らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0117
旭山砦 (朝日山之塁 北杜市高根町村山) 
◆甲斐侵攻を企てた北条氏直の陣城◆
甲斐の国といえば、戦国時代の早くから武田氏により統一された為に争乱とは無縁だったように思われるが、天正十年三月に織田信長による甲州征伐で武田が滅亡し、その直後の六月に本能寺で信長が斃れると、武田旧領支配を巡り北条・徳川・上杉の三大勢力が衝突。いわゆる「天正壬午の乱」である。

北杜市高根体育館前の道路を西へ進むと標柱がありこの林道を北へ。
織田家臣のうちで本能寺の変を知った上野の滝川一益、信濃の森長可はいち早く脱出したが、甲斐の河尻秀隆は逃げる事が出来ず蜂起した一揆勢に捕縛され甲府岩窪で処刑されてしまう。
徳川家康はこの機に甲府へ軍を進めて一揆勢を制圧。勝頼が築城・放棄した韮崎の新府城を確保・修築するよう命じる一方で、三河からも伊那谷経由で軍を進め信濃へ侵入。諏訪頼忠に服従を迫るが拒否され、諏訪攻め開始。
一方、北条氏直は四万とも云われる大軍を率いて上州から信濃の佐久へ侵入。家康の命を受けた依田信蕃がゲリラ戦で抵抗。氏直は大道寺政繁に掃討を命じ、自らは北条への帰属を申し出ていた諏訪頼忠を救援すべく大門峠を越えて徳川軍と対峙。

林道を進むと「ウォーキングコース健康②」の看板があるのでここで下馬して道を行くと城域になる。
家康の後ろ盾で松本深志に復帰した小笠原貞慶だが、徳川軍の深志城への進駐を嫌い北条方に寝返ってしまう。
これにより退路を断たれる状況となった徳川軍は諏訪攻めを断念し北条軍にの追撃を受けながら辛うじて能見城・新府城まで撤退を完了した。

城域の真ん中を遊歩道が貫通しているのが残念だが、綺麗に整備されており遺構の保存状態は良い。
一方の北条氏直は若神子城を修築してここに本陣を置き、信州峠の抑えとして斑山の尾根先の獅子吼城(ししくじょう)、谷戸城も改修して兵を入れ徳川軍との決戦に備えた。
この時に陣城として「朝日山之塁」が造成されたという。

Dの虎口から見た東側の横堀。
【立地】
八ヶ岳山麓の裾野を流れる須玉川の左岸で西川との間にある旭山(911.5m)。須玉川に対しては河岸段丘となり落差を持ち、西2.5kmには谷戸城があり、対岸の津金には古宮城がある。

虎口Dから見た西側の横堀。途中から切岸を伴う平削地となり造成が途中で終わった事を物語っている。
【城主・城歴】
甲斐国誌に「朝日山ノ塁蹟(村山北ノ割村)高サ拾町余ノ突峯也 頂ニ塁郭ノ跡存セリ 遠ク四方ヲ眺ムベシ壬午ノ時 北条氏直ノ築ク所ト云伝フ 北ハ長沢 南ハ若神子ニ当ル 東麓ニ平沢ニ出ル路亘レリ 古時ノ烽火台ト見エタリ 武田ノ軍法ニ飛脚篝(ひきゃくかがり)トテ四所アルベシ 今モ其照合タル場所預カリシメシハ知ラルル処ナリト云」とある。
武田氏時代から烽火台があり、天正壬午の乱で北条氏直がここに城を築いたと言っている。
佐久往還を抑える要衝として、また、佐久経由の援軍を駐留させる目的で陣城が築かれたのであろう。

主郭は殆ど地山のまま。

山頂を示す三角点(911.5m)
【城跡】
城跡は南北に長い山頂部の主郭部と、南西の斜面に区画された副郭から成り、城域は東西100m、南北300mとかなり広大なものである。
●主郭
北の尾根を横堀で遮断しているが、東側は切岸のみで西側は帯郭と切岸が周回している。恐らく横堀を全周させる予定だったが未完で放置されたのであろう。内部はほとんど地山のままで手が加えられた形跡は見えない。

西側の帯郭と切岸。

南西のG部分。横堀を連結させる作業が途中で終わったらしい。
●郭2
主郭の遊歩道を南下すると左右に土塁が見え城跡の標柱がある場所が虎口Cである。虎口の東側に横堀を入れ斜面に対して竪掘となっている。西は土塁と短い横堀を入れただけで切岸のみで区画している。
郭2は南西の傾斜地も含めて堀切が全周しほぼ完成していたようだ。
折れ・横矢掛け・枡形を備えた厳重な装備が施された北条氏の城は、南への防御を強く意識して造られている。

虎口Cとその奥に見える郭2。

東斜面に続く横堀。宮坂氏はFは虎口ではなく、南からの出入りはこの堀底が通路だったと考察されているが・・。

虎口Cの西側の高土塁と堀跡。

城址の標柱付近から郭2の南側。枡形虎口Aと土塁が確認出来る。

見取図F付近の土塁と東斜面の堀跡。

郭2の南端の土塁と堀。折れを伴ってしっかり普請されている。

郭2の南川の出入り口(虎口A)は枡形であろう。
縄張り図では傾斜の状況が上手く表現出来ないが、郭2の西半分は傾斜のキツイ斜面である。居住性など無く、防御の為の空間である。そういう割り切りもアリですよネ。

ひたすら西斜面を下っていく防塁と堀。

西斜面下部の堀と土塁。

郭2の西半分は斜面と言う名の「空間」である。

見取図に記載したBの土橋。

郭2の北側を遮断する竪掘。まさに執念の造作物だ。

見取図G付近から斜面を見下ろす。
郭2は「空間防御」という独特な発想の元で作られているように思える。
残念ながら小生は北条さんの築城した城の縄張りの数々をほとんど知らない・・・・(汗)。東国の縄張りヲタクの最先端が北条さんなのだと言う事は噂で聞いているが・・・。
それにしても広大である。兵士兼土木作業員を大勢引き連れての甲斐侵攻作戦なので、その気になれば陣城の三つや四つは朝飯前だっただろう。
その大人数ゆえに兵站補給が出来なくなると「腹が減って戦が出来ない・・城も作れない・・」このことであった・・。

これだけじゃ何の跡なのか誰もわかりません・・・(汗)
≪旭山砦≫ (あさひやまとりで 朝日山之塁)
標高:911.5m 比高:85m
築城年代:天正十年
築城・居住者:北条氏直
場所:山梨県北杜市高根町村山
攻城日:2015年1月11日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:-分
見どころ:全部隅々まで見ましょう
注意事項:特に無し ニホンシカが生息してましたが逃亡していきました(笑)
駐車場:林道脇へ路駐。
参考文献:「甲斐の山城と館㊤」(2014年 宮坂武男著)
付近の城址:谷戸城、古宮城、若神子城など

南約3km地点から撮影。どこからも目立つ山である。
甲斐の国といえば、戦国時代の早くから武田氏により統一された為に争乱とは無縁だったように思われるが、天正十年三月に織田信長による甲州征伐で武田が滅亡し、その直後の六月に本能寺で信長が斃れると、武田旧領支配を巡り北条・徳川・上杉の三大勢力が衝突。いわゆる「天正壬午の乱」である。

北杜市高根体育館前の道路を西へ進むと標柱がありこの林道を北へ。
織田家臣のうちで本能寺の変を知った上野の滝川一益、信濃の森長可はいち早く脱出したが、甲斐の河尻秀隆は逃げる事が出来ず蜂起した一揆勢に捕縛され甲府岩窪で処刑されてしまう。
徳川家康はこの機に甲府へ軍を進めて一揆勢を制圧。勝頼が築城・放棄した韮崎の新府城を確保・修築するよう命じる一方で、三河からも伊那谷経由で軍を進め信濃へ侵入。諏訪頼忠に服従を迫るが拒否され、諏訪攻め開始。
一方、北条氏直は四万とも云われる大軍を率いて上州から信濃の佐久へ侵入。家康の命を受けた依田信蕃がゲリラ戦で抵抗。氏直は大道寺政繁に掃討を命じ、自らは北条への帰属を申し出ていた諏訪頼忠を救援すべく大門峠を越えて徳川軍と対峙。

林道を進むと「ウォーキングコース健康②」の看板があるのでここで下馬して道を行くと城域になる。
家康の後ろ盾で松本深志に復帰した小笠原貞慶だが、徳川軍の深志城への進駐を嫌い北条方に寝返ってしまう。
これにより退路を断たれる状況となった徳川軍は諏訪攻めを断念し北条軍にの追撃を受けながら辛うじて能見城・新府城まで撤退を完了した。

城域の真ん中を遊歩道が貫通しているのが残念だが、綺麗に整備されており遺構の保存状態は良い。
一方の北条氏直は若神子城を修築してここに本陣を置き、信州峠の抑えとして斑山の尾根先の獅子吼城(ししくじょう)、谷戸城も改修して兵を入れ徳川軍との決戦に備えた。
この時に陣城として「朝日山之塁」が造成されたという。

Dの虎口から見た東側の横堀。
【立地】
八ヶ岳山麓の裾野を流れる須玉川の左岸で西川との間にある旭山(911.5m)。須玉川に対しては河岸段丘となり落差を持ち、西2.5kmには谷戸城があり、対岸の津金には古宮城がある。

虎口Dから見た西側の横堀。途中から切岸を伴う平削地となり造成が途中で終わった事を物語っている。
【城主・城歴】
甲斐国誌に「朝日山ノ塁蹟(村山北ノ割村)高サ拾町余ノ突峯也 頂ニ塁郭ノ跡存セリ 遠ク四方ヲ眺ムベシ壬午ノ時 北条氏直ノ築ク所ト云伝フ 北ハ長沢 南ハ若神子ニ当ル 東麓ニ平沢ニ出ル路亘レリ 古時ノ烽火台ト見エタリ 武田ノ軍法ニ飛脚篝(ひきゃくかがり)トテ四所アルベシ 今モ其照合タル場所預カリシメシハ知ラルル処ナリト云」とある。
武田氏時代から烽火台があり、天正壬午の乱で北条氏直がここに城を築いたと言っている。
佐久往還を抑える要衝として、また、佐久経由の援軍を駐留させる目的で陣城が築かれたのであろう。

主郭は殆ど地山のまま。

山頂を示す三角点(911.5m)
【城跡】
城跡は南北に長い山頂部の主郭部と、南西の斜面に区画された副郭から成り、城域は東西100m、南北300mとかなり広大なものである。
●主郭
北の尾根を横堀で遮断しているが、東側は切岸のみで西側は帯郭と切岸が周回している。恐らく横堀を全周させる予定だったが未完で放置されたのであろう。内部はほとんど地山のままで手が加えられた形跡は見えない。

西側の帯郭と切岸。

南西のG部分。横堀を連結させる作業が途中で終わったらしい。
●郭2
主郭の遊歩道を南下すると左右に土塁が見え城跡の標柱がある場所が虎口Cである。虎口の東側に横堀を入れ斜面に対して竪掘となっている。西は土塁と短い横堀を入れただけで切岸のみで区画している。
郭2は南西の傾斜地も含めて堀切が全周しほぼ完成していたようだ。
折れ・横矢掛け・枡形を備えた厳重な装備が施された北条氏の城は、南への防御を強く意識して造られている。

虎口Cとその奥に見える郭2。

東斜面に続く横堀。宮坂氏はFは虎口ではなく、南からの出入りはこの堀底が通路だったと考察されているが・・。

虎口Cの西側の高土塁と堀跡。

城址の標柱付近から郭2の南側。枡形虎口Aと土塁が確認出来る。

見取図F付近の土塁と東斜面の堀跡。

郭2の南端の土塁と堀。折れを伴ってしっかり普請されている。

郭2の南川の出入り口(虎口A)は枡形であろう。
縄張り図では傾斜の状況が上手く表現出来ないが、郭2の西半分は傾斜のキツイ斜面である。居住性など無く、防御の為の空間である。そういう割り切りもアリですよネ。

ひたすら西斜面を下っていく防塁と堀。

西斜面下部の堀と土塁。

郭2の西半分は斜面と言う名の「空間」である。

見取図に記載したBの土橋。

郭2の北側を遮断する竪掘。まさに執念の造作物だ。

見取図G付近から斜面を見下ろす。
郭2は「空間防御」という独特な発想の元で作られているように思える。
残念ながら小生は北条さんの築城した城の縄張りの数々をほとんど知らない・・・・(汗)。東国の縄張りヲタクの最先端が北条さんなのだと言う事は噂で聞いているが・・・。
それにしても広大である。兵士兼土木作業員を大勢引き連れての甲斐侵攻作戦なので、その気になれば陣城の三つや四つは朝飯前だっただろう。
その大人数ゆえに兵站補給が出来なくなると「腹が減って戦が出来ない・・城も作れない・・」このことであった・・。

これだけじゃ何の跡なのか誰もわかりません・・・(汗)
≪旭山砦≫ (あさひやまとりで 朝日山之塁)
標高:911.5m 比高:85m
築城年代:天正十年
築城・居住者:北条氏直
場所:山梨県北杜市高根町村山
攻城日:2015年1月11日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:-分
見どころ:全部隅々まで見ましょう
注意事項:特に無し ニホンシカが生息してましたが逃亡していきました(笑)
駐車場:林道脇へ路駐。
参考文献:「甲斐の山城と館㊤」(2014年 宮坂武男著)
付近の城址:谷戸城、古宮城、若神子城など

南約3km地点から撮影。どこからも目立つ山である。
Posted on 2015/01/17 Sat. 15:16 [edit]
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