らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
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千束城南東尾根砦 (南安曇郡小谷村中小谷) 
◆千束城の烽火台か?◆
北信濃の山城=雪に覆われ見学期間が短い・・・というのは確かにそうだが、プラス「藪との戦い」でもある。
小谷・白馬地方は特に藪椿(ヤブツバキ)の自生地が多く、誰かが意図的に我ら城探訪者に意地悪をするために植えたのか?と疑いたくなるほどである・・・(笑)
今回ご紹介するのは、その名の通り前回ご紹介した千束城の南東の尾根にある「千束城南東尾根砦」(中ドヤ)である。

信濃先方衆の我らに「敵前逃亡」とか「戦わずして退却」はあり得ない。前進あるのみ。
【立地】
千束城(北ドヤ)から南東に張り出した尾根の中断に位置し、この砦から千束城まで比高約140mある。登り口は池原集落より林道を登り脇の休耕地から斜面に取り付くのが無難。千束城から縦走して下るのも良いが藪漕ぎ必死なので覚悟が必要だ。
比高144mを藪漕ぎで下るのは大変。ようやく辿り着いた砦の遺構。
加工度はそれなりだが、なんともヘンテコリンな形の砦である。宮坂氏は西半分が崩落した可能性も推定されている。
西から東へ弧を描くように巡る堀切㋓。
西崖側の堀切㋓。
【城主・城歴】
千束城同様に不明。小谷村誌では「北ドヤ」を千束城と推定していて、「南ドヤ」については「池原の須合地籍南側にあたり、姫川に張り出した尾根上に構えられた城である。」として「昔城があったとされる中ドヤの確認も急がれる」としている。
宮坂武男氏は北ドヤを千束城、南ドヤを鳥居城と特定できたとするなら、この南東尾根砦は北ドヤと南ドヤの中間に位置するのだから、ここを「中ドヤ」ととみてもようさそうだ、としている。
小谷村誌では、千束城の築城主体を北西の石坂集落としているので、この場合わざわざ物見として南東尾根砦を築く意味が見当たらない。考え方とすれば、北側勢力がが守りから攻撃支配へと転じ出城を築く必要性に迫られたものと解釈できるであろうか。
堀切㋓と段差付きの二重堀切(横堀)を構成する堀切㋒の西側の出口付近。
【城跡】
千束城と同じく藪椿が城跡一面を覆い尽くしてしまい、自分が縄張図のどの位置に立っているのかすら判断に悩む。
本城の尾根に対しては段付きの二重堀切を穿ちかなり厳重に警戒している。土塁で囲んだ主要部は窪地も含めて自然地形を利用した跡が認められるが、宮坂氏の指摘のように西側が崩落した可能性は捨てきれない。
堀切㋒。
残雪が無ければ堀切の撮影は無意味なのもであったかもしれない。
砦の主要部。藪に覆われて何が何だか写真ではさっぱり分からないと思われる・・・(汗)
比高144mの千束城を見上げる。「もう、行きたくない・・・」(笑)
何処をどうあがいても見渡す限りの「椿祭り」である。
写真を撮るだけ無駄と思いながら、補助線引いて何とかしたいとも思うのである。
城域の東側を遮断する堀切㋑。
南東斜面の最終の堀切㋐。

ここが城の中心部です。そういわれても「♪椿咲く~春なのに~ あなたは帰らない~♪」のヘビーローテーション(笑)
さあ、如何だったでしょうか?
「えっ、これだけなの?」 そうなんです。この先、どんな写真を出そうと椿の春になってしまいますw
何故ここに砦が必要だったのか?
考えすぎても夜はぐっすり眠れる自分に乾杯!!・・(笑)
≪千束城南東尾根砦≫ (せんぞくじょうなんとうおねとりで 中ドヤ)
標高:726m 比高:165m(池原の辻より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:北安曇郡小谷村中小谷
攻城日:2015年5月2日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:100分(千束城経由) 駐車場:特にない。路駐。
見どころ:段付き二重横堀、土塁など
注意事項:特に無いが、藪漕ぎ必死。単独訪問は避けよう。
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)、 小谷村誌
付近の城址:千束城、舘山、平倉城、鳥居城など
Special Thanks:ていぴす様

池原集落から見た砦。この場所の立地と高さで充分単独物件としての山城の要件を満たしていると思われる。
北信濃の山城=雪に覆われ見学期間が短い・・・というのは確かにそうだが、プラス「藪との戦い」でもある。
小谷・白馬地方は特に藪椿(ヤブツバキ)の自生地が多く、誰かが意図的に我ら城探訪者に意地悪をするために植えたのか?と疑いたくなるほどである・・・(笑)
今回ご紹介するのは、その名の通り前回ご紹介した千束城の南東の尾根にある「千束城南東尾根砦」(中ドヤ)である。

信濃先方衆の我らに「敵前逃亡」とか「戦わずして退却」はあり得ない。前進あるのみ。
【立地】
千束城(北ドヤ)から南東に張り出した尾根の中断に位置し、この砦から千束城まで比高約140mある。登り口は池原集落より林道を登り脇の休耕地から斜面に取り付くのが無難。千束城から縦走して下るのも良いが藪漕ぎ必死なので覚悟が必要だ。




【城主・城歴】
千束城同様に不明。小谷村誌では「北ドヤ」を千束城と推定していて、「南ドヤ」については「池原の須合地籍南側にあたり、姫川に張り出した尾根上に構えられた城である。」として「昔城があったとされる中ドヤの確認も急がれる」としている。
宮坂武男氏は北ドヤを千束城、南ドヤを鳥居城と特定できたとするなら、この南東尾根砦は北ドヤと南ドヤの中間に位置するのだから、ここを「中ドヤ」ととみてもようさそうだ、としている。
小谷村誌では、千束城の築城主体を北西の石坂集落としているので、この場合わざわざ物見として南東尾根砦を築く意味が見当たらない。考え方とすれば、北側勢力がが守りから攻撃支配へと転じ出城を築く必要性に迫られたものと解釈できるであろうか。

【城跡】
千束城と同じく藪椿が城跡一面を覆い尽くしてしまい、自分が縄張図のどの位置に立っているのかすら判断に悩む。
本城の尾根に対しては段付きの二重堀切を穿ちかなり厳重に警戒している。土塁で囲んだ主要部は窪地も含めて自然地形を利用した跡が認められるが、宮坂氏の指摘のように西側が崩落した可能性は捨てきれない。




何処をどうあがいても見渡す限りの「椿祭り」である。
写真を撮るだけ無駄と思いながら、補助線引いて何とかしたいとも思うのである。



ここが城の中心部です。そういわれても「♪椿咲く~春なのに~ あなたは帰らない~♪」のヘビーローテーション(笑)
さあ、如何だったでしょうか?
「えっ、これだけなの?」 そうなんです。この先、どんな写真を出そうと椿の春になってしまいますw
何故ここに砦が必要だったのか?
考えすぎても夜はぐっすり眠れる自分に乾杯!!・・(笑)
≪千束城南東尾根砦≫ (せんぞくじょうなんとうおねとりで 中ドヤ)
標高:726m 比高:165m(池原の辻より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:北安曇郡小谷村中小谷
攻城日:2015年5月2日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:100分(千束城経由) 駐車場:特にない。路駐。
見どころ:段付き二重横堀、土塁など
注意事項:特に無いが、藪漕ぎ必死。単独訪問は避けよう。
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)、 小谷村誌
付近の城址:千束城、舘山、平倉城、鳥居城など
Special Thanks:ていぴす様

池原集落から見た砦。この場所の立地と高さで充分単独物件としての山城の要件を満たしていると思われる。
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Posted on 2015/12/06 Sun. 20:22 [edit]
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