らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0820

大塔城 (大塔の古要害 長野市篠ノ井二ツ柳)  

◆凄惨を極めた大塔城の籠城戦が行われたのは何処か?◆

実はこの先、戸隠関連(長野市戸隠)について掲載を進めようと思ったのだが、この場所は戸隠神社と善光寺の別当を勤め、甲越合戦では武田方として旭山城に籠城し謙信を苦しめた栗田氏(山栗田/里栗田)についての調査をしないと迂闊な事は書けないし、現地調査も再訪しないとダメな部分も見つかった・・(汗)

宮坂氏の記述のコピペだけでは「能無し」と呼ばれ悔しいので、戸隠蕎麦でも食べに行くついでに再々度徘徊しますw

戸隠その他 (1)
長野市戸隠福平付近より見た善光寺平方面。

さて、長野県の中世戦国史を語る上で避けて通れないのは、応永七年(1400)に勃発した信濃守護と在地土豪連合軍の合戦で「大塔合戦」(おうとうがっせん)である。

中央政権に対する痴呆地方の反乱としては大規模であり、この戦に国人連合が勝利したが為に信濃は小豪族が都合のよい時だけ連立政権を組むと言う変な妥協が慣習化してしまい、信濃国を統一しようという野望を持つ奴は現れなくなってしまった・・・(汗) ※個人的な感想なので悪しからず・・・

今回ご案内するのは、大塔合戦の主戦場となった大塔城の推定地。残念ながら位置も遺構も確認出来ていない。

大塔古要害(長野市) (1)
特別養護老人ホーム博仁会桜荘から50m西側の区画が大塔城跡と推定されている。

【立地】

千曲川の左岸、篠ノ井の市街地の南西部二ツ柳地籍の岡田川に沿った所に大当(おおとう)集落がある。ここが大塔城の比定地の一つと考えられている。

大塔城推定地①
yahoo地図を一部加工修正しています。

【大塔合戦の概略】

応永六年(1399)、小笠原長秀は室町幕府より念願の信濃の国の守護に任ぜられた。当時の北信濃には南北朝の対立から小笠原氏に反感を抱く者が多く、穏やかでない気運がみなぎっていた。
善光寺に入ってからの長秀は、幕府の将軍の威光を笠に着て尊大で横暴であった。

大塔古要害(長野市) (2)
集落を囲む道路が水堀の跡なのだろか・・?

この振る舞いに反発して、地元の有力豪族である村上氏や滋野氏等が「国人一揆」(こくじんいっき)と称し信濃国の国人衆(主に北信濃、東信濃)に呼びかけ守護の小笠原長秀を追放しようと四宮河原(しのみや 現在の長野市篠ノ井四宮)で戦った。

小笠原長秀軍は南信濃の国人を中心に編成されていたが兵力は少なく、反乱軍である北信濃・東信濃の国人率いる一揆軍は圧倒的な兵力だった為、衆寡敵せず守護軍は敗走。長秀は深手を負い塩崎城に逃れた。逃げ遅れた下伊那飯田の豪族坂西長国(ばんざいながくに)とその配下三百騎は大塔の古要害に逃げ込んだ。

大塔古要害(長野市) (3)
現在の大当集落。遺構など全く皆無である。

一揆軍は大塔の古要害を二重三重に囲み攻め立てた。籠城する坂西率いる守護軍は水も食料もなく、已むなく軍馬を殺しその生血を啜り生肉を喰らうという凄惨な状況であったという。
籠城二十一日目、守護軍は全員が古要害から敵陣へ打って出て、ある者は討死し、またある者は自害し全滅したという。

一方、塩崎城で籠城していた小笠原長秀は、同族である佐久岩村田の豪族の大井光矩(おおいみつのり)の仲介で和睦が成り、京都に逃げ帰った。
室町幕府は長秀を罷免し、直属の部隊を派遣し反乱軍を鎮圧し信濃は幕府の直轄地となった。

大塔合戦の悲惨な状況を伝え聞いた善光寺の時宗をはじめ聖(ひじり)や領民・遊女らが戦場となった古要害跡に駆けつけ、飛散した亡き骸を集め厚く供養し、形見の品を拾い集めて家族に送り届けたと伝えられる。

(以上、現地説明板を加筆修正して記載)

大塔古要害(長野市) (4)
大塔城(推定)の西側を流れる岡田川。度重なる氾濫で河床を大きく変えたと思われるが、往時はどうだったのだろうか?

【城跡】

「大塔物語」には「大塔の古要害」と記載があるので、南北朝以前に築城されたが、坂西率いる守護軍が逃げ込んだ往時は廃城になっていたのもと断定出来る。

がしかし、千曲川と岡田川の交わるこの場所は、河川の氾濫により河床が大きく変わってしまう可能性があり城館がそのまま原形を留めて使用可能な状態で残ったとは思われないのである。また実際に砦があったとしてもかなりの湿地帯で一ヶ月近くも籠城出来る場所では無い事が現地を見るとわかる。

大塔古要害(長野市) (7)
西側の岡田川の対岸から見た大塔城跡(推定)

この地が大塔城と推定される理由は地名だけである。遺構は発見されていない。

「大塔の古要害」の比定地の候補は大当地区の他に、二ツ柳城 と 湯の入神社砦 がある。

いずれの場所も実際に踏査してみたのだが、三百の騎馬の部隊の総兵士数は約1200名なので、記録の1/10換算としても大当地区に120名籠城出来るかというと厳しい。

二ツ柳城 と 湯の入神社砦ならば、分散しても単独でも収納可能で一ヶ月近い籠城も可能だと思われた。

大塔古要害(長野市) (5)
大当地区から見た二ツ柳城。

大塔古要害(長野市) (8)
大当地区から見た湯の入神社砦と、長秀の籠城した塩崎城(八間長者城)

それにしても、南信濃からはるばる北信濃まで遠征し合戦したまでは仕方無いにしても、司令官はサッサと逃げるし残された我らはまさに「餓え殺し」の悲劇。坂西さん、アホな小笠原一族のお付き合い、難儀でございました・・・(涙)

往時のお墓がある訳でなし、大量の人骨が見つかった訳で無し、古要害の遺構が残る訳で無し・・・・

未発見の「大塔の古要害」

誰か見つけておくれやす・・・・・(笑)


≪大塔城≫ (おとうじょう 大塔の古要害) 

標高:355m 比高:- 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市篠ノ井二ツ柳
攻城日:2014年3月8日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し、路駐
見どころ:-
参考文献・書籍:「信濃の山城と館 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)、現地説明板 
注意事項:市街地につきプライバシー注意
付近の城跡:二ツ柳城、横田城、湯ノ入神社砦、塩崎城など

大塔古要害(長野市) (10)
大当の公民館脇には「大塔の古要害跡(伝)」の説明板が立つ。





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Posted on 2015/08/20 Thu. 22:08 [edit]

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