らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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夜交氏山城① 大城 (下高井郡山ノ内町)  

◆林道が崩落し訪れる人が絶えて久しい長大な複合要塞に挑む◆

タイトルが「よませしやましろ」とすんなりと読める方は重病かもしれない・・・医者に診てもらおう・・・(笑)

夜交氏発祥の地は夜間瀬と記載され、米沢藩上杉氏の家臣として明治維新を迎えた夜交氏は夜間瀬氏に改姓している。

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横倉集落の登城口にある標柱。近隣の住民の方も行き方を丁寧に教えてくださいました。林道が途中で崩れている事までは教えてくれなかった・・・残念・・

山城踏査の全国区のパイオニアであるウモ殿が、数年前に崩落した林道の危険さ故に登城を断念したという夜交氏山城。

毎度お馴染み相方ていぴす殿に加え、春日山より特別参戦のえいき殿を加えた重病人トリオが下見の名の元に無謀な挑戦!(汗)

果たして結果はいかに・・・・・。

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下見の下見を兼ねた9月3日の夜交氏山城全景。久々に戦慄を覚える険しさだった。


【下見登山という名目ではハード過ぎる攻城戦】

2015年10月12日、予定通り決行。天気も装備もバッチリ(笑)

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登城口から見た高社山(標高1,351m、別名:高井富士)は美しかった。

林道なんでジムニーなら入れるのだろうが、途中で何が起こるか不安だったので入口で車を捨てて徒歩で電気柵を越える。

夜交氏山城(山ノ内町) (1)
ここの電気柵を開けて右に曲がる林道を歩く。(開けたら必ず元に戻してネ)

順調に林道を歩いていくと、突然土砂崩れの跡に遭遇し道が寸断され万事休す。

「♪そして僕は途方に暮れる・・♪」・・(古いなあ・・・・笑)

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こんな光景見たら登るの止めたくなるのも道理ですよね。

「道が無ければ斜面に取り付くだけサ!!(汗)」

※足場の脆いガレの岩場を縫うように登るので、メンバー各自の落石による二次被害を防ぐために並列で登らないと危険だ。


【立地】

高梨氏の詰め城である鴨ヶ岳城や峰続きの箱山城の北側を流れる夜間瀬川の平野部を挟んだ東側にそそり立つ険しい山塊に位置する山城である。嘗ての大手のあった横倉集落から登った先の標高800m付近に大城、峰続きの東の900mに小城、更に尾根を東へ詰めた1020mあたりが遠見と呼ばれる場所がある。

夜交氏山城(山ノ内町) (4)
登り始めて25分で「第一空堀」㋐の標柱にたどり着く。傾斜の急な岩盤を削って作られた堀切は結構な落差があり驚く。


夜交氏山城(山ノ内町) (14)
堀の上部から見下ろして撮影。補助線邪魔かしら・・(笑)

夜交氏山城 大城① 001


【城主・城歴】

夜間瀬地区は朝廷の御牧とされていたという。平安末期に朝廷より高井地方の下司職として任命された藤原助弘が中野氏を名乗りその後子孫が鎌倉時代、室町初期に勢力を広げ、その一族が南北朝の頃に夜間瀬に入り夜交氏(よませし)を名乗り横倉に居館を構えたのが始まりとされる。

宗家の中野氏が市河氏や高梨氏の台頭により衰退していく中、夜交氏も在地土豪として着実に勢力を拡大していく。しかし、室町幕府設立後に尊氏と義直が不和となり観応の擾乱が勃発し義直が敗死すると、義直党だった夜交氏の所領は尊氏側だった高梨氏に与えられてしまい、夜交氏は高梨氏の被官に成り下がってしまった。

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堀切㋐の上に削平されたV字の段郭。

戦国時代に入り高梨氏の配下となっていた在地土豪衆は度々反乱を企て、夜交氏も例外ではなかった。永正十年(1513)七月、夜交景国は菅の山城の小島高盛らと大規模な反乱を起こすも高梨頼澄によって追討鎮圧され、両氏とも処刑され館や城下町を焼かれ一族は大打撃を受けてしまうが、その恨みが消えることはなかったらしい。

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堀切㋑。藪が酷くて写真も厳しい。

夜交氏山城(山ノ内町) (29)
尾根筋に続く段郭はざっと10段以上はあるだろうか。急斜面に段郭を築くのは防御施設としては堀切より各段に有効だ。

その後、武田信玄による信濃侵略が始まり抗戦していた村上義清が越後へ逃れると、北信濃の諸豪族は上杉謙信に助けを求め甲越紛争が勃発する。
武田軍の北信濃侵攻が本格化し甲越が全面戦争に突入した弘治年間、高梨政頼は謙信より飯山口の方面司令官として飯山城において泉氏とともに守備を固めるよう命じられる。この間、武田信玄の調略の手は高梨軍団の切り崩しに成功し小島修理亮、木島出雲守が離脱。この時に夜交甲斐守も武田に降ったとされる。
永禄四年(1561)、第四次甲越合戦で夜交千代松(満国)はその戦功を信玄より称され、父景国の旧領を安堵され失地回復に成功する。

夜交氏山城(山ノ内町) (40)
結構デカい帯郭を重ねているので土木作業の規模としては大掛かりだったと思われる。

夜交氏山城(山ノ内町) (50)
長さ31mある郭2。

武田氏統治時代に夜交氏は市河氏、木島氏、小島氏らと共に飯山口の抑えとして引き続き城の整備を担っていたものと考えられ、甲越紛争が終息し国境が確定すると共にその役割を終えたと思われる。

その後、武田氏が滅亡すると上杉景勝に本領を安堵された。「文禄三年定納員数目録」では夜交九郎三郎が六十七石の知行高だった。
景勝の会津移封に伴い、江戸時代米沢藩では二百二十石の知行高を給されている。

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郭2と郭1の接続部分は石塁で盛り土された堀切㋒がある。

【城跡】

主郭と副郭を堀切で区切る手法はこの地域共通の縄張手法だったようだ。

特筆すべきは石塁で守られた主郭(郭1)で、内部に人工的に意図して作られた櫓台のような段違いの郭が置かれている。
もともとの地盤がガレの岩場なので土塁で周囲を囲むよりは石塁で囲んだほうが手っ取り早かったのであろう。きわめて合理的な手法であり、信濃の山城にはよく見られる土木工事である。

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堀切㋒(上巾8m)

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大城の主郭と昭和レトロな説明版。訪れる人も絶え読む人もいないというのが現状なのであろう。

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主郭を全周する石塁。掘ればガレ石が出てくるので土を盛るより容易だったのかもしれない。

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昭和最後の遺品。

郭1(主郭)の南側には横堀状の郭が土塁で囲まれるように設置されてる。武者溜りのような場所なので、南斜面を遮断する堀切㋒を経由しての迎撃施設かもしれない。

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郭1より見下ろしたL字型の横堀状の郭。堀切㋒に接続している。

主郭背後は急峻な岩が露出して天然の堀切を形成している。その先に二重堀切を穿って、堡塁の役割の郭3へ接続している。ここから約450mほどで小城(女城)に至る。

夜交氏山城(山ノ内町) (91)
岩崖を利用した堀切㋓。

同行したえいき殿曰く、南斜面の竪堀㋒から斜面の下側に通路らしき跡があるので、主郭への出入りは堀切㋓に一度入って南側から登ったのだろうと推定している。

夜交氏山城(山ノ内町) (96)堀切㋓と二重堀切㋔の間にある堡塁。虎口への侵入を警戒している。

夜交氏山城(山ノ内町) (98)
堀切㋔(二重堀切)

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堡塁(郭3)

小城(女城)との比高差は90mだが、長い尾根をひたすら歩く。いわゆる「上の城」と「下の城」という信濃に多い城郭の特色がここでも見られる。

夜交氏山城(山ノ内町) (113)
大城(男城)の西端の堀切㋕。

縄張図を見て感じるように、尾根の南側に対してかなり防御を意識した作りであることが分かる。これは武田に対する備えではなく、中野の高梨氏に対する備えだったと思うのは飛躍しすぎだろうか?

では次回、小城と遠見編へ・・。

≪夜交氏山城 大城≫ (よませしやまじょう おおしろ 男城) 

標高:808m 比高:280m 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:山ノ内町夜間瀬
攻城日:2015年10月12日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:50分
駐車場:果樹園脇の空き地に路駐
見どころ:堀切、石塁、段郭など
参考文献・書籍:「信濃の山城と館⑧ 水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)
注意事項:林道が途中で崩落しているので歩行注意。ガレ岩の直登につき同行者への落石による二次災害の恐れあり要注意
付近の城跡:尾根続きの小城は必見。 遠見は任意。近くに鴨ヶ岳城、鎌ヶ岳城、箱山城など。

夜交氏山城(山ノ内町) (100)
尾根筋から僅かに見える湯田中温泉街。現在の城跡からの見晴らしは良くない。 



夜交氏山城遠景






















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Posted on 2015/10/26 Mon. 10:01 [edit]

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