らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
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信玄城 (上水内郡信濃町高沢) 
◆信越国境の見張砦か?◆
基本的に夏場は「藪・蜘蛛の巣・虫・蛇・スズメバチ・」など敵が多く、高温多湿で体力の消耗が激しいので山城巡りは遠慮している。
一番の問題は城跡の写真を撮っても、青々と茂る緑と藪で何が何だかわからないという事であろうか・・・。
「信濃の山城のフランシスコ・ザビエル」になりたい小生は、ブログに写真を多用する伝道師を目指しているので夏は最悪・・(汗)
そう言いつつ、今年は掟破りの夏場の攻城戦頑張っちゃいました・・(笑) なので写真の撮り直しで二度目もありかと・・・(爆)

野尻湖に来るとどうしても撮影したくなる国道18号線沿いのナウマンゾウ親子。
夏は国内外の避暑地として賑わう野尻湖周辺は、戦国時代は甲越紛争の国堺として激戦区であった。
野尻湖に浮かぶ枇杷島城(野尻城)、その北側対岸には謙信が絶対死守を命じて新たに築城させたという野尻新城(推定)があり、湖岸の南には激しい争奪戦の繰り広げられた割ヶ岳城がある。

枇杷島城から見た野尻城。ここを野尻新城とする説と国道18号線沿いの土橋城を野尻新城とする説が存在する。

野尻湖に浮かぶ枇杷島は野尻城として上杉軍の国境の砦が置かれたが、甲越紛争で武田が一時奪取している。

近年発見された土橋城。謙信が新たに築城を命じた野尻新城という説もあるが、遺構は古い形態の館城のようにも思える。

信玄が神仏に願文を捧げ、その自落を願ったという上杉軍の「鰐ヶ岳城」(わにがたかじょう)ではないかと言われる割ヶ岳城。
で、今回ご案内するのは、境目の城と伝わるものの、完全に名前負けしていると思われる「信玄城」。
【立地】
黒姫山(20253m)の北の裾野を流れる関川のほとりに突き出た細長い台地上にあり、長野県と新潟県の県境に位置する。上信越道信濃町インターから県道119号線を妙高高原に向かって走り、県境手前から高沢発電所を過ぎたところにある。要害性は低いが、山間の古道が小谷村まで通じていたという。

高沢発電所脇の舗装路を苗名滝方面に向かうとクランクになるので、その先が入口。

城跡には高沢集落の方により祠が祀られているので入口から参道が続いている。
【城主・城歴】
地元の方の伝承として「しんげんじょう」と呼ばれているだけで、史料等もなく詳細は不明であるという。宮坂武男氏の調査によれば「けんしんじょう」という呼び名もあるらしく、名前から甲越合戦の頃の砦だったことからその名が伝承されたと推定している。

関川に突き出た台地を利用して作られた関所のような場所である。
上杉軍が小谷村方面からの武田軍の侵入を監視したものか、逆に武田軍が小谷村からの攻略拠点として築いたものかはわからない。このような簡易な作りでは敵からの攻撃には耐えられない。

主郭は台地の先端にあり一段高い場所を削平している。

主郭に設置された祭神不明の小祠。
【城跡】
北側は関川に向けた谷となり、東側は西の沢と呼ばれる川が流れるものの、要害性は乏しく堀切などの防御遺構も見当たらない。
尾根を削平しただけの場所である。
ここから小谷村までの経路は2000m級の山々に囲まれた場所で、果たしてどのように古道が走っていたかも不明だ。

主郭の先端。この先は小さな段郭を置いて関川への谷となっている。

城域東側は緩く削平された跡が残る。

主郭から見た参道。堀切かと思いきや、くぼ地だったりする・・(汗)
甲越紛争時に臨時に置かれた国境の物見か番所跡というのが無難な見方であろうか。
それにしてもこのような場所で見張り番するのも嫌だなあー・・・(笑)
≪信玄城≫ (しんげんじょう)
標高:780m 比高:45m (関川より)
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:上水内郡信濃町高沢
攻城日:2015年9月13日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:道路脇より5分
駐車場:林道脇の空き地に路駐
見どころ:-
参考文献・書籍:「信濃の山城と館⑧ 水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)
注意事項:小型乗用車までなら何とか通行可。
付近の城跡:野尻城、割ヶ岳城、琵琶島城、土橋城など

記録しなければ信玄城という名前さえ後世には伝わら無いと思われる・・
基本的に夏場は「藪・蜘蛛の巣・虫・蛇・スズメバチ・」など敵が多く、高温多湿で体力の消耗が激しいので山城巡りは遠慮している。
一番の問題は城跡の写真を撮っても、青々と茂る緑と藪で何が何だかわからないという事であろうか・・・。
「信濃の山城のフランシスコ・ザビエル」になりたい小生は、ブログに写真を多用する伝道師を目指しているので夏は最悪・・(汗)
そう言いつつ、今年は掟破りの夏場の攻城戦頑張っちゃいました・・(笑) なので写真の撮り直しで二度目もありかと・・・(爆)

野尻湖に来るとどうしても撮影したくなる国道18号線沿いのナウマンゾウ親子。
夏は国内外の避暑地として賑わう野尻湖周辺は、戦国時代は甲越紛争の国堺として激戦区であった。
野尻湖に浮かぶ枇杷島城(野尻城)、その北側対岸には謙信が絶対死守を命じて新たに築城させたという野尻新城(推定)があり、湖岸の南には激しい争奪戦の繰り広げられた割ヶ岳城がある。

枇杷島城から見た野尻城。ここを野尻新城とする説と国道18号線沿いの土橋城を野尻新城とする説が存在する。

野尻湖に浮かぶ枇杷島は野尻城として上杉軍の国境の砦が置かれたが、甲越紛争で武田が一時奪取している。

近年発見された土橋城。謙信が新たに築城を命じた野尻新城という説もあるが、遺構は古い形態の館城のようにも思える。

信玄が神仏に願文を捧げ、その自落を願ったという上杉軍の「鰐ヶ岳城」(わにがたかじょう)ではないかと言われる割ヶ岳城。
で、今回ご案内するのは、境目の城と伝わるものの、完全に名前負けしていると思われる「信玄城」。
【立地】
黒姫山(20253m)の北の裾野を流れる関川のほとりに突き出た細長い台地上にあり、長野県と新潟県の県境に位置する。上信越道信濃町インターから県道119号線を妙高高原に向かって走り、県境手前から高沢発電所を過ぎたところにある。要害性は低いが、山間の古道が小谷村まで通じていたという。

高沢発電所脇の舗装路を苗名滝方面に向かうとクランクになるので、その先が入口。

城跡には高沢集落の方により祠が祀られているので入口から参道が続いている。
【城主・城歴】
地元の方の伝承として「しんげんじょう」と呼ばれているだけで、史料等もなく詳細は不明であるという。宮坂武男氏の調査によれば「けんしんじょう」という呼び名もあるらしく、名前から甲越合戦の頃の砦だったことからその名が伝承されたと推定している。

関川に突き出た台地を利用して作られた関所のような場所である。
上杉軍が小谷村方面からの武田軍の侵入を監視したものか、逆に武田軍が小谷村からの攻略拠点として築いたものかはわからない。このような簡易な作りでは敵からの攻撃には耐えられない。

主郭は台地の先端にあり一段高い場所を削平している。

主郭に設置された祭神不明の小祠。
【城跡】
北側は関川に向けた谷となり、東側は西の沢と呼ばれる川が流れるものの、要害性は乏しく堀切などの防御遺構も見当たらない。
尾根を削平しただけの場所である。
ここから小谷村までの経路は2000m級の山々に囲まれた場所で、果たしてどのように古道が走っていたかも不明だ。

主郭の先端。この先は小さな段郭を置いて関川への谷となっている。

城域東側は緩く削平された跡が残る。

主郭から見た参道。堀切かと思いきや、くぼ地だったりする・・(汗)
甲越紛争時に臨時に置かれた国境の物見か番所跡というのが無難な見方であろうか。
それにしてもこのような場所で見張り番するのも嫌だなあー・・・(笑)
≪信玄城≫ (しんげんじょう)
標高:780m 比高:45m (関川より)
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:上水内郡信濃町高沢
攻城日:2015年9月13日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:道路脇より5分
駐車場:林道脇の空き地に路駐
見どころ:-
参考文献・書籍:「信濃の山城と館⑧ 水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)
注意事項:小型乗用車までなら何とか通行可。
付近の城跡:野尻城、割ヶ岳城、琵琶島城、土橋城など

記録しなければ信玄城という名前さえ後世には伝わら無いと思われる・・
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Posted on 2015/11/06 Fri. 12:40 [edit]
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