らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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曽根城 (佐久市小田井)  

◆城歴不明な田切地形の崖淵城◆

「信州人の一つ残し」という言葉がある。

これについて、小生は以下のような解釈をしているが、異論は無いと思うがどうであろうか?

ご馳走というのは失礼の無いように余す事無く全て食すのが礼儀であるが、取り皿形式の食事で、遠慮して次の人の為に皿に一つだけ品を残す風習を指す。
いっけんすれば慎み深いように思えるが、最後にその一品を食べたヤツは「食い意地の張った意地汚いヤツ」というレッテルが張られてしまうので、実に厄介な風習である・・(笑)

毘沙門天①
典厩寺の閻魔堂に描かれた「みんな大好き毘沙門天!」

今回ご案内するのは、田切地形を取り入れた方形城館の「曽根城」(そねじょう)

曽根城 (1)
城域の北側を遮断する天然の田切地形。嘗ては濁川の氾濫原だったと思われる。

【立地】

岩村田の北端、御代田町(みよたまち)との境界線になり、濁川(にごりがわ)によって形成された田切地形の段上に形成された崖淵城である。北東500mに小田井城の支城の戸谷城があり、同じ濁川の田切に立地している。

曽根城見取図①
全体的には菱形だが中心は方形居館である。

曽根城 (4)
上巾21mの巨大な横堀㋐。

【城主・城歴】

文献上の記録もほとんど無いようだが、遺構からは古代末期の様式とみられ、根々井の道本城落合城の縄張りによく似ている。

曽根城 (5)
堀切㋐方面から見た南側。広大な城域である。

曽根城 (9)
郭2の東側。段差が付けられているが、往時の遺構かは不明。

【城跡】

濁川の田切地形を利用し回字形の縄張りを持つその様式は、場所は違えども道本城と良く似ている。同じ時代の築城であろうか。
主郭1には民家が建つが、東側には堀形が残り、広大な郭2も耕作地に変形しているものの、濁川によって出来た田切地形を天然の外堀として構えていた状況が把握出来る遺構が良く残っている。
残念ながら道路の貫通により主郭を囲む横堀の一部が壊滅してしまい、西側の状況が不明朗になったが、全体的には往時の雰囲気が残る。

曽根城 (10)
北側から見た堀切㋑。上巾10mで良好に遺構が残る。

曽根城 (13)
濁川の渓谷のような深い田切地形が天然の巨大な堀切となって城域南側を防御している。

曽根城 (16)
南側から見た堀切㋑。

畑で作業していたご夫婦に撮影許可を求めてお話を伺うと、このあたりの地名は昔から「城(じょう)」と言われているという。城館の址だとは知らなかったようだ。

曽根城 (17)
西側から見た主郭方面。

曽根城 (18)
主郭北側の堀は埋め立てられてしまい、消滅している。

戦国末期の松平康国(天正壬午の乱で徳川方として佐久平定に功績を残し岩尾城攻めで討死した依田信蕃の息子)の統治時代に、一揆鎮圧の為の詰所が置かれたという言い伝えもあるが、それは曽根新城(そねあらじろ 佐久IC工事で消滅)ではないかとも云われている。

源平合戦と回字形の居館・・・何か楽しいと思うのは小生だけであろうか?
防御の指向性は東なので、小田井さんちとの抗争拠点だったようにも思えるのだが・・・・。

曽根城 (24)
浅間山は歴史の生き証人であるが、黙して語る事は無い・・・・

≪曽根城≫ (そねじょう)

標高:756m 比高:15m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市小田井
攻城日:2014年10月19日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:無し (路駐不可)
見どころ:堀切
注意事項:耕作地なので田畑への無断侵入不可。
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編」(2013年 宮坂武男著) 「定本 佐久の城」(1997年 郷土出版社)
付近の城址:小田井城、平尾城、大井城、藤ヶ城、金井城など

曽根城 (27)
道路の反対側から見た郭1.






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Posted on 2014/11/06 Thu. 21:52 [edit]

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