らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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中原兼遠居館 (木曾郡木曾町新開上田)  

◆木曾義仲が元服するまで過ごした養父「中原兼遠」の居館跡◆

小生の住む上田市は、某国営放送局の2016年の大河ドラマ「真田丸」が決まったとたんに木曾義仲に関する史跡や伝承、名所・旧跡の整備を途中放棄した。

上田市としては毎年某国営放送局に陳情し、666,666人の署名まで集めた「真田幸村」のドラマ化が進展しないとみるや、挙兵の地として「木曾義仲」にスイッチして北陸四県を巻き込み次の大河ドラマ推薦への展開を画策していたのだ。

木曾義仲 020
旧日義村の義仲館の義仲公と巴御前もさぞかしご立腹であろう。

戦国時代に家名存続を賭して「表裏比興の者」という評価を受けた昌幸公なら許せても、次回の選挙の人気取りの為に右往左往する現職のM市長の謀略は許し難い愚策の連続で、地元の名士の方々も呆れておられる原状・・・・(汗)

まあ、そんなこんなで上田市とゆかりの深い木曾義仲公なので、今回は木曾の養父の居館跡をアップしましょう・・(笑)

【立地】

旧木曾福島町の上田地籍にあり、合併前の日義村との境に位置する。正沢川と天神川に挟まれ木曾川に合流する手前の河岸段丘の先端が居館跡と伝わる。北は山吹山を越すことで宮ノ越、藪原、その先の鳥居峠、南は福島に接する要衝の地でもある。

居館跡への標柱がないので、居館跡の位置と行き方がわからず右往左往を繰り返す。人も歩いていないので聞き取りもままならず地形から辛うじて特定した。ダメ元で適当に農道を彷徨ったら辿り着いた(汗)

中原兼遠居館 (43)
国道19号線の長野トヨタ自動車木曾店の信号機を西へ入るとこの場所に辿り着く。高架橋の手前の農道を徒歩で右へ。
※木曽福島方面からの登坂車線なので塩尻方面からは曲がれないので注意。

中原兼遠居館 (47)
JR中央本線の高架橋から見たこの景色が居館跡。線路の東の農道を徒歩で歩き途中から線路の下を潜れば良い。

中原兼遠居館 (39)
ここからの道順は標柱も何も無い。居館跡は全て私有地なので無理からぬ事である。

中原兼遠居館 (37)
中央線の下を貫通するトンネルを潜って道なりに進む。

中原兼遠居館 (35)
綺麗に手入れされた天神川の畔には橋が架けられている。ありがたい。この道を登ると広大な居館跡に出ます。

【館跡について】

広大な居館跡地の「木曾義仲元服の松」付近には「中原兼遠屋敷跡」として説明板に以下の記載がある。

「木曾川と正沢川・天神川に囲まれた南北百五十メートル、東西約600m(?数値がおかしい)に及ぶ河岸段丘の自然の城塞をなすこの要害の地は、木曾義仲の養父中原兼遠の館があったとされています。貝原益軒の「岐蘇路記」には‘宮の腰より一里下に上田と云所あり、兼平が父イソの仲三兼遠が屋敷の跡あり、木曾義仲の父帯刀先生義賢、悪源太義平に殺されし時、義仲二歳なりしを、母抱て信濃にくだり木曾の仲三兼遠を頼りしかば、兼遠養育してひととなりぬ・・・・‘とあり、義仲(駒王丸)はこの家で十三歳の元服をむかえるまでの幼少期をかくまわれて過ごしたといわれています。正面の古松は義仲元服の松と呼ばれ、水田の中の竹林には兼遠の碑があります。」(木曾町)

中原兼遠居館 (16)
居館の南側と福島方面。跡地は耕作地で面影などないが、周囲が天然の切岸となっていて防御性は高い。

中原兼遠居館 (17)
兼遠塚。

【居館跡地】

木曾川に突き出た崖淵の台地を利用した要害の地である。居館の跡地は耕作地となり、往時の遺構は全くないが、台地の縁は天然の切岸が囲み容易に人を寄せつけない厳しさがある。
そもそも800年も前の話なので屋敷の存在すら微妙だが、この地であれば何らかしか建物があったのであろう。

中原兼遠居館航空写真①
グーグルマップの航空写真に手を加えてみた。なんとなく感じがわかるかしら?


中原兼遠居館 (10)
兼遠塚。大事にされてきたようです。

中原兼遠居館 (31)
北側から見た屋敷地全景。広いだけで何とも・・。

そうは言っても、この場所は完全に私有地だし不法侵入には間違いはないので、居館跡に建つ民家の方に取材許可を求めようとしたが留守だった。民家の脇には標柱があり、消えかかった地主さんの手作り看板もあったので木曾義仲の史跡巡りの方の訪問については暗黙の了承をしているらしい。(訪れる人も最近は途絶えているようにお見受けしたが)

中原兼遠居館 (21)
民家脇の標柱。下の手作り板には「・・竹藪の中にあります・・」と読めるので、兼遠塚の場所を書いてあったと思われる。

民家から北への畦道を進むと「木曾義仲 元服の松」があり、説明板が立っている。

中原兼遠居館 (24)
歴代何代目の松であろうか?途切れることなく松を植えて口伝を伝承する地主さんの努力には敬服しました。

中原兼遠居館 (25)
この場所で義仲が元服の儀式を執り行ったのであろうか・・。

一般的な歴史学としては、「源平合戦」という認識のもとに平氏の専横的な貴族政権に対する源氏の反乱という図式で語らがちな鎌倉幕府成立までの過程ではあうが、それは大きな間違いであろう。

源氏VS平家もあり、源氏VS源氏の一族・身内の戦いもあり頼朝政権の樹立までには紆余曲折があったのだ。

平家政権打倒の第一走者が義仲であり以仁王の令旨に従い、依田城で挙兵。北陸経由で平家を撃破し京都に進軍。都から平家を追放する。第二走者は兵法の天才として兄頼朝の手足となって縦横無尽の働きをした義経だ。関東に引き籠り機が熟するのを待った頼朝は上皇との関係が悪化した義仲を排除し、逆にその上皇の朝廷に利用されそうになったおバカ義経を恫喝して奥州に追い払い、義経を匿って頼朝の命に従わない奥州藤原氏を朝敵の名のもとに滅ぼし鎌倉政権を盤石なものとした。

まあね、このぐらいドイヒーなヤツじゃないと歴史に名は残せない・・・(笑)

中原兼遠居館 (26)
そのような事はこの説明板に書いてありません・・(汗)

勝者によって敗者の歴史は塗り替えられる事が繰り返されてきました。

その結果、日本史は訳の分からない欠落した歴史学に苛まれる結果となり現在にひきずっております・・・(汗)

この居館の主である中原兼遠も得体の知れないおっさんになってますが・・・。

中原兼遠居館 (1)
居館近くにある「手習天神」。中原兼遠が義仲の学問の神として勧進したものだと伝わる。

≪中原兼遠居館≫ (なかはらかねとお きょかん)

標高:816m 比高:20m (木曾川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:木曾郡木曾町新開上田
攻城日:2015年3月28日
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:中央本線の高架橋より徒歩5分
駐車場:無し
見どころ:兼遠塚、元服の松、切岸など
参考文献:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曾編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版) 
付近の城跡:福島城、火燈山狼煙台、木曾氏居館など

中原兼遠居館 (42)
中央本線の高架橋から見た居館跡の全景。








Posted on 2015/04/21 Tue. 21:26 [edit]

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