らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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木曾義仲史跡巡り④ 上田市周辺~長野市  

◆義仲祭りは宴たけなわでございますが、そのうち再開しますって事で「中締めの巻」でお開き◆

「ええい、訳のわからぬ平安末期の源平合戦など掲載しおって、さっさと戦国時代に戻さんかい!!」

「火を怖がる牛の角に松明(たいまつ)など付けたら全速力でバックするだろう。高速道路を逆走する老人どもと同じじゃ、火牛の計などありえん!!」

まあ、そう怒る皆様のご意見はご尤もでございますが、時として「浪漫」を求めて時空の旅人ってことで・・・(笑)

木曾義仲 017
木曾町日義の「義仲館」。人形を使って義仲の生涯を分かり易く説明しているので必見だ。


木曾義仲 022
アンニュイで倦怠期のような義仲と巴も必見だ・・(笑)


【八木沢天満宮の古碑】 上田市八木沢

義仲公の五百五十回忌にあたる江戸時代の享保十七年(1732)に手塚氏の末裔が建立したと伝わる。

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道真公のご利益に授かろうと合格祈願の天馬の絶えない神社である。

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天満宮の参道脇にある古碑。注意してみないと素通りしてしまいそうだ。

まあ、小生の拙い解説より説明板をお読みいただくのが早いかと・・・

小生の会社の後輩に聞いたら、「天満宮は合格祈願で受験生には有名ですが、木曾義仲?誰ですかその人?」

コイツを洗脳することから始めないとダメらしい・・・・(汗)

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八木沢自治会の英断に拍手ですw




【安良居神社】

ここは、以前に紹介した丸子良存館と共に丸子城の居館跡の一つで神社の義仲伝説はオマケのようである。

社殿によると、永寿二年(1183)の創建と伝えられ木曾義仲が依田城館に逗留中に源氏の氏神である八幡大菩薩を祀り創建したと伝えられ、出陣に先立ち愛宕神社(上田市御岳堂)の笠懸の矢を八幡神社に奉納したという。現在は安良居神社(あらいじんじゃ)の名称となっているが、かつては八幡神社として人々に親しまれた。

2014山城収め (20)
安良居神社の参道

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八幡社の建つ場所はかつての丸子城の居館跡で、現在はここから丸子城に登る遊歩道が整備されている。



【白鳥河原の勢揃】 東御市本海野

治承五年(1181)六月、以仁王の令旨により木曽で旗揚げした木曾義仲は、依田城を経て白鳥神社前に広がる千曲河原「白鳥河原」に挙兵した。「平家物語」「源平盛衰記」に語り継がれる「白鳥河原の勢揃」である。義仲の元に馳せ参じたのは、樋口・今井・根井・楯といった木曽四天王の家臣をはじめ、地元の海野、祢津、望月、小室ら滋野一族を中心とした東信濃の豪族と、西上州の武士団が集結。その数、二千騎とも三千騎とも伝わる。
当時の海野郷は海野一族の宗家、海野氏の本領であり、経済、交通、軍事の要衝であった。

白鳥河原(東御市) (17)
日本武尊の東征を縁起とし、海野氏の祖と伝わる貞元親王・善淵王・海野広道公を祭神としている海野神社。

木曽義仲挙兵において、その中核を担った海野氏。中原兼遠から義仲を託された当主・海野幸親のもと、嫡男海野幸広は侍大将を担い(上洛後の平家追討において備中水島の海戦で討死)、次男通広(みちひろ)は義仲の祐筆として活躍した大夫房覚明(たゆうぼうかくみょう)であると云われています。また、幸広の嫡男海野幸氏は義仲の滅亡後に頼朝に仕え、鎌倉武士の弓馬四天王として名を馳せた。

白鳥河原(東御市) (14)
海野氏発祥の郷として最近になって記念碑が建てられた。真田氏も滋野一族であるとするが、果たしてどうであろうか。

白鳥河原(東御市) (23)
運よく社殿の内部を撮影させていただきました。

白鳥河原(東御市) (27)
白鳥神社は北国街道の宿場町だった海野宿の東端にある。

東信濃と上野の武士団はここ白鳥河原に集結し、川中島の横田河原に展開する平家方の城助職軍との決戦に向けて出陣。
破竹の快進撃はここから始まったのである。

ちなみに海野宗家の居館は白鳥神社の南西にあったとされるが、現在は千曲川の河床となり往時の面影は全く知る由も無い。

白鳥河原(東御市) (29)
現在の千曲川の河原の様子。



【千曲市周辺の義仲関連の史跡】 

●大雲寺  千曲市八幡

義仲が帰依したと伝わる寺院で、近世城郭を思わせる高い石垣作りの外観は素晴らしい。広大な敷地に咲く紫陽花や巨大な池に群生するように咲く蓮の花は実に見事で、愛好家の隠れた名所であるようだ。

大雲寺(千曲市) (2)
●●城です・・といわれても「なるほど」と思わせる石垣。

大雲寺②
寺にしておくにはもったいない縄張りである。



●武水別神社 献納滝壺の石 千曲市八幡

養和元年、木曽義仲が平家との合戦に臨み武水別神社に戦勝祈願をした折、祈願文を奉持した使者がこの石に湛えられていた雨水で愚息の汚れを洗い清めてから神前に額突いたと云われている。

武水別神社他 (1)
その後、信玄も謙信も景勝も戦勝祈願で参拝したという由緒正しき武水別神社(たけみずわけjんじゃ)

武水別神社他 (2)
まあ、確かに滝壺のような変わった形の石でございます。

武水別神社他 (4)
最近は水が溜まっていないらしい・・・

この神社の代々の神官は松田氏で、戦国時代末期に小笠原貞慶の日岐城攻めで城を追われた日岐盛直が、亡命先の上杉景勝の命により空位となっていた武水別神社の神官となった由来がある。もちろん、神社としてではなく、稲荷山城の惣構えの外郭の砦としてである。

詳しく知りたい方は八幡松田館を参照願います。



●舟繋ぎ石・義仲鞍掛け石 千曲市稲荷山

養和元年(1181)、横田河原の合戦に向かう義仲はここから舟で出て千曲川を下ったという伝説がある。

武水別神社他 (10)
元々は違う場所にあったようだが農地改修でこの場所に移転したらしい。

武水別神社他 (8)
こんなデカイ石に繋ぐ必要があったのか?

ここから道沿いに40m北の荒町公民館の脇には「義仲鞍掛け石」がある。城氏との戦いの際に、鞍を置いた石だという。
合戦場はここから4km東の雨宮付近なので、休息を取ったのかもしれない・・。

武水別神社他 (11)
「どこにでもありそうな石」というのは禁句だ・・・(笑)



●雨宮の渡 千曲市雨宮

義仲というよりも、第四次川中島合戦で妻女山に陣を張っていた上杉軍が突如として霧に紛れて千曲川を渡河した場所として名高い。往古より川中島への入口にあたり、海路・陸路の要衝の地であった。
養和元年の横田河原の戦いの主戦場はこの辺りとされ、横田城に布陣した城助職(じょうすけもち)率いる一万余騎の平氏の軍勢に僅か三千騎の義仲軍が決戦を挑んだ。

数の上で勝ち目の無い義仲軍は、井上光盛の率いる仁科の別働隊が平家を偽装して近づき背後から渡河し城氏の本隊を奇襲。混乱した城氏率いる平家軍に義仲軍が正面から攻め挟み撃ちになるとイッキに崩れて敗走。この合戦の勝利により義仲の北陸攻略が始まるのである。

雨宮の渡し (3)
上信越道の更埴ジャンクションの南東200mに小さな公園と碑がある

雨宮の渡し (6)
説明板も川中島合戦に関するもので、義仲の横田河原合戦に関する記述は無い。

雨宮の渡し (9)
かつては雨宮付近に千曲川の本流の流れが通っていたという。

長閑な田園風景の広がる河川敷だが、嘗てはここで、源氏と平家の雌雄を決する合戦があり、その後再び上杉謙信と武田信玄の戦国大名の凌ぎを削る戦いがあったのだ。




【長野市周辺の義仲関連の史跡】

●今井神社  長野市川中島町今井

義仲の四天王である今井兼平が勧進したと伝わり、兼平の菩提を弔う五輪塔がある。
由緒を書き写すのも面倒になってきたので、説明板を掲載させていただくという暴挙をお赦しいただきたい・・・(汗)

今井神社(長野市) (3)
今井神社の鳥居。良く見ると地面に接続する部分がコンクリート製になっている。木造の鳥居の悩みの解決策であろう。

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今井神社の本殿。

今井神社(長野市) (8)
神社本殿の小路を挟んだ西側に今井兼平の墓と由緒書き、駒止石(こまどめいし)がある。

今井神社(長野市) (9)
詳細はこちらをご確認ください・・・(汗)

今井神社(長野市) (10)
兼平の五輪塔。百日咳の特効薬として参拝者が塔石を削り落した跡が残る。御利益はあったのだろうか・・・

●駒止石(こまどめいし)  今井神社内

解説板にもあったが、「この地に駐屯せよ」との馬のお告げによって兼平軍が駐留したという。その時の馬の蹄の跡だという。

今井神社(長野市) (12)

横田河原合戦の時に、城軍の背後に廻り奇襲を仕掛けたのは、北信濃の名族である井上光盛という説や四天王の今井兼平の率いる軍勢と云う諸説があり定かではない。



●駒洗いの池(馬洗いの池)  JR信越本線今井駅より南西150mの今井池田遊園地

横田河原出陣に際して、今井兼平が義仲の愛馬を洗った場所として伝わる。かつては池であったようだが、近年に埋め立てられて児童公園となっている。現在は標柱が残るのみである。

今井神社(長野市) (24)
ブランコ一基で公園と呼べるだろうか・・

今井神社(長野市) (27)
池の跡なので、水はけは良くないらしい。



「われも東山、北陸の二道を従え、平家を攻め落とし、日の本(ひのもと)に二人の将軍ありと云わせてみようぞ」

怒涛の如く、というよりは、だらだらと仕方なく掲載しちゃいました・・・(笑)

戦国時代の信州からは、その無数の険しき山と盆地の土地柄ゆえに全国統一の覇を唱える気構えや気骨のある豪族は生まれなかったのだ・・・という文面を見るたびにいちいち納得してきたが、実は違ったのだ。

そう、木曽義仲は少なくともそういう言い訳を打破して信濃から天下を狙ったのである。残念ながら戦国時代にはそういう気構えとカリスマ性を持った武将が信濃には存在しなかった(生まれて来なかった)のである。

山城踏査がひと段落したら、彼の足跡を訪ねて北陸~京都を旅してまた新たな義仲像に出逢いたいと思っています。

木曾義仲 020
義仲館(木曾町日義)の入口にある義仲&巴御前の像。チョッと渋すぎるかなあー(笑)














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Posted on 2015/07/24 Fri. 22:42 [edit]

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