らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0613

御岳堂館 (木曾義仲史跡関連 上田市御岳堂)  

◆木曾を出立し府中経由で東信濃に活動拠点を移した義仲の居館跡◆

治承四年(1180)、以仁王の令旨を拝し木曾の宮ノ腰で挙兵した木曾義仲は、南信濃の平家方の笠原頼直と対峙していた北信濃の源氏救援に向かい(市原の戦い)、笠原氏は戦わずして越後の城助職(じょうすけもと)の許に逃れた。

義仲は、その足で父の源義賢の領国であった上野国多胡庄に赴く。旧主の嫡子の挙兵を知り上野や武蔵より馳せ参じる土豪に嬉しさを隠せない義仲であったが、関東で着実に勢力を広げつつあった源頼朝と衝突する危険とも隣合わせだった。

この時代、源平合戦と称して「源氏VS平氏」がクローズアップされるが、源氏同士の戦いも至極当たり前であったのだ。

御岳堂館 (6)
義仲居館跡の一つとされる「御岳堂館」(みたけどうやかた)に立つ説明板。地元愛好会の義仲への愛情が感じられる。

実際のところ、源氏同士の消耗戦は平氏一門の「思う壺」であったに違いない。

義仲は熟慮の結果、源氏の基盤であった関東の支配を頼朝に任せ、途中で合流した根井父子を従え信濃へ急遽凱旋した。
もうひとつの要因は、笠原氏を庇護した越後の城助職が義仲軍の基盤である信濃への侵攻を準備しているとの情報が入った為でもあった。

義仲はひとまず東信濃の土豪である依田氏の勧めで小県郡の依田窪(現在の上田市御岳堂)に居館を構え、平家討伐に同調する土豪を募り軍団を再編成すると同時に、城助職や北陸方面の平家勢力に関する情報収集に努めた。

今回ご案内するのは、丸子地区に伝承のある三つの義仲の居館跡(御岳堂館、宗龍寺舘、開戸城)のうちの「御岳堂館」(みたけどうやかた)である。

御岳堂館 (21)
御岳神社の手前100m付近が居館跡で案内板もあるが、道が狭いので軽自動車以外での訪問は難しいので注意。

【立地】

依田城のある金鳳山(きんほうざん)の北麓になり、北側には唐沢の谷が天然の堀を形成し、北向きの傾斜地を階段状に平削している。西には御岳神社への参道があり、唐沢の北側には高築地と呼ばれる依田氏の居館があった。北信濃へ通じる塩田平と佐久・諏訪へ向かう依田窪を結ぶ要衝の地である。

御岳堂館見取図①
北向きですが、日当たり良好の物件ですw

御岳堂館 (2)
郭4の入口には冠木門が復元されている。

【館主・館歴】

「長野県町村誌」の御嶽堂村には「高築地」と呼ばれた場所を「依田氏居館址」として記載されているが、御岳堂館については表記がない。

「小県郡史」には「依田城址」として宗龍寺館の説明の後に「・・・・又本郭の西北、金鳳山の山腰に、依田氏邸宅の址と傳ふる地あり。邸址は東西四十間、南北十八間あり。北に接して削平地二階あり、上なるは東西六十間、南北二十間、下なるは東西六十間、南北七間あり。更に下れば一河谷の東流するありて、自然の濠をなせr。南に城を負ひ、西方山脊によりて之に通ずるを得、邸址というもの當れるが如し。・・・・(後略)・」この部分の記載が御岳堂館を指している。
依田氏は上野より凱旋した義仲にこの居館を譲り、唐沢の北側になる高築地に移ったとされる。(高築地は後日記載予定)

御岳堂館 (3)
屋敷の中心と思われる郭4より北方面。

御岳堂館 (7)
屋敷跡は「門」、砦跡は「物見」という発想はいただけないが、具体的なイメージを思い描くには仕方が無いかと・・・(汗)

【館跡】

現在残る耕作地としての削平された数段の段郭が800年前の遺構を残しているとはとても思えない。
さりとて、義仲滅亡後は頼朝政権による東信濃に対する厳しい落ち武者狩りが行われた事は間違いない事であろう。

居館群と思しき数段の郭のうち、中枢に位置したのは冠木門のある郭4という推定は、小県郡史の記述を照合してもあながち間違いではないだろう。

御岳堂館 (9)
西側から見た郭4.

御岳堂館 (13)
防御のかけらも感じられない屋敷跡。

確かにロケーションの素晴らしさをと立地条件は申し分ないが、源氏の大将たる義仲の居館としてはいささか無防備である。のちほどご案内する宗龍寺も義仲の館と伝わるのが、そちらだった可能性の方が高いと思う。

御岳堂館 (24)
城域で最も広い郭1。家臣団の屋敷が並んだのであろうか?

御岳堂館 (22)
堀も土塁も無い屋敷地。周囲から攻め込まれる可能性が仮に「0」だとしてもあり得ない縄張りである。

養和元年(1181)二月、平家の総帥であった清盛が死んだ。彼の心残りは頼朝を成敗出来なかった事だけであって、義仲の存在など気にも止めていない。
なので某国営放送の大河ドラマでも松山ケンイチ清盛の存命中に木曾義仲は登場しなかったのだ・・(笑)

御岳堂館 (26)
ここに義仲の居館があったのかどうかは「タイムマシンにお願い」しないと分からないのである・・(笑)

この年の六月、横田河原(長野市)で平家方の城助職(越後)の大軍を寡兵で破るが、養和の飢饉が発生し義仲の上洛作戦は2年間の中断を余儀なくされた。(この辺の事情をご存知の方は少ない・・)
頼朝との軍事衝突の危機に瀕したのもこの時で、義仲の英断により嫡子義高を鎌倉へ人質として送る事で回避に成功した。

御岳堂館 (15)

家臣の献身的な支えによって結束力を高めた義仲軍団。しかし寿永二年(1183)のたった1年間で天国と地獄を体験する事となる。
もう一度見たいと思った木曾の宮ノ腰、そしてここ依田城の眼下の風景。その思いは叶う事が無かったのである。

御岳神社①
居館の西側にある御岳神社。

≪御岳堂館≫ (みたけどうかた)
標高:594m 比高:- m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市御岳堂
攻城日:2015年6月13日(再訪)
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:5分 
駐車場:無し ※軽自動車なら突き当りの御岳神社へ駐車可
見どころ:居館址地
参考文献:「信濃の山城と館③上田・小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版) 「小縣郡史」「7長野県町村誌」など
注意事項:私有地・耕作地なので見学には注意が必要
付近の城跡:市の町砦、陣場砦、芝宮砦、尾野山城など

依田城② (3)
依田城から見た北方面。

















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Posted on 2015/06/13 Sat. 23:58 [edit]

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