:飯山市吉/中野市岩井
攻城日:2014年5月11日
お勧め度:★★★★☆ (藪が無ければ満点)
城跡までの所要時間:60分(木島神社より) 駐車場:特に無し。路駐。
見どころ:横堀、竪掘、笹郭、土塁など
注意事項:長袖長ズボン、長靴または登山用のトレッキングシューズ。藪や笹が多いので蛇対策は必須。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編⑧ 2013年 宮坂武男著」「平成19年度 長野県立歴史館 秋季企画展図録」

蓮城方面から見た岩井城遠景。
スポンサーサイト
Posted on 2014/10/30 Thu. 21:36 [edit]
« p r e v | h o m e | n e x t » |