らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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福島城 (木曽郡木曽町福島)  

◆武田氏の侵入に備えて築かれた城◆

先週も今週も日曜日しか休みがとれず、出掛けたくても雨には勝てず・・・仕方なく記事でもアップするか・・(汗)

今回ご案内するのは「八甲田山死の彷徨」まがいとなった「木曽福島城の彷徨」。お付き合い頂いたのはていぴす殿。

天は我らを見捨てなかったが、50cmもある残雪の城攻めは人生初であった・・・ってかおバカ!!(笑)

木曽福島城 (132)
城の大手口に残る石垣。

【立地】

福島城は木曾町福島の中心部、木曽川右岸の城山になる。福島小学校の裏山が福島城で一般に「お城山」と呼ばれている。黒川が木曽川に合流する位置にあり、飛騨高山へ通じる木曾街道と中山道が交わる要衝を抑える。大手は居館(向城)のあった福島小学校からの道であったと思われるが、山村稲荷から先が不明瞭で良く分からない。

木曽福島関所 061
徳川直轄領時代の山村代官屋敷は、木曾氏の居館跡に建てられている。(現在の小学校も敷地だった)

【城跡への登り方】

興善寺の裏にある木曽福島郷土館(冬季間は閉鎖)を目指してすすみ脇の林道から紅葉ヶ丘へ。軽自動車の四駆なら車で紅葉ヶ丘まで行けるが冬季間は通行不可。そこから城跡までは遊歩道が整備されているので迷わず辿りつける。

木曽福島城 (1)
林道入口。郷土館に車を捨ててここから黙々と残雪の残る林道を20分歩いて紅葉ヶ丘へ。

●紅葉ヶ丘

城からの眺望は冬でもほとんどダメなので、ここからの眺めがお勧め。町全体はもちろん、周辺の城館や街道の様子も掌握出来る絶景である。天気が良ければ山城としては国内標高1754mの最高峰に位置する楡沢山城(にれさわやまじょう・木曽義仲隠れ城)が見えるはずだが、今回は生憎の小雨模様で見る事すら叶わなかった・・。

木曽福島城 (2)
東方面。上之段城は木曾西高校への改変を受けて西半分が削られたという。天気が良ければ左上に義仲隠れ城。

木曽福島城 (2)
小丸城は三つの城の中では一番古いという。八沢川の河岸段丘を利用した城である。

木曽福島城 (5)
木曽川と福島宿が眼下に見下ろせるビューポイント。

【城主・城歴】

木曾氏全般については、木曾義仲の末裔だとする説もあるが現在では否定する説が有力である。今回、須原等の木曾氏に関連する周辺の諸城の現地調査が出来なかったので、いずれ改めて掲載したい。

永正六年1509)、木曾の領主木曾義在は、木曽川と八沢川に挟まれた上の段・山平(やまひら)の高台に館を構え、上之段城を築いた。上之段城は、続く義康・義昌と三代にわたる居城であった。
天文年間(1532~55)、甲斐の武田晴信は、たびたび信濃に侵攻した。義康は北方からの侵入に備えて、木曽川の対岸に詰城として福島城を築いた。上之段城に対して向かいの城であったので、「向城」(むかいじょう)とも呼ばれ、今も地名として残っている。

木曽福島城 (8)
こんな雪の中の面会は遠慮しておきます・・・(汗) 

紅葉ヶ丘から普通なら10分程度で城跡になるのだが、雪中行軍なので2倍の時間と労力。雪山で汗まみれ・・(笑)

木曽福島城 (11)
膝まで埋まる雪に悲鳴をあげながら辿り着いた郭3。主郭をすっ飛ばしていきなり南尾根に行くのがプロだとか(笑)

福島城見取図①
防御の指向性は北と東。つまり鳥居峠を越えて来るだろう武田軍に備えた縄張りである。

【城跡】

木曽川と八沢川が東に張り出す尾根が黒木沢の浸食により南北にL字となるピークに主郭を置き、それぞれの尾根を堀切で断ち切った連郭式の山城である。

●三の郭と南尾根

この尾根の西側に大手道が付いている。郭の先は浅い二重堀切で区切りその先は荒く平削された平場あある。

木曽福島城 (12)
二重堀切㋓の手前側。

木曽福島城 (15)
南尾根の平削地。なだらかに下っているだけで、その先には何もない。

●郭3~興禅寺山に続く東尾根の処理

郭3からL字となる東尾根は急斜面を上巾17mの堀切で断ち切り、その先は長さ約100m程の細長い郭が続く。途中南の居館に対して竪堀が一条あるので、通路として使われたのかもしれない。

木曽福島城 (22)
郭3から堀切㋒を覗きこむ。ロープはあるが、何が楽しくてこんな雪の急斜面を下りるのか・・(汗)

木曽福島城 (26)
雪の堀切が嬉しくて駆けまわった・・・まるで犬のようだった(笑)

木曽福島城 (31)
堀切の向こうの尾根が城域。下ったら登らねばならないのだ・・・

木曽福島城 (41)
100mの長さの郭。何か柵でもあったのだろうか?

木曽福島城 (43)
木曾氏居館方面に落ちる竪掘。荷揚げ用の通路か?

●郭3~郭2

郭3の北側には喰い違いの堀切の先に土塁付きの勢溜のような連結部分があり、上巾15mの堀切㋑を介して郭2の馬出しに向かう。主郭も同じように馬出しが接続しているので、福島城の特徴ともいえる。

木曽福島城 (48)
郭3と郭2の間にある郭。

木曽福島城 (57)
上巾15mの堀切㋑。落差があるので防御は固い。

木曽福島城 (63)
郭2側から見た堀切㋑

木曽福島城 (68)
全然雪が融けていないので、歩きづらかった郭2。さすがに「二の丸城跡」の表示はヤバイでしょ(笑)

木曽福島城 (65)
北東尾根の帯郭を歩く「ていぴす」さん。その先の尾根にも細長い郭があった。

●主郭とその周辺

主郭は標高1041mの高さにあり、広さは30m×40mのおむすび型の平地で、北東の飛騨海道(現在の木曾街道)黒川の谷に向かって階段状に腰郭を設け、東方には急斜面の下に武者走りを巡らせている。西側は一段下がって小さな帯郭を置き、東尾根を堀切で断ち切りその先に細長い郭を置いて見張りとしている。

木曽福島城 (74)
東の沢に接続する堀切㋐

木曽福島城 (85)
郭1も郭2も一段下に出撃用の陣地(馬出し)を置くのは面白い。

木曽福島城 (87)
主郭。八幡社、城山大権現、秋葉大権現の三社が祀られている。

木曽福島城 (91)
西尾根に対しては、かなりの落差があり切岸も入念に整備されている。

福島城は、主郭の北東尾根が搦め手であり、同時に厳重に警戒すべき尾根でもあった。その為にこの尾根に対しての主郭の切岸は異様なまでの角度で削られ、断ち切る堀切は鋭角。その先に横矢の掛けられる郭を回す作りは極めて厳重な仕様である。

木曽福島城 (92)
北東尾根の搦め手に対しての馬出し。

木曽福島城 (95)
搦め手に張り出した帯郭。尾根伝いが凍結していて転落する危険があるので堀切㋐からの連絡通路へ迂回する。

木曽福島城 (105)
帯郭から見上げた主郭の切岸。芸術作品のようだ。

木曽福島城 (108)
堀切㋔を撮影する「ていぴす」さんを撮影する小生・・(笑)

木曽福島城 (114)
堀切㋔。

木曽福島城 (119)
段郭を連続して置き、最も警戒した搦め手方面。

木曽福島城 (128)
改変された堀切一条のみ残る西尾根。

木曽福島城 (131)
西尾根から見た主郭。

如何でしたでしょうか?

「真っ白で良くわかんない・・・・」なるほど・・(笑)

一説によれば木曾義昌が築城したという話もあるようですが、武田信玄の婿養子になった義昌がこんなプアな城を築城する事は信玄が赦すはずもありません。
とすれば、武田軍の侵略に対抗すべく義康が築城したとみるべきでしょう。

天文十八年(1549)、甲州勢は木曾へ侵入した。義康は鳥居峠にこれを迎え討って撃退したが、甲州勢は再び攻め寄せ、鳥居峠を越えて藪原へ陣を敷き木曾勢と対峙した。同二十四年、甲州勢は大軍をもって攻め寄せた。木曾勢は日義の小沢川で防戦したが、多くの武将を失い、義康は遂に武田方の軍門に下り和睦した。

木曽福島城 (133)
大手の石垣・・・ちゃんとみましょうネ(笑)

信玄の没後、義昌は織田方に加わって武田勝頼の軍を破った。この働きにより信長から安曇・筑摩を与えられて深志城に入った。信長が本能寺で無くなった後、深志城の旧主小笠原貞慶は徳川家康の後ろ盾によって深志城を取り戻し、天正十二年(1584)、木曾へ侵攻して上之段城を焼き払った。義昌は、菅路(行人橋付近)へ退き福島城へ立て篭もった。そのうち南方からの見方の援軍を得て小笠原軍を追い返した。


≪福島城≫ (ふくしまじょう 城山・おてんじょう)

標高:1041m 比高:270m 
築城年代:不明
築城・居住者:木曾氏
場所:木曾町福島
攻城日:2015年2月15日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:40分
駐車場:木曾郷土資料館の駐車場借用
見どころ:堀切、土塁、馬出しなど
参考文献:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曽編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版) 
注意事項:降雪時は止めましょう(笑)
付近の城跡:上之段城、小丸城、木曾氏居館(山村代官屋敷)、火燃山狼煙台など
その他:木曾氏の経歴についてはぼちぼち調べてみます

木曽福島城 (135)
飛騨街道側(黒川)から見た福島城遠景。















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Posted on 2015/03/08 Sun. 21:51 [edit]

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