らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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木曾義仲伝承の地巡り② 依田窪周辺(上田市御岳堂)  

◆たとえ上田市が見捨てても、今井兼平の如く小生は最期まで義仲と沿い遂げようぞ!◆

自分の住む町の首長の悪口など書きたくもないが、「おらが町の歴史」に対する不勉強さと他人事感には閉口する。

せっかく決まった大河ドラマなのに、ありきたりの方策とやる気の無さ。草葉の陰で丹波哲郎(真田太平記の真田昌幸役)もさぞご立腹であろうかと・・・(汗)

まあ、愚痴っても仕方ないので、義仲史跡巡りの続きでもご案内しましょう・・・(笑)


【八幡大神縣社】 (上田市五加)

源義仲が挙兵した途次、八懸社殿に戦勝祈願をした翌年の養和元年(1181)、「八幡大神」を、塩田八郎高光が勧請し、八懸社殿に相殿として祀り、八幡大神懸社と称した。八幡大神とは誉田別尊他二神のことである。

八幡①

この神社、義仲史跡というよりは、県下有数の大きさを誇る常夜灯として有名で、碑文は勝海舟の筆耕だという。

「幕府の犬」とまで言われて尊王攘夷派に命まで狙われた海舟さんですが、竜馬の依頼で岡田以蔵をガードマンとして雇い命拾いした話や、江戸城の無血開城の最大の功労者として有名でうよね。

八幡②
「善をおさめ、洪福を生む」という「勝海舟の書が刻まれた石灯籠。高さ8.6m。

八幡③
八幡大縣社の説明板のみが義仲との関わりを記録しています。




【御岳堂館周辺の義仲伝承地】 

合併以前の旧上田市と旧丸子町の境に位置する砂原峠は、塩田平と依田川流域の依田窪を結ぶ中間地点にあり東山道(鎌倉道)の大事な要衝であった。

治承四年(1180)九月、木曾宮ノ越(宮之腰とも)で挙兵した義仲は府中経由で依田次郎実信の館に入城したという。この館跡の場所については二つの説があり、一つは先日ご案内した御岳堂館(みたけどうやかた)であり、もう一つは現在の宗龍寺が建っている宗龍寺舘跡である。

●宗龍寺舘

御岳堂館の400m東側で、府中(松本)へ向かう三才山峠を源流とする内村川と依田川の合流地点の東になり依田城の登り口に位置する。

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二段目の削平地には現在は鐘楼が立つ。

御岳堂館のロケーションは素晴らしいが防御性についてはかなり疑問がある縄張りだ。それに比べて宗龍寺は周囲を険しい岩崖に囲まれた要害の地にある。
最も近隣の豪族や武士団が全て義仲に服従しているという条件であれば、要害性は必要ないのかもしれない・・。

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郭の最上段の本堂。ここから背後の依田城への登城道もあったと思われる。



●高築地館

依田氏が義仲に自分の居館を譲って新たに築いた居館が高築地館(たかついじやかた)と伝わり、御岳堂居館の北側が居館跡として推定されている。
家臣団の屋敷も含めた広大な屋敷跡と伝わるが、御岳堂館同様に伝承の域を出るものではなく、砂原峠を監視する位置だとしても要害性は微塵も無い。

高築地館①
地元の有志の方の看板が建つ。

高築地館②
平安時代末期の物騒な世の中で、このような長閑な場所に館を構えるであろうか?

義仲は、平家討伐の一時的な逗留場所として依田城に滞在し、迎え入れた依田氏もそのつもりであったが、養和の飢饉という予想外の事象に遭遇し、横田河原の合戦の勝利後も二年間この地に足止めせざるを得なかった。
その時の駐屯地であるとすれば、問題は無かろうか。



●砂原峠

越後の城氏の率いる数十倍の平家を横田河原にて迎え撃つべく、武蔵の多胡、佐久、甲斐そして地元の豪族が砂原峠を越えて北を目指した。

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砂原峠に立つ有名な看板。

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巨大看板の下にh義仲ゆかりの史跡案内地図もあります。

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丸子方面より見た塩田に向かう砂原峠の街道。



まあ、まだまだ義仲さんの史跡伝承は続きますw

次回をお楽しみに・・・・(笑)







Posted on 2015/07/16 Thu. 23:00 [edit]

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