らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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2015年の城攻めは甲斐侵攻でスタート  

◆天正壬午の乱における徳川VS北条の最前線を訪ねて◆

「そうだ、野辺山高原超えて甲斐へ行こう!!」

いつもの思いつきである。

前日の作戦会議では勝沼町攻めだったが、当日の出陣前に北杜・韮崎攻めに変更とあいなった・・(汗)

んで、昨日の攻防戦のダイジェスト。

【朝日之塁】 (北杜市高根町)

天正壬午の乱で佐久へ進出した北条氏は大門峠を越えて諏訪領に入り、甲斐の覇権を狙って若神子城・谷戸城を改修し旭山(朝日山)にも大規模な陣城を築城し徳川軍に対抗した。それが「朝日山之塁」(あさひやまのるい)である。
主郭を見れば分かる通り、築城途中で放棄された陣城である。

朝日山之累 (22)
立派な石柱が建ち遊歩道コースとして地元の皆さんが整備しています。ありがたいが訪れる方はほとんどいない。

朝日山之累 (26)
主郭と二の郭との間の堀切。

舗装された林道が城跡まで通じているのでありがたい。


【若神子城 北城】 (わかみこじょう)

公園化された古城は行ったのだが、周囲の断崖も陣城の跡が残ると聞き訪問してみた。
「甲斐源氏発祥の地」という事で新羅義光と義清父子に関連付けられるが、この若神子城は武田晴信(信玄)の信州出征時の拠点であり、その後天正壬午の乱で北条軍が甲斐侵攻時の拠点として修築し陣城を築いている。

若神子城北城 (5)
城域北側の土塁には城門が置かれたのであろうか。

若神子城北城 (12)
西側に土塁の跡が確認出来るが、全長450m巾約80mの巨大な平地。

若神子城北城 (31)
城域の南端には秋葉社がある。こちらが大手道か?

北条氏が陣城として修築する途中で放棄されたようだ。

【若神子城 南城】

古城の甲川を挟んだ対岸の南側になる。発掘調査も行われる事無く宗教施設の建設で遺構は壊滅。あったはずの標柱も朽ち果て、ここが城跡と知る人は少ない。

若神子城南城 (3)
何も残っておりません(汗)

若神子城南城 (7)
見晴らし最高。世界遺産の富士山最高!(笑)


【能見城防塁】

新府城の北側に作られた長大な防御ラインで、能見城(のうけんじょう)を中心として七里岩を東西に遮断し北からの敵に備えている。

大切なポイントとしては「見どころは能見城では無い!」と言う事(笑)

巨大な箱掘が七里岩を這うように貫通し、三ヶ所の枡形を途中に置き、要所要所に砦を構えた迎撃システムで全長約1.5kmぐらいはあるだろうか。

能見城2北枡形曲輪 (1)
北枡形郭に接続する竪掘。辰ノ口御門という地名が残る場所の交差点の上に遺構が残る。

能見城2黒駒砦・堂坂砦 (41)
黒駒砦(御名方神社)に北斜面には二重堀切が確認出来る。

能見城2黒駒砦・堂坂砦 (26)
堂坂砦跡。武田遺臣は徳川方の支援でこの砦に立て篭もり、黒駒合戦で北条方を打ち破ったという。

能見城2黒駒砦・堂坂砦 (31)
堂坂砦から見た北条方の拠点の若神子城。まさに「天正壬午の乱」における最前線の砦である。

能見城防御ラインの構築については、武田勝頼が新府城を築城した時と同時進行で工事が進められたと思われる。
その後天正壬午の乱が勃発し、徳川軍が新府城を本拠として北条方と対陣し、能見城防塁も徳川により手が加えられたと思われるが、基本的には武田の造作物をそのまま使ったと思われる。

北条方の圧倒的な動員兵数であれば、若神子城の改修も獅子吼城の改修も、朝日之塁の新築も可能だが、徳川軍にそんな余裕など無かったと見るのが通常だ。

能見城2黒駒砦・堂坂砦 (61)
西側から見た黒駒砦。

武田勝頼の新府城築城については世間一般に「暴挙」とか「悪あがき」とかの言葉をよく耳にするが、新府城と能見城の防衛ラインについては徳川軍が北条軍との戦いでその実効性を証明したのである。

その辺の詳しい考察については、そのうち・・・・(ってか、いつになる?汗)

能見城(韮崎市) (9)
現地を見て、とてもガッカリした方が多い能見城・・・(笑) 北の斜面にこそお楽しみがあったのだ。



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Posted on 2015/01/12 Mon. 20:05 [edit]

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