らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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観音坂城 (埴科郡坂城町南条)  

◆敗者として終わった村上義清の嫡子である国清の居館跡と伝わる神社◆

北信濃の豪族「村上義清」といえば、天文十七年(1548)の上田原合戦で信濃征服を企む武田晴信(信玄)を破り、二年後にも砥石城攻防戦で退却する武田軍を追いかけて殿軍を叩き潰すと言う大金星を挙げた名将なのだが、後世の評価はイマイチぱっとしない・・・(汗)

ともすれば「イノシシ武者」の誹りを受ける有り様である。
その嫡子の国清とともに「敗者の日本史」に登場すべき人物の筆頭であろう。
S大の○本教授のお話はとうに飽きたので、平山センセの著作でどうでしょう?吉川弘文館さん、是非ご検討を!(笑)

観音坂城② (2)
近所の方は「お稲荷さん」と呼ぶ城坂稲荷社の参道。

【立地】

場所は国道18号線の「坂城インター入口」の交差点の東側で前沢川の左岸の台地で城坂稲荷神社がある。
城の脇を北国街道が通り、この付近は古くから「城坂」(しろさか)と呼ばれている。

観音坂城② (1)
地図や地形図からも往時の縄張りを読み取るのは難しい。

【城主・城歴】

長野県町村誌に「観音坂城址」として「本村(南条村)の北部往還の傍にあり、今畑地となる。堀の形等あり。天文十二年三月上杉景勝の幕下村上義清の男、村上源五景国(国清)海津城よりここに移る。慶長三年三月景勝、封を奥州会津へ移し、後廃城となる」とある。※天文十二年は天正十一年の誤りであろう。

観音坂城② (3)
本堂。

地元の観光パンフレット「坂城町北国街道マップ」にも「村上義清の子村上国清が海津城罷免後に移って来た城といわれています」と記載されている。
確かに天正十一年四月、海津城の副城将であった屋代秀正が徳川に内通し謀叛を起こした事件では、海津城将の村上国清はその責めを負い城将を解任されているが、その後直ぐに越後に呼び戻されているのでここに城を築城するには無理があるし、景勝が赦すはずもあるまい。

歴史の表舞台からは消えた国清(景国)ではあるが、上杉家の「文禄三年定納員数目録」には上杉家筆頭として2,277石余の所領を有し、上杉家が会津へ国替となった時も陸奥国塩松城主として6,500石の知行を得ている。その後、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦で出奔したらしいので、坂城に戻ってくるとしたらその時であろうか。

観音坂城② (5)
本堂裏に残存する土塁。

であればこれは想像でしかないが、景勝は天正壬午の乱で徳川方に寝返った真田昌幸との領地の境目の虚空蔵山城付近で攻防戦を繰り広げているので、上杉方の陣城として築城された可能性もあろうか。
そしてその後、関ヶ原の戦いが始まると村上国清は故郷での再起を賭けてこの城で旗揚げしたが、誰も集まらなかったというのが事実のような気がしてならない。

観音坂城② (7)
土塁のうえには石祠が二つ。

【城跡】

前沢川の台地上を城域とした方形の居館であろうか?稲荷神社のある北側に土塁の跡が残っているだけである。
現在の地形から縄張りを推定するのは難しいが、北側は前沢川を堀としていたと推定できるが、他の三方の堀を推し量る事は難しい。

観音坂城② (8)
往時を偲ばせる唯一の土塁。

観音坂城② (11)
ここからは真田領との境目の城だった虚空蔵山砦周辺が良く見える。

父である義清が存命中には為し得なかった故郷復帰を、息子である国清(景国)が海津城将という最高の地位で果たしたのだが、またしても一門の裏切りに遭い失意のどん底に沈む。
屋代秀正を弁護するなら、自分の居城を城番制にされても忠誠を誓い続ける事など屈辱に等しい耐えがたい事実であったと思われる。

観音坂城② (10)
稲荷神社の境内が城の中枢部なのかは不明である。

≪観音坂城≫ (かんのんさかじょう 城坂城)

標高:420m 比高5m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:埴科郡坂城町南条
攻城日:2012年12月24日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し。路駐。
見どころ:土塁のみ
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版) 
注意事項:特に無し



オフシーズン葛尾城2014 (33)
葛尾城から見た観音坂城と周辺の諸城。



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Posted on 2015/03/01 Sun. 21:38 [edit]

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