らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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信玄塚 (下伊那郡根羽村横旗)  

◆武田信玄の終焉地はここだったのか?◆

某国営放送局より受信料のリベンジを行うべく大河ドラマの真田丸を「BSプレミアム」(18:00~」)⇒「総合テレビ」(20:00~)と連続して観て、挙句の果てに録画までしている念の入れようである・・・(笑)

「小生は真田丸ブームになど惑わされない・・・」といいつつ草刈安房守昌幸よろしく表裏比興だったりする・・(汗)

さて、残念ながら第二話では、世間から絶大な支持を得た平岳大勝頼は自刃して武田家は滅亡し、小山田温水信茂は主家を裏切る不忠を詰られて織田玉置信忠により誅せられた。

岩殿城①
小山田信茂が城代だった岩殿城全景。単体の山城としては険しい立地にあるが、縄張は単純で後詰めが無ければ長期の籠城など無理である。

土壇場で勝頼を裏切った小山田温水信茂の評価は最悪だが、敢えて弁護させていただくと、長篠の戦いでは武田軍最大の三千の兵を投入しほとんどが討ち死するという損害を被っている。この時、御一門衆の穴山榎木梅雪は戦いにロクに参加せず真っ先に戦線離脱し武田軍総崩れの元凶となったので、勝頼が心情的に小山田を庇っているのは理解できるのである。

まあ、真田丸のよもやま話は都度挟んでいきたいと思うが、今回ご案内するのは信玄終焉の地と比定されている「信玄塚」。

ここは以前のブログで「武田信玄終焉地考」という書籍をご紹介した時に触れているが、今回ようやく現地を訪問することが出来た。

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【場所】

長野県の南西端となる下伊那郡根羽村横旗(よこはた)の国道153号線の道路沿い西上の山の中腹に八幡社と共に供養塔(宝篋印塔)が祀られている。根羽村の中心部と平谷村との境の赤坂峠との中間地点で、周囲を山に囲まれた谷間の傾斜地で民家が点在する淋しい場所。バイパス開通後は注意しないとうっかり通り過ぎてしまうので注意。

根羽村周辺図 001

【根羽村の宝篋印塔】

ここに高さ1.9mの花崗岩で造られた宝篋印塔(墓石・供養塔)があり、地元の人は「信玄の五輪」と呼んでいる。元々は現在地から東へ数十メートル先の国道下にあったようで、その場所が信玄塚と呼ばれ、クマサキの大木が生い茂り武田一族の名の刻まれた石塔群とともに道を挟んで十王堂が淋しく立っていたという。
国道拡幅のバイパス工事に伴い、信玄塚のあった場所は壊され地中深く眠り石塔群と十王堂は国道下の別の場所に移された。(今回は時間の都合で現地確認していない)

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かつて信玄塚のあった場所は国道の下に眠っているらしい。

元亀三年(1573)西上作戦で大軍を率いて三河に侵攻した信玄は、長篠で越年して正月より野田城攻めを行うが、陣中で病を発症し病状回復せず甲州へ帰還する三州街道の途中の旧暦4月12日に卒去。享年53歳。

信玄終焉の地は三州街道のどこなのかはっきりしたことは分からないのだが、定説として認められているのは「駒場(こまんば)であろう」という事らしい。

が、駒場には信玄卒去に関連したものが何もないのである。
※遺品の兜の前立二種と火葬場の伝承はあるが古文書は残っていない。

信玄塚 (7)
バイパスを西に曲がれば信玄塚である。

「武田信玄終焉地考」を書いた一之瀬義法氏が根羽村説に拘ったのは、城主大名級の供養塔(宝篋印塔)が何故根羽村に建立されここに設置されたのか?という素朴な疑問だったと後述しています。

信玄の終焉地としては、

①駒場説                「当代記」「御宿監物の長状」

②浪合あるいは浪合・平谷説   「徳川実紀」「三河物語」「三河風土記茎葉集」

③根羽説               「甲陽軍艦」「熊谷家伝記」

④田口説               「野田城記」「野田実録」等

四か所が候補として挙げられているものの、③根羽の宝篋印塔(供養塔)を覗いて何もそれを示すものは残っていない。(田口に小さな五輪塔が一つあるという)

なるほど考えてみれば根羽村の土地の人々何もない横旗にお金を出して立派な記念塔を立てる理由はないし、戦国時代の有力大名の出身地でもないのだ。

偉大な信玄公の終焉地(亡くなった場所)として武田家の旧臣やゆかりの者がお金を出し合い供養塔を建てたというのが真実のようで、現に一之瀬氏の調査では古老の話として浪合村の高坂氏が信玄の命日である四月十二日に「信玄公を祀るように」と毎年酒や物を村人に贈って依頼していたという。

信玄塚 (9)
石段を登った先にある八幡社の社務所。

現在の信玄塚には昭和56年の説明版と平成6年の説明版の2枚がある。恐らく国道のバイパス工事に前後した為であろう。
小生が色々申すよりも説明版の文言をお読みいただき、考えていただくのが得策かもしれない・・・(笑)

信玄塚 (11)

信玄塚 (13)
六尺五寸の宝篋印塔と他の二神の祀られている八幡社。

信玄塚 (12)
平成6年の説明版。

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花崗岩で出来たかなり立派な宝篋印塔が鎮座している。

信玄がご臨終した場所を特定することで、歴史学が変わる事は恐らくないだろう。

それでも、戦国最強の武将だった武田信玄が西上の夢を果たすことが出来ずに息を引き取った場所がここかもしれない・・と言われれば、その無念さが胸に去来するのである。

信玄塚 (14)

「巨星墜つ」

新田次郎原作の「武田信玄 山の巻」の目次にあるこの見出しは「焼き印」の如く頭を離れなかったが、信玄塚に立つと不思議に心の「つかえ」が取れた気がした。

信玄塚 (6)
信玄塚のある国道153号線のバイパスの壁画。なかなかの力作である。

信玄の西上作戦の目的は「京都へ上る事」ではなく「徳川・織田領への侵攻作戦」という考え方もあるようだが、自分の寿命を知っていた信玄は京都に是が非でも行くつもりだったと小生は考えているが、どうであろうか・・。

≪信玄塚≫ (しんげんづか)

標高:810m 比高:10m
造営年代:不明
造営者:不明
場所:下伊那郡根羽村横旗
攻城日:2015年11月23日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:バイパス脇に駐車場有り 
見どころ:宝篋印塔
注意事項:特になし
参考文献:「武田信玄終焉地考」(一之瀬義法著、1987年教育書籍)
付近の城址:根羽砦、根羽城ヶ峯、根羽女城、滝之沢城など
Special Thanks to ていぴす殿、u-naomochi殿

信玄塚 (2)
甲府への帰還途中の篭の中で、遠のく意識と闘いながら信玄は最後に何を思ったのだろうか・・・。










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Posted on 2016/01/30 Sat. 22:12 [edit]

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