らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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2014年の山城納め  

◆早すぎる冬将軍に鉄槌を!!◆

僅かの晴れ間を衝いて年の瀬も近づいた28日、2014年度の山城収めを敢行する。
と言っても、ツイッターで諸先輩方が「●●城 なう」などと実況中継をしているのでチョッと真似てみたかっただけ・・(笑)

【根古屋城】(上田市真田町横尾)への再訪と城主とのご対面

上田市の市街地では雪が消えたが、真田町は標高も高く気温も低いので根雪になりつつある。
登山家ならば積雪とアイスバーンへの対策として登山靴にアイゼンを装着し膝下から靴までスノーカバーを装着するのが定番だが、アイゼンは安くても1万円前後はする。

2014山城収め (2)
元々の標高が高いので陽が当たっても融けるわけないし・・(汗)

冬山登山などまっぴら御免だが仕方なく城見たさに山に登る小生は、昨年からホームセンターで山間地で林業作業を行う人向けの「スパイクピン付き長靴」を購入し愛用している。2,000円前後で手に入り、除雪作業時にも活躍するので家人に反対される事はまずない・・趣味と実用の一石二鳥であろう・・(笑)

2014山城収め (11)
虎口とその周辺は石積み仕様。

ピーカン天気とはいえ、こんな雪深い日に登城するバカは小ぐらいであろう。雪に埋もれた遊歩道にはケモノの足跡しかない。15分ぐらいで主郭に到着する。

2014山城収め (12)
主郭と背後の土塁。んん?

この時、土塁からこちらを注視する視線と気配を感じたのである。

「これはこれは、大熊備前守朝秀殿ではござりませぬか!!」

2014山城収め (13)

実は根古屋城の城主である大熊備前守朝秀カモシカノ介(おおくまともひで)様とは、小生が城攻めを始めた5年前からのお付き合いである。

だが、本日は日光浴の最中らしく全く動く気配がないので、仕方なく近寄ると威嚇行動に出た。ヤバイ・・・(汗)

2014山城収め (14)

200kg近いカモシカ殿を相手に一騎打ちをしても勝てる見込みなどないので、仕方なく退却を選択。

2014山城収め (17)
外気温0℃(寒っ)

大熊家は代々越後守護代長尾家の重臣として仕えたという。謙信の代に仕えた箕冠城主の大熊朝秀は、越後国における内乱に疲れ果てその上に、出家騒動を起こした長尾家当主の景虎に愛想を尽かし当時売り出し中の新鋭の武田晴信に興味を持ち内通し打倒上杉を叫ぶがクーデター失敗。
ほうほうの体で越中に逃れ、その後武田方の重臣山県昌景の与力としてこの根古屋城を預かったという。

2014山城収め (7)
北斜面に向けた帯郭と対岸の洗馬城(せばじょう)方面。人工的に斜面を削った「切岸」が美しい瞬間である。

その後、武田晴信の信任を得た大熊朝秀は各地を転戦し、信玄亡きのちは勝頼に仕え遠江の小山城の城代となり徳川の侵攻を阻止する重要な役目を果たしている。天目山の戦いでは最後まで勝頼に従い自害して果てたという。

その子の長秀は真田昌幸、信之に仕え、松代藩真田家においては筆頭家老職を務める家柄にまで出世している。

根古屋城①
南から見た根古屋城全景。


【実戦で証明された丸子城の堅城ぶり】

武田が滅亡し本能寺の変で織田信長が斃れた天正十年、武田の遺領を巡り北条・徳川・上杉の三つどもえの争奪戦が始まる。いわゆる「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)である。

2014山城収め (21)
丸子城の東麓の安良居神社(あらいじんじゃ)。木曽義仲が出陣の際に戦勝を祈願したという。

当初は北条方だった真田昌幸は、武田時代のかつての同僚で徳川家康より佐久平定を任されていた依田信蕃の誘いに応じて徳川方に転じ、信蕃と共に碓氷峠で北条方の補給路を遮断し佐久での戦いを優位に進めた。
大軍を擁しながら窮地に追い込まれた北条氏直は天正十年の10月に徳川との和睦に応じたと言う。

2014山城収め (34)
城域北側の堡塁。岩盤の痩せ尾根は攻城側にとっては厳しい。

翌天正十一年2月、最後まで抵抗していた岩尾城の城攻めで依田信蕃が戦死するも城は開城し、徳川による佐久平定が完了。その一ヶ月前の1月、真田昌幸は真田勢力の勢力拡大を嫌い昌幸に従わない依田窪沿いの土豪を「徳川の命に従わない逆賊」として本題をまんまとすり替え、家康に報告と了承を得て小県郡の独力による統一を狙った。
その反真田の中心が丸子(依田)三左衛門であったという。丸子三左衛門は武田重臣馬場美濃守信春の女婿である。
真田昌幸は丸子城に籠城する丸子三左衛門とその支援勢力を攻めてこれを降し、丸子氏は真田の家臣となり小県郡の統一が完了する。

2014山城収め (36)
飯盛城(二の郭)手前。縦列で攻めるしか無いので投石だけでもかなりの損害が出るだろう。

その後、対上杉の軍事拠点として徳川直轄の城として築城された上田城が、昌幸の願いにより家康より下賜された。(あくまでも推測ですが・・)もちろん、家康は北条との和睦の条件である真田の沼田城の引き渡しを前提とした意図があったと思われるが、この駆け引きは昌幸のが上手だったのは言うまでも無い。

2014山城収め (39)
二の郭手前のほぼ垂直の切岸。

こうして沼田引き渡しを拒否した真田昌幸は徳川に反旗を翻し天正十三年8月、第一次上田合戦が勃発する。
この時、上田城の後詰めの城となったのが丸子城で丸子三左衛門の弟の丸子平内が城主だったらしい。

2014山城収め (41)

8月2日、徳川軍は七千の兵で上田城攻めを敢行するも昌幸の計略にかかり手痛い敗退となる。陣場砦の本陣で態勢を立て直しを計るが、上田城を出て尾野山城に陣取った真田軍と長瀬付近にて小競り合い。

8月20日、攻撃の矛先を丸子城に転じてこれを攻めるが、真田昌幸・信幸父子が後詰めとして出陣し丸子表(手城塚・丸子河原)で激しい合戦となるが、初戦の敗戦のショックで徳川の将兵の士気が上がらず結局丸子城も落とせないまま小諸へ撤収となった。(丸子表の戦い)

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飯盛城(二の郭)に建つ模擬望楼。

2014山城収め (45)
三才山峠(みさやまとうげ)を越えると松本深志へ

この間、秀吉より真田支援の密命を受けた上杉景勝よりの援軍が続々と到着し、戦闘で傷んだ上田城の修築が急ピッチで進められた。

一方で徳川家康は真田に対してリベンジすべく伊那衆の松岡、小笠原、大嶋、飯島などの諸氏に対して出陣を命じ、北条方に対しても上野国の真田領である沼田、岩櫃を攻略するよう依頼している。

まあ、この仁義なき戦いは徳川方の重臣である石川数正の豊臣秀吉への出奔という衝撃の事態で一旦中断となる・・。

2014山城収め (57)
二郭背後の堡塁。

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主郭手前の二重大堀切。

2014山城収め (86)
主郭の井戸跡。

大勢力だった北条さん、天正壬午の乱では、徳川方の依田信蕃と真田昌幸に見事にやられちゃいました(笑)

依田信蕃さんは武田さん時代には二俣城城代、田中城代として徳川軍相手に一歩も引かない知略の将で、そこを家康さんに見込まれて佐久平定に邁進し、あと一歩というところで猪武者に変身してしまい岩尾城攻略中に討死(汗)。

天正壬午の乱以降の家康さん、まんまと善良な田舎の豪族どもを騙して川中島四郡を除く信濃・甲斐の二カ国を手に入れたが、小信玄と異名を持つ希代のペテン師真田昌幸さんに上田城は騙し取られ、報復しようとして自分の作った城も落とせず、北条さんとの約束だった沼田城も取り上げる事が出来ず泣きっ面にハチ状態、家臣には家出されるし・・(爆)

そんな事を考えながら丸子城に登るのもいいもんです・・(笑)

2014山城収め (90)
大門街道の通る依田窪地域。得体の知れない真田さんが嫌いだったのは同情出来る・・

※丸子城の記事における参考書籍:「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(平山優著 戎光祥出版 平成23年)











Posted on 2014/12/30 Tue. 13:44 [edit]

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