らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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奈良井城 (塩尻市奈良井)  

◆往時の姿を留める在地土豪の方形居館◆

「日本の100名城」クラスの近代城郭になると、最近は「○○戦国武将隊」なるビジュアル系にも優れたお兄ちゃんやお姉ちゃんが常駐して戦国ブームを盛り上げてファンの拡大に貢献して頂いている。

真田丸2014 (7)
真田十勇士に扮した上田城の戦国おもてなし隊の皆さん。

そんな夢を抱くファンの方には申し訳無いが、「命のやりとり」というヤクザ渡世そのもの(まあ、さしづめ暴力団の権力抗争を主題とした 仁義なき戦いでしょうか・・)だった中世~戦国時代。

そして静かなる日本刀のブームらしいが、人を二人斬ると「なまくら刀」となり使い物にならない往時の日本刀が、千人斬っても抜群の切れ味を誇るゲーム「戦国無双シリーズ」・・・・(笑)

どんな手段を用いようが、平和ボケした日本人が祖国の歴史に興味を持つ事は大歓迎である。

今回ご案内するのは、戦国時代における在地小豪族の存続にあと一歩で敗れ去った奈良井義高の居館「奈良井城」。

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城跡は奈良井宿の西側の高台にあります。

【立地】

奈良井宿後背の高遠山の山裾にできた木曾川右岸の段丘面に立地していて、比高は崖下より約30mあり、西側はカツ沢の谷が自然の堀となっている。

城跡までは農道が入っているので、軽自動車なら奈良井宿入口の手前を右折して八幡宮脇を道沿いに進めば到達出来る。が、せっかくの宿場町なので、観光がてら街並みを歩いて途中から城跡に登るのがお勧めだ。

奈良井宿 (6)
奈良井駅横の駐車場から宿場町経由で歩いて10分もかからない。

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駅から二番目の水場の脇を右へ上がる。

奈良井城 (53)
わざわざ道から外れたこんなとこに道標立てて誰が見るの?(笑)

小生は車で城跡を目指すも運悪く道路工事中。仕方なく徒歩で八幡宮経由で居館跡へ・・・(汗)

【城主・城歴】

奈良井治部少輔義高の居館跡とされる。この地方を治めた国人の奈良井氏は、木曽福島に本拠地を構えた木曽氏の支族とも、また隣接する洗馬を治めた三村氏の一族とも云われるが確実な史料はない。

甲陽軍鑑によれば、天文十八年(1549)に武田軍は木曾路侵攻作戦を開始し贄川・奈良井・平沢を焼き払うが、鳥居峠で木曽福島の援軍に敗れたとしている。この時に奈良井治部少輔義高は木曾義昌に援軍を求めたとしているので、同盟関係にあったのだろうか。

天文二十四年の春に武田軍は再度藪原に布陣したが、川中島で越軍が動いた為に抑えの守備兵を残して主力は転進。
八月に木曽攻略で再度鳥居峠に木曾氏を攻めるが和議となる。武田軍がすんなりと藪原まで進軍しているので、この時すでに奈良井氏は武田に降っていたと思われる。塩尻峠の戦いで小笠原長時を裏切り武田に従った洗馬の三村氏が、戦の後に謀叛の疑いありとして晴信に甲府で成敗された事も影響していたのだろう。

奈良井城見取図①

木曽氏が武田氏に下り御親類衆の扱いとなると、奈良井氏は表面上は木曽氏の配下とされたようだが、信玄から木曽氏の監視任務も仰せつかったらしい。木曽氏の家臣であった贄川氏、山村氏、千村氏も武田直臣同等の扱いであったらしく、木曽氏の地位は信玄の娘婿というだけで実質的には木曽地方の代官程度の扱いだったという。

奈良井城 (5)
北側から見た城館と周囲の堀切。

その後の奈良井義高は、贄川砦の在番衆として木曾義昌の配下として洗馬宿方面と義昌の監視を続けていたようである。その後、木曾義昌が武田勝頼を見限り信長による甲州征伐で武田が滅亡すると、義昌は深志・安曇の二郡を信長より拝領するが、本能寺で信長が斃れると、天正壬午の乱が勃発し木曾義昌は徳川家康に与する。

一説によれば、奈良井治部少輔義高の正室は、信濃国の守護だった小笠原長時(貞慶の父)の娘であったとされる。
天正壬午の乱が勃発すると、家康の後ろ立てで上杉景勝に奪われた深志・安曇の二郡を回復した小笠原貞慶が洗馬と隣接する贄川・奈良井の義高にコンタクトを取るのは必然的だったと推察される。

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最近までは耕作地だったようだが、地権者の御好意で居館跡として一般開放されている。有り難いことですw

秀吉・家康が天下の覇権を巡り「小牧長久手の合戦」が天正十二年三月に勃発すると、突如として木曾義昌は徳川軍に叛き秀吉の調略に加担する。

※この辺の経緯については「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(平山優著 2011年 戎光祥出版)が詳しい。

木曽家臣団においても豊臣秀吉への帰属を巡り家中の意見がかなり分かれたと思われ、貞慶の親族であり反秀吉の先鋒だった奈良井義高はこの時に木曾義昌によって成敗され、以後奈良井家は断絶したと思われる。

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木曾義昌のこの過酷な処置に、,奈良井義高と関係の深かった贄川氏・千村氏は貞慶に内通したという。
徳川家康は木曾義昌の謀叛に対して妻籠城を攻めるが山村氏の奮戦により撤退。しかし小笠原貞慶に命じた木曽攻めは、貞慶の電撃作戦と木曾義昌家臣の贄川氏の内通により、木曽氏の本拠である福島まで攻め入り居館を焼き払い木曽氏滅亡まであと一歩のところまで追い込んだ。

奈良井城 (9)
500年前の堀切が拝めるのは貴重な事なのだと改めて思いますw

【城跡】

東西60m南北50mの方形居館で南斜面に対してやや傾斜している。堀を挟んだ北側の耕作地も居館の一部のようだが、伝承等なく不明である。南西の稲荷社から三段の平削地を通って居館となるので往時の大手は神社への参拝道だったと思われる。

奈良井城 (25)
方形居館の北側には土塁があったようだが、耕作地化により失われたという。

奈良井城 (42)
居館の北側の堀。一部土橋らしき遺構が確認出来る。

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東側の堀底から見た遺構。

奈良井城 (46)
城域東側の堀切が南側に下る。

天然の沢を利用した小さな方形居館だが、眼下に集落を形成し木曾路を通行を見張るには良い立地である。

ここで来襲する敵を防ぐのは無謀だが、いざとなったら藪原砦(鳥居峠)で迎撃すればよいので、平時の居館としてはこんなものだろう。

奈良井城 (3)
上の農道から攻め入る場合の参考写真。カツ沢の手前に南へ下る作業道があるので、それを下っていくと居館跡に通じる。

奈良井氏については義高のみが伝承に記述されているようだが、前後を含めて木曽氏との関連も併せて新しい史料が出てくる事を望みます・・。

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木曽大橋付近から見た奈良井城遠景。

≪奈良井城≫ (ならいじょう 城)
標高:980m 比高:30m (奈良井宿より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:塩尻市奈良井
攻城日:2015年5月27日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:15分 (奈良井宿より徒歩)
駐車場:奈良井駅駐車場
見どころ:堀切
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版) 「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(2011年 平山優著 戎光祥出版)
注意事項:特に無し
付近の城跡:藪原砦、妻籠城、須原城、木曽福島城、など

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宿場町としての景観や建物の維持管理は住民の皆さんの協力と努力があってこそ。感謝感謝でございますw








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Posted on 2015/05/28 Thu. 02:03 [edit]

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