らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0929
頼朝山砦 (長野市茂菅) 
◆旭山城を監視する葛山城の見張砦◆
気が付けば「更埴・長野編」の掲載がこの砦で100を数えた。しかし通過点でしかない・・(カッコイイ・・笑)
しかしこのブログでは超メジャーな葛山城について未だ記載していない事を指摘する読者は多い・・・(汗)
「明日やろうはバカ野郎」を座右の銘としているが、城域のデカイ城の記事は苦手だし面倒臭い・・(笑)
なので今回ご案内するのは葛山城の南尾根の先端に位置する頼朝山砦。

国道406号線から県道76号線に分岐した先にある静松寺(じょうしょうじ)が砦への登り口になる。
【立地】
葛尾城より南へ派生した尾根の先端部に当たり、南下を裾花川が流れて浸食している為に断崖絶壁となっている。現在は国道406号線が砦の真下を「頼朝山トンネル」として貫通しているが、往時は戸隠道が山裾を通っていた。

駐車場の先を歩くと分岐になる。東へ進めば頼朝山の北側の尾根に通じる道となる。(茂菅口方面は旧戸隠街道)
【城主・城歴】
「頼朝山」の由来は静松寺に関連していて、征夷大将軍が源頼朝が建久八年(1197)に善光寺に参拝した際に、以前源氏再興のため諸国遍歴の途中、この寺で没した家臣の菩提を弔うために寺に田地山林を寄進し自ら「頼朝山法性浄院静松寺」と名づけた事に因んでいる。

静松寺から5分程度登れば鞍部に出るので後は道沿いに登るだけだ。
静松寺は葛山の中腹(今の古屋敷地籍)にあり、甲越紛争において武田方が葛山城攻略にあたり静松寺より水の手の情報を得て落城となった伝説がある。
第二次甲越合戦で旭山城の破却を和議条件とした武田方にとって、葛山城は目障りな上杉の象徴であり何としても落とすべき憎悪の対象であった事は想像に難くない。

砦の南側の中腹の麓にかつての静松寺があったという。
ここから旭山城の動向を見るには申し分の無い場所で、第二次甲越合戦においては上杉方が砦を置いたのは間違いないと思われる。

砦跡から見た旭山城。
【城跡】
主郭は18×18の方形の神社地で周囲を段郭が巡るシンプルな作りだ。尾根は二ヶ所に堀切を穿っただけである。葛山城に繋がる尾根筋以外は周囲を険しい斜面に囲まれているので特に厳重な防備は不要だったのかもしれない。

鞍部の最初に現れる片堀。

鞍部の二番目の堀切。

主郭と一段下の副郭の接続部分。段差はかなり低い。

神社の鎮座する主郭(18×18)

副郭には東屋が置かれているが、訪れる人は絶えたようだ。
第二次甲越合戦の和議条件を破り、武田方は上杉方の城将落合備中守の守る葛山城を急襲する。葛山城の南麓にあった静松寺は武田方の調略によって城の弱点である水の手の情報を漏らし凄惨な落城の原因の一端を担ったと伝わる。

戸隠道に向かって開口する副郭の虎口。
弘治三年(1557)2月15日、雪で動けない越軍の隙をついて牧野島城より馬場信房の率いる武田軍が葛山城を急襲しこれを落とした。この時兵火に遭い静松寺も焼け落ち堂宇も尽く灰燼に帰したという。
頼朝山は葛山城の南正面に位置し最前線である。城へ向かう登城路の途中には何条もの竪掘が敷かれ、東へ向かえば往生寺側の南東峰の砦に通じる。武田軍はここを制圧するために静松寺に火を掛け更に南斜面へ放火し攻撃ルートを確保したのであろう。

長野市内が一望出来るロケーション。
静松寺はその後天正十五年(1587)に現在の地に春虎和尚が堂宇を再建したという。
壮絶な討死を遂げた葛山城主の落合備中守とその一族の霊は静松寺で弔われているという。

遠く松代方面も見通せる。
ここに立つと、目の前の旭山城は恐ろしく近い。こんな至近距離で敵味方分かれて睨みあっていたとは想像し難いものがあるが、それが戦国の世というものなのであろうか・・・。

近年の地震により破損した祠が痛々しい。
≪頼朝山砦≫ (よりともやまとりで)
標高:642m 比高:252m (裾花川より)
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市茂菅
攻城日:2015年9月23日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:10分
駐車場:静松寺駐車場を借用
見どころ:堀切、景色
参考文献・書籍:「信濃の山城と館 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:特に無し
付近の城跡:葛山城、旭山城、大黒山城など

静松寺よりみた全景。

長野市街地から見た頼朝山砦とその周辺の山城。
気が付けば「更埴・長野編」の掲載がこの砦で100を数えた。しかし通過点でしかない・・(カッコイイ・・笑)
しかしこのブログでは超メジャーな葛山城について未だ記載していない事を指摘する読者は多い・・・(汗)
「明日やろうはバカ野郎」を座右の銘としているが、城域のデカイ城の記事は苦手だし面倒臭い・・(笑)
なので今回ご案内するのは葛山城の南尾根の先端に位置する頼朝山砦。

国道406号線から県道76号線に分岐した先にある静松寺(じょうしょうじ)が砦への登り口になる。
【立地】
葛尾城より南へ派生した尾根の先端部に当たり、南下を裾花川が流れて浸食している為に断崖絶壁となっている。現在は国道406号線が砦の真下を「頼朝山トンネル」として貫通しているが、往時は戸隠道が山裾を通っていた。

駐車場の先を歩くと分岐になる。東へ進めば頼朝山の北側の尾根に通じる道となる。(茂菅口方面は旧戸隠街道)
【城主・城歴】
「頼朝山」の由来は静松寺に関連していて、征夷大将軍が源頼朝が建久八年(1197)に善光寺に参拝した際に、以前源氏再興のため諸国遍歴の途中、この寺で没した家臣の菩提を弔うために寺に田地山林を寄進し自ら「頼朝山法性浄院静松寺」と名づけた事に因んでいる。

静松寺から5分程度登れば鞍部に出るので後は道沿いに登るだけだ。
静松寺は葛山の中腹(今の古屋敷地籍)にあり、甲越紛争において武田方が葛山城攻略にあたり静松寺より水の手の情報を得て落城となった伝説がある。
第二次甲越合戦で旭山城の破却を和議条件とした武田方にとって、葛山城は目障りな上杉の象徴であり何としても落とすべき憎悪の対象であった事は想像に難くない。

砦の南側の中腹の麓にかつての静松寺があったという。
ここから旭山城の動向を見るには申し分の無い場所で、第二次甲越合戦においては上杉方が砦を置いたのは間違いないと思われる。

砦跡から見た旭山城。
【城跡】
主郭は18×18の方形の神社地で周囲を段郭が巡るシンプルな作りだ。尾根は二ヶ所に堀切を穿っただけである。葛山城に繋がる尾根筋以外は周囲を険しい斜面に囲まれているので特に厳重な防備は不要だったのかもしれない。

鞍部の最初に現れる片堀。

鞍部の二番目の堀切。

主郭と一段下の副郭の接続部分。段差はかなり低い。

神社の鎮座する主郭(18×18)

副郭には東屋が置かれているが、訪れる人は絶えたようだ。
第二次甲越合戦の和議条件を破り、武田方は上杉方の城将落合備中守の守る葛山城を急襲する。葛山城の南麓にあった静松寺は武田方の調略によって城の弱点である水の手の情報を漏らし凄惨な落城の原因の一端を担ったと伝わる。

戸隠道に向かって開口する副郭の虎口。
弘治三年(1557)2月15日、雪で動けない越軍の隙をついて牧野島城より馬場信房の率いる武田軍が葛山城を急襲しこれを落とした。この時兵火に遭い静松寺も焼け落ち堂宇も尽く灰燼に帰したという。
頼朝山は葛山城の南正面に位置し最前線である。城へ向かう登城路の途中には何条もの竪掘が敷かれ、東へ向かえば往生寺側の南東峰の砦に通じる。武田軍はここを制圧するために静松寺に火を掛け更に南斜面へ放火し攻撃ルートを確保したのであろう。

長野市内が一望出来るロケーション。
静松寺はその後天正十五年(1587)に現在の地に春虎和尚が堂宇を再建したという。
壮絶な討死を遂げた葛山城主の落合備中守とその一族の霊は静松寺で弔われているという。

遠く松代方面も見通せる。
ここに立つと、目の前の旭山城は恐ろしく近い。こんな至近距離で敵味方分かれて睨みあっていたとは想像し難いものがあるが、それが戦国の世というものなのであろうか・・・。

近年の地震により破損した祠が痛々しい。
≪頼朝山砦≫ (よりともやまとりで)
標高:642m 比高:252m (裾花川より)
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市茂菅
攻城日:2015年9月23日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:10分
駐車場:静松寺駐車場を借用
見どころ:堀切、景色
参考文献・書籍:「信濃の山城と館 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:特に無し
付近の城跡:葛山城、旭山城、大黒山城など

静松寺よりみた全景。

長野市街地から見た頼朝山砦とその周辺の山城。
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Posted on 2015/09/29 Tue. 07:53 [edit]
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