らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

1009

中野小館 (中野市中野)  

◆北信濃最大の中世居館跡◆

平時は麓の居館で政務を執り、戦時は背後の険しき要害(詰めの城)に籠り侵略者に対抗する・・・

いわゆる中世戦国時代における「城館一体型」(館と山城のセット)については賛否両論があり、色々な方々の意見を読んだり聞いたりするのであるが、イマイチ決め手に欠く。

当初は戦など起きる事など想定せずに、領主が所領を統治するのに都合のよい場所に建てた居館だったはずである。

それが風雲急を告げる戦国時代に突入していくと、近くに山など無い平野部では居館を戦闘用に改修せざるを得なくなり、山間部の猫の額ほどの狭い居館に至っては改修するスペースも無いので、背後の山に専用の防御施設を作り始めた・・・案外そんな理由だけかもしれない。

高梨氏館跡 (3)
この中世の素晴らしい遺構を自ら買い取って後世に残してくれた高梨家旧臣畔上氏には感謝ですw

今回ご紹介するのは、中世の城館の基礎が学べる方形居館の「中野小館」(なかのおだて・高梨氏館跡)
ここのパーツが理解出来ると、山城は基本パーツの応用なので難しく考える必要がなくなるので、お勧めだ。

高梨氏館跡 (4)
居館の内部への入口は「虎口(こぐち)」と呼ばれる。中野小館の三ヶ所の虎口は冠木門(かぶきもん)だったという。

【立地】

中野扇状地の東側に聳える大平山の西麓で大日神社の西隣りにある。高台なので、中野盆地は一望出来る位置にあり、東虎口は搦め手とされ、鴨ヶ岳城に通じている。

高梨氏館跡 (6)
美しい薬研掘(やげんぼり 巾は約8m)と復元された木橋。

【城主・城歴】

築城年代について「高梨由来記」の観応二年(1351)築城説含め諸説あるが、中野氏の館跡を永正の頃(1504~1520)に高梨政盛・澄頼父子が大修築したものである。
武田信玄の北信濃侵攻により高梨政頼が飯山城に退去した後は、武田に降った高梨氏の旧臣である小島氏が入城し、武田滅亡後は上杉景勝に旧領安堵された小島氏が引き続き居住するが、天正十八年に高梨頼親が小島氏の協力もあって悲願の本城復帰を果たす。
その後慶長三年(1598)、景勝の会津転封により高梨氏もこの地を去り廃城となる。

中野小館見取図

その後の寛永六年(1666)、高梨氏の旧臣畔上新兵衛(あぜがみしんべえ)が館跡を買取り、尾張高梨家に差し上げ、天和年間(1681~1684)畔上六兵衛らが、尾張高梨家と交渉して開墾し、以来年々方物を尾張高梨家へ送ったという。
明治九年(1876)、尾張高梨家の末裔が移り住んで以降、高梨氏の所有であったが、昭和六十一年(1986)に高梨家から譲り受け、居宅部分を残して中野市の所有となった。
※尾張高梨家は高梨政頼の後を継いだ喜三郎の長男。喜三郎は御館の乱の際に誅殺され宗家は弟の頼親が継いだ。


高梨氏館跡 (9)
発掘調査により、居館を囲む土塁は元々築地塀で内側に堀が巡っていたものを二度の改修で現在の形にした事が判明。

【城跡】  ※信濃高梨一族 (平成19年 志村平治著 P166~168の本文引用)

昭和61年から平成4年にわたって「高梨氏居館跡公園」整備のため発掘調査が行われた。
その結果、館内の南東から庭園跡、門跡一棟、中央部から礎石建物址五棟、掘立建物址七棟、計十二棟の建物址群、南と南西の土塁からは新たに虎口や水路などが見つかった。また、多数の中世土師器(はじき)や陶器・珠洲焼(すずやき)・古銭が出土した。土塁の三段階以上の構築過程等も確認され、中部地方の中世史・戦国時代史を考える上で、武士団の文化レベルや方形館の発展過程を示すものとして高く評価され、高梨氏館跡は、平成十九年(2007)二月六日付けで国の史跡に指定された。

高梨氏館跡 (7)
南虎口から西側の大手虎口に向けての堀跡。

高梨氏館跡 (11)
居館の東半分には庭園跡があり建物12棟の内の主殿を含む8棟が集中している。

高梨氏館跡 (19)
池は後期バージョンがの枯山水仕様が復元され、滝石組・護岸石などの露出と修復を行い、築山などの地形を再現している。

庭園跡は館の東南隅に鴨ヶ岳を背景に池が造られている。枯山水の庭園である。東南隅に三個の石組みからなる滝があり、この石組の裏に北から続く水路が巡らされている。この石組の間から水を落としたとみられ、池が広がっていた。池の岸は山石や河原石で囲まれ、複雑な汀(みぎわ)線を構成している。池の周囲には回遊の園路が設けられ、水路にも蓋石が置かれていた。池の中央には「中島」と考えられる石組みもあり、京都の文化を取り入れた庭園である。

高梨氏館跡 (20)
池から北側はこんな感じ。

高梨氏館跡 (30)
北東の土塁の上から見ればこんな感じであろうか。

高梨氏館跡 (26)
搦め手から見た南へ続く堀。

高梨氏館跡 (32)
居館北側の薬研堀。これだけの遺構が残っているとは凄い事である。

城館の周囲に残る地名は「館回り」くらいで、城館集落の様子をよく伝えていないが、やや離れた北西の方角(松川地籍)に「馬場」や高梨氏の建立した「阿弥陀堂」地名が見える。それに続いて南に「西屋敷」・「笠屋敷」があり、さらに城館の南方に「市道」・「屋敷添」・「東屋敷」・「西屋敷」があるから、集落は城館の西方(市街地)から南方(下小田中)にかけて展開していたものとみられる。
城館の東方から北方にかけては屋敷地名が少なく、かわって、「如法寺」・「寺西」(常楽寺か)・「霊閑寺」・「阿弥陀堂」(前記)地名が見え、寺が集まっている。当時はまだ兵農未分離であったから、家臣としては重臣や高梨惣領の直轄する足軽・中間クラスしか城館周辺に集住せず、他の家臣はほとんど在郷・在村していたのである。

しかし、農工・農商未分離に近い商工業者も若干在住し、地名「市道」に示される如く、市座のある六斎市場をもった領域内の流通経済上の中心をなしており、高梨氏がこれを統制していたものと見られる。だがそれは、近世城下町の縮図の如きものではなく、中世的な淋しい城下集落にすぎなかったものとみられる。
※中野市誌 歴史編(昭和56年 湯本軍一)よりP317~318引用

高梨氏館跡 (34)
北西と南西の土塁の隅には物見またはそれに類する櫓が置かれていたと考えられる。(写真は北西の土塁)

高梨氏館跡 (35)
高梨家の末裔の方の住居と北側の土塁。土留めの河原石の石積みが見られる。

高梨氏館跡 (36)
北側の虎口。高梨家の末裔が移り住んだ時に新たな通路で改修されたような気がする。往時は無かったと思うが。

高梨氏館跡 (41)
本来の大手虎口。単なる平虎口で何の工夫も無い。京風の邸宅には戦仕様の門などありえませんもの(笑)

高梨氏館跡 (44)
西側の堀切。土留めの石積みは後世のものであろう。

高梨氏館跡 (45)
南西の土塁上にも隅櫓があったという。

意外と認知度の低い北信濃の名族高梨氏。

中興の祖と云われる高梨政盛は、越後の守護代となった長尾為景の同盟軍として関東管領であった上杉顕定を永正六年(1509)に長森原の戦いで破り首級をあげている。

その孫の政頼は越後守護代の長尾晴景を廃嫡し出家していた長尾景虎(のちの謙信)を還俗させて越後国主として擁立し、時の関東管領上杉定美にこれを認めさせた。
高梨氏の功績が無ければ、謙信さんは信玄さんと戦うことは無かったのである・・・(汗)

まあ、ここまでは良かったのですが、そのあとがパッとせず衰退の一途を辿ります。それも定めか・・・・

高梨氏館跡 (40)
大手虎口から見た居館内部と背後の詰め城城塞群。

≪中野小館≫ (なかのおだて 尾楯城、小館城、中野御館 国指定史跡)

標高:382mm 比高:-
築城年代:不明
築城・居住者:中野氏、高梨氏
場所:中野市中野
攻城日:2013年6月23日 
お勧め度:★★★★★(満点)
城跡までの所要時間:-分 駐車場:無料駐車場有り
見どころ:郭、土塁、堀切、石積み跡など
付近の城跡:鴨ヶ岳城、鎌ヶ岳城、箱山城、菅の山城など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃高梨一族」(平成19年 志村平治著)、「信濃の山城と館⑧」(平成13年8月 宮坂武男著)、「中野市誌 歴史編」(昭和56年 湯本軍一)

鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(中野市) (80)
鴨ヶ岳城より見た中野小館(ズーム5倍)









スポンサーサイト

Posted on 2014/10/09 Thu. 20:14 [edit]

CM: 4
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top