らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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手塚館 (木曾義仲史跡関連 上田市手塚)  

◆篠原の戦いで義仲の恩人である斉藤実盛を討ち取ったという義仲の忠臣手塚太郎光盛の居館跡◆

木曾の山猿。京に入っては狼藉の限りを尽くし、ついには従兄弟頼朝とその命を享けた義経によって都から排除された田舎者。残念ながらいくら義仲を支持しても、平家物語で語られる人物像はそんなところであろうか。

歴史学において何を基準に「敗者」と称し、何の権利があって「勝者」と呼ばれる人々が事実を歪曲するのか全く理解できないが、少なくとも消そうとすればするほど鮮やかに後世に伝わっているのである。
もし、神様がいるのだとしたら、「勝者」とよばれる方々の数多くの偽証をさぞかし苦々しくお思いの事であろう。

今回ご案内するのは、平家物語の木曾殿の忠臣として登場する手塚太郎の居館跡「手塚館」である。

手塚館(大城) (16)
城館を西側より撮影。背後には塩田城が見える。

【立地】

独鈷山(とっこさん)の北麓、産川の左岸の台地上に手塚集落があり、その北端に「大城」(おおしろ)と呼ばれる手塚氏の館跡がある。塩田城の西側に位置し、「信州の学会」と呼ばれた塩田平における要衝の地でもある。

手塚館(大城) (2)
手塚館跡(現:倉沢邸)の門。倉沢家は代々この地の庄屋だという。

【館主・館歴】

長野県町村誌の手塚村の古跡「手塚氏邸跡」として、「村の北の方、字立石、堰口に跨る字大城 手塚氏代々の邸跡なり」と記載がある。

手塚氏は、木曾義仲挙兵がした時、中南信から随従してきた武士団の中に、樋口、今井、木曾、諏訪、手塚、千野氏がおり、手塚氏は諏訪下社の手塚太郎光盛とされ、叔父(または父とも)の手塚別当とともにその名がみえる。(平家物語、源平盛衰記)
手塚氏の本貫の地が手塚郷と考えられ、唐糸観音堂、手塚屋敷跡、伝手塚太郎五輪塔、光盛寺跡など手塚氏ゆかりの遺跡がある。手塚太郎光盛は、諏訪下社の大祝金刺諏訪大夫盛澄の弟で、義仲軍の中で活躍し、粟津ヶ原で義仲とともに討死している。

手塚館見取図①

手塚館(大城) (15)
大城と呼ばれている倉沢氏の屋敷。

【館跡】

隣家の方に話を伺う事が出来た。それによれば代々倉沢家の屋敷として継がれたが、上田市の市街地に転居し、一時期保育園として利用された時期もあったという。その後、再度この屋敷地に戻られたが、先日高齢の為お亡くなりになり東京に在住のご子息の管理地になっているという。
敷地は東西m、南北mほどの方形居館で、北側には用水路が通るが土塁や堀などの遺構は見当たらない。

手塚館(大城) (9)
保育園として使用された建物はその後民家として使用されたという。

【唐糸観音堂】

個人の邸宅なのだが、義仲にまつわる観音堂が建てられている。以前は屋敷地の南東の隅にあり、そこへの小路を「堂坂」と読んでいたという。
唐糸観音堂の「手塚の唐糸と万寿姫の物語」については、『太田和親、「和親記: s09手塚の唐糸と万寿姫の物語 、http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/s09.htm、2015年6月21日」』のHPより以下を引用させていただく。

手塚館(大城) (6)
唐糸観音堂。

(唐糸の物語)

 その頃の日本は、平氏、義仲、頼朝の三者でほぼ三分割されていた。しかし、頼朝は同じ源氏の従兄弟の義仲が先に京に入ったことを快く思わず、鎌倉から義仲殺害の指示を出した。その頃、手塚太郎金刺光盛の娘唐糸は頼朝の下で働いていた。唐糸はこれは父手塚太郎の主君義仲の一大事と、京にいる父に手紙で知らせた。「頼朝のすきを見て唐糸が頼朝の寝首を掻くので、首尾よく成功のあかつきには父手塚太郎に信濃と越後の二国を下さい。義仲様の了解のあかしに代々伝わる家宝の短剣を唐糸に下されば、それで頼朝を討って見せましょう。」父手塚太郎光盛はこの手紙を主君義仲に見せた。義仲は、唐糸の忠義を大いに喜び、家宝の名刀の短剣とともに手紙に「この度の唐糸の注進、誠にありがたい。御褒美に父の手塚に信濃と越後二国を与えよう。さらに首尾よく成功したら関東八ヶ国をもさずける。このこと人に知られるな。」と書いて鎌倉の唐糸の元へ送った。唐糸はこの短剣を肌身離さず、また、義仲の手紙は部屋に隠した。頼朝のすきをうかがうがなかなかよい機会が巡って来ない。そうこうしていると、頼朝とその妻政子のお風呂のお供を仰せつかった。脱いだ着物の下に隠しておいた短剣を、風呂奉行の土屋三郎に見つかってしまった。問い詰められ木曽殿に仕えている時に形見にと頂いたと言い訳するが、木曽殿の代々伝わる名短刀を女の持つ形見にしてはあまりに不釣り合いと、いよいよ疑いを深められ松が岡の尼寺に暫く預けられた。風呂奉行の土屋はさらに唐糸の部屋を捜索して木曽義仲の手紙を発見し頼朝暗殺計画を暴いた。そこで唐糸は石の牢屋に入れられてしまった。

手塚館(大城) (7)

 信濃国手塚の唐糸の娘万寿姫は母の入牢を伝え聞き、名を隠し鎌倉に上って母を救い出す決心をした。万寿姫はお祖母さんの反対を押し切って、乳母の更級とともに鎌倉に上り名前や出自を偽り頼朝の屋敷で働いた。母の入れられた石牢を見つけ出したがどうすることも出来ない。そうこうしていると頼朝の屋敷で不思議なことが起こった。何と屋敷の中の畳のへりから松が六本生えてきたのだ。凶か吉かを占わせるために陰陽博士を呼んだ。松は千年の命ゆえ、六本も生えたのは頼朝の子孫が六千年も栄えることを意味する、吉兆であると占いが出た。そこで、祝賀の宴を開くことになった。十二人の美しい舞姫の舞いを鶴岡八幡宮の神前に奉納することとなった。舞姫は十一人まで集まったが、あと一人だけ足りなかった。そこで人にすぐれて美しい万寿姫がその舞姫になることを、乳母の更級が勧めて舞うことになった。美人の万寿姫が今様を上手に華麗に舞うと、感動の余り頼朝も途中から万寿姫と一緒に今様を舞った。

手塚館(大城) (8)
唐糸観音堂の正面。ご本尊が再び見られる日は来るのでしょうか?

翌日、頼朝は万寿姫を館に呼び出し「なんじは今様の名人だ。国は何処だ。親は誰だ。褒美に如何なる望みのものも取らせる。」と告げた。万寿姫はこの時を逃せば母を助けることは出来まい、我が命を奪われても構わないと心に言い聞かし、「実は、石牢に捕らわれの唐糸の子で、万寿姫と申します。母の代わりに私が石牢に入りますので、母を助けて下さい。」と助命を涙ながらに申し出た。その母を思う娘の孝行な心根に、頼朝をはじめ同席の全ての者が心打たれてもらい泣きした。そして、頼朝から母唐糸ばかりか娘の万寿姫も信濃に一緒に帰ることを許された。その上、頼朝からも他の多くの武士からも二人に沢山のみやげが贈られた。
 信濃国手塚ではお祖母さんが娘の唐糸と孫の万寿姫の二人のことを毎日心配し、その心労の余り病の床に着いていた。二人が帰国して無事な姿を見せると、お祖母さんは元気になったという。誠に唐糸の忠義、万寿姫の親孝行のめでたい話である。

手塚館(大城) (11)
主の途絶えたこの居館、ある日突然更地にされても文句は言えないが、上田市は何らかのアプローチが必要かと・・。

【明治二年(1869)の百姓一揆の標的】

隣家のご主人も郷土の歴史を学んだ方らしく、明治二年に上田藩で青木村に端を発した百姓一揆が発生し、庄屋だった倉沢家も標的にされ、その時の一揆勢による焼き討ちの跡が正門の屋根裏にあることを教えて頂いた。

手塚館(大城) (12)
門の屋根裏に残る放火の跡。

【駒の足形橋】

手塚太郎光盛に関する史跡として、近所には「駒の足形橋」がある。

安徳天皇の寿永元年(1182)に、木曾義仲は横田河原で城助長の三万の軍勢と戦う。
義仲軍団の中枢となった手塚太郎光盛は、戦の当日に妻や娘の唐糸、乳母の更科と別れの杯を交わし、馬に乗り、館の前の石橋に馬を進めて武運長久を祈った。

石橋の上で軍神に祈願をこめたそのとき、武運長久・幸運のきざしがみえたものか、光盛の乗る騎馬の蹄の跡が石橋に残ったという。これが「駒の足形橋」の由来である。

手塚館(大城) (21)
せっかく修復したのに、近所のガキどもが落書きをして「訳が分からなくなった」駒形橋。

手塚館(大城) (20)
馬の蹄鉄など無かった時代に、このような蹄の跡が残るのかは疑問だが、そこは「伝承」という事で・・・・。

手塚太郎光盛といえば、篠原合戦で義仲の恩人である斉藤実盛を討ち取った「首洗い池」の史話で有名である。

彼の人生もまた波乱万丈ではあったが、一点の曇りも無かったと思われるのである。

≪手塚館≫ (てづかやかた 大城)

標高:511m 比高:-m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市手塚
攻城日:2015年5月17日
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:-分 
駐車場:無し
見どころ:-
参考文献:「信濃の山城と館③上田・小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)「長野県町村誌」など
注意事項:私有地なので無断侵入不可
付近の城跡:塩田城、女神山城、塩田館、馬伏城など、

手塚館(大城) (17)
手塚館遠景。









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Posted on 2015/06/21 Sun. 22:09 [edit]

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