らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0305
内畝 (埴科郡坂城町南条) 
◆土塁の断片で居館など想像も出来ん・・・◆
ていぴす殿より通報いただいた安曇野市による押野城破壊の件は、その後の対応のずさんさ故にマスコミに晒され、小生のツイッターのRTも83に及ぶ凄まじい広がりで全国の中世城郭ファンの怒りを買ったらしい。
作業道の構築で破壊された押野城。主郭には重機が入り、裾の横堀は作業用道路に改変されてしまった。
白馬村の三日市場城破損は、その後の白馬村の真摯な対応と今後の対応策の開示で炎上を免れた事は特筆すべきであろう。民間人(今回はていぴす殿)の通報を放置すると行政に対する不信感は実力行使となるのだ。
だが、これは私刑ではない。500年風雪に耐えた城跡が一瞬で消される事に対しての怨嗟の声なのである・・。
押野城の破壊については、ていぴす殿の「 安曇野市 押野城」の記事をご参考に願います。(その①、その②)
で、今回ご紹介するのは極めてマイナー過ぎてどうなの?と思う城館跡「内畝」(うちうね)でございます・・・(汗)
【立地】
唯一残る遺構の周辺はご多聞に漏れず墓地になっている。
場所は南条地区を流れる谷川の左岸にあり、国道18号線としなの鉄道のテクノ坂城駅との間の平坦地。長さ18m、巾9mで高さ3mの土塁の一部が残っている。
城主・城歴は全く不明。「内畝」(うちうね)=「内堀」と同意語なのかも不明であるが、この地より銅鏡三面、永楽通宝338枚などがが出土しているというから、中世土豪に関わる居館跡ではないかと推定されているが、確証はない。
巨木の繁る土塁の遺構。
墓標の巡る土塁。異様な風景ではある。
【館跡】
土塁の一部しか残っていないので、居館跡の遺構だとしてもどの部分なのか分からないし、規模も想定出来ない。
恐らくこの地域の在地土豪の居館であったろうと思うが、ハッキリした事は分からない。村上氏による豪族連合の集約と居館の統廃合、村落の形成により消滅していったものと思われる。
現在の地図や地形から往時の縄張りを読むのは難しい。
対岸の三水城と狐落城(こらくじょう)
果たしてここにどのような土豪が勢力を保っていたのかを知る術はないが、方形居館に堀を巡らせた「館城」程度の屋敷があったのだろうと想像する。
宅地化された現在の状況に往時の面影や縄張りを想像する事は不可能である。
≪内畝≫ (うちうね)
標高:416m 比高-m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:埴科郡坂城町南条
攻城日:2012年12月24日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し。路駐。
見どころ:土塁のみ
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
注意事項:特に無し
植林された大樹が城跡を示すケースもあるが、樹齢が若すぎる・・(汗)
土塁一個で記事にするのか?・・・なるほど、そういう意見もあるが、壊されてからでは遅いのである。
「主張する土塁」
素敵だと思いませんか?(笑)
ていぴす殿より通報いただいた安曇野市による押野城破壊の件は、その後の対応のずさんさ故にマスコミに晒され、小生のツイッターのRTも83に及ぶ凄まじい広がりで全国の中世城郭ファンの怒りを買ったらしい。
作業道の構築で破壊された押野城。主郭には重機が入り、裾の横堀は作業用道路に改変されてしまった。
白馬村の三日市場城破損は、その後の白馬村の真摯な対応と今後の対応策の開示で炎上を免れた事は特筆すべきであろう。民間人(今回はていぴす殿)の通報を放置すると行政に対する不信感は実力行使となるのだ。
だが、これは私刑ではない。500年風雪に耐えた城跡が一瞬で消される事に対しての怨嗟の声なのである・・。
押野城の破壊については、ていぴす殿の「 安曇野市 押野城」の記事をご参考に願います。(その①、その②)
で、今回ご紹介するのは極めてマイナー過ぎてどうなの?と思う城館跡「内畝」(うちうね)でございます・・・(汗)
【立地】
唯一残る遺構の周辺はご多聞に漏れず墓地になっている。
場所は南条地区を流れる谷川の左岸にあり、国道18号線としなの鉄道のテクノ坂城駅との間の平坦地。長さ18m、巾9mで高さ3mの土塁の一部が残っている。
城主・城歴は全く不明。「内畝」(うちうね)=「内堀」と同意語なのかも不明であるが、この地より銅鏡三面、永楽通宝338枚などがが出土しているというから、中世土豪に関わる居館跡ではないかと推定されているが、確証はない。
巨木の繁る土塁の遺構。
墓標の巡る土塁。異様な風景ではある。
【館跡】
土塁の一部しか残っていないので、居館跡の遺構だとしてもどの部分なのか分からないし、規模も想定出来ない。
恐らくこの地域の在地土豪の居館であったろうと思うが、ハッキリした事は分からない。村上氏による豪族連合の集約と居館の統廃合、村落の形成により消滅していったものと思われる。
現在の地図や地形から往時の縄張りを読むのは難しい。
対岸の三水城と狐落城(こらくじょう)
果たしてここにどのような土豪が勢力を保っていたのかを知る術はないが、方形居館に堀を巡らせた「館城」程度の屋敷があったのだろうと想像する。
宅地化された現在の状況に往時の面影や縄張りを想像する事は不可能である。
≪内畝≫ (うちうね)
標高:416m 比高-m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:埴科郡坂城町南条
攻城日:2012年12月24日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し。路駐。
見どころ:土塁のみ
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
注意事項:特に無し
植林された大樹が城跡を示すケースもあるが、樹齢が若すぎる・・(汗)
土塁一個で記事にするのか?・・・なるほど、そういう意見もあるが、壊されてからでは遅いのである。
「主張する土塁」
素敵だと思いませんか?(笑)
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Posted on 2015/03/05 Thu. 21:18 [edit]
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