らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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滝之沢城 (下伊那郡平谷村靭)  

◆押し寄せる織田軍を相手に奮戦するも身内の造反により落城◆

北信濃の城ばかりだと寒いので、ここからしばらく南信濃の城について触れてみたい。

掲載したからと言って北半球の寒気団が引っ込む訳ではないが、このまま消費期限切れの不良在庫にするよりはマシなのだ(笑)

今回ご紹介するのは天正十年(1582)二月、甲州征伐の岩村口からの織田軍の侵入を喰い止めるはずだった滝之沢城。

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滝之沢城の入口。国道153号線(三州街道)の靭(うつぼ)バス停の脇にデカい看板があるのでその脇の道を入る。

【立地】

天文23年(1554)~弘治年間にかけて、伊那谷を攻略した武田信玄は、"伊那六関"を設けた。市之瀬(滝之沢)、清内路、小野川、帯川、心川、波合に設けられた関所は、隣国の三河、美濃の動向を監視し、物資の荷改めや人改めの役割を果たしていた。(現在の阿智村、平谷村を通る三州街道沿いに置かれていた)

滝之沢城 (4)
道路脇を下って行くのだが、「ホントにこんな場所にあるの?」(ピンボケご容赦!)

六関の中の滝之沢関は、「とつばせの関所」と呼ばれ、平谷口の交通の要衝の地でもある事から砦が併設され滝之沢城と呼ばれたようである。国境である根羽村ではなく、ここに砦が築かれたのは、三河・美濃方面への眺望に優れている事と、防御に優れた立地条件だという。

滝之沢城見取図 001
柳川と関川が合流する段丘の突き出た部分に本陣の比定地があり、まさに要害である。

ちなみに「とつばせ」とは、両岸が迫り出すように近づき、急速に川幅が狭まる漏斗状地形(ろうとじょうちけい)を指す方言である。三河・美濃方面から攻め込んだ敵を迎撃するには絶好の場所で、信玄がこの地を選んだのも納得である。

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北側の削平地を踏査するスペシャルゲストの「u-naomochi」さん(手前。奥の方はていぴす殿)

滝之沢城 (12)
本陣比定地の南側より見た北の郭部分。

「比定地」という言葉を使っているが、とつばせの関所は実は場所が確定されておらず、平谷村教育員会は消去法で柳川と関川の合流地点に接する場所に標柱を建て、段丘上の削平地を滝之沢城の本陣としている。

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本陣比定地に建つ標柱。

【城主・城歴】

平谷村誌によれば、弘治年間あるいは永禄年間にとつばせの関と滝之沢城が設営されたらしいが史料、伝承等が無く不明だという。
滝之沢城が史料に登場するのは「信長公記」と「甲乱記」だという。
また、「下条記」は信憑性には欠けるが、下条氏の遍歴については今のところこの資料で辿るしかないようである。

滝之沢城 (20)
標柱には別名の「南部の要害」と記されている。デジカメの写真は何故かピンボケばかり・・(汗)

天正十年(1582)二月、甲州征伐に際して岩村口から織田信忠、河尻秀隆が伊那方面に向けて進軍を開始。この時、武田領の南西端を領していた下条伊豆守信氏は兵を二手に分け、自らは平谷口の滝之沢城で嫡男信正と共に迎撃態勢を敷き、間道である売木口の抑えは居城である吉岡城に留守居として弟の下条九兵衛氏長を置いて織田軍の迂回に備えた。

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城跡の説明版。郭名が沢山並んでいるが、これは縄張ではなく合戦時の下条軍の迎撃の陣形の誤りであろう。

二月六日に始まった滝之沢城を巡る攻防戦は、武田軍の先方として各地を転戦して数々の軍功を挙げた下条伊豆守信氏が寡兵ながら一歩も引かず奮戦し戦いを優位に進めたていた。しかし、この時すでに織田方に内応していた弟の下条九兵衛氏長は売木口の間道より織田方の河尻秀隆を吉岡城に引き入れ城を明け渡していた。また、後詰めの松尾城の小笠原信嶺も既に織田方に内通しており、滝之沢城の北側の治部坂峠から松尾小笠原と下条氏長の裏切り部隊がイッキに駆け下り滝之沢城の背後を突いた。

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本陣比定地。(南の土塁側より撮影)

背後からも敵を受けた下条信氏軍は総崩れとなり滝之沢城は落城。下条伊豆守信氏・信正父子は敗走し三河国の作手黒瀬に落ち延びた。

滝之沢城の落城の知らせは伊那谷で迎撃態勢を敷いていた武田の諸城に伝わり、戦わずして自落する者が続出していく。

滝之沢城 (14)
本陣の西側から南側にかけて残る土塁跡。

【城跡】

三州街道に沿って流れる柳川と関川の合流する段丘は、南側から見るとその斜面は自然地形ではなく人工的な切岸として加工されていたことが分かる。現地に立つと確かに河岸が狭くなり合流地点が一番狭く、ここに何らかの陣地が築かれていたのであろう。そして説明板の絵に描かれていたように、川に迫る両崖や両岸の上に迎撃用の横矢を仕掛ける郭があったのかもしれない。当日は時間が無く付近の形状を調べることは出来なかったので、次回の課題としたい。

滝之沢城 (23)
本陣の土塁の南端。

滝之沢城 (27)
南側から見た切岸。

滝之沢城 (35)
関川と柳川の合流地点に立つ関所跡の標柱。比定地であり確定していない。

滝之沢城 (37)
柳川の崖の上に迎撃用の空き地があったのだろうか。

滝之沢城で織田軍を迎え撃った下条伊豆守信氏は、身内の反逆により城も領地も失い三河作手奥瀬で逃亡生活を送る。剛勇で知られた嫡男の信正は迎撃戦の時に負傷した傷が元で亡くなり、信氏も故郷に戻ることなく失意のうちに病死。だが、次男頼安は本家再興の望みを捨てなかった。

一方、兄の信氏を追い出して吉岡城主となった九兵衛氏長に対して下条家の家臣たちは反発し密かに頼安に連絡を取りクーデターを計画。信長亡き後の下伊那の覇権を狙う徳川家康が頼安を後援し氏長を処断、下条宗家の再興に成功する。

その後の下条頼安の活躍、松尾小笠原家との怨念の争い、あっけない没落に感心のある方は⇒「吉岡城」の記事でご確認ください。

滝之沢城 (38)
このあたりで標高1000mってのも凄い。

≪滝之沢城≫ (たきのさわじょう 南部の要害)

標高:1000m 比高:15m
築城年代:不明
築城・居住者:武田氏、下条氏
場所:下伊那郡平谷村靭(うつぼ)
攻城日:2015年11月23日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分 駐車場:特になし、路駐 
見どころ:土塁、切岸など
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(2013.6 平山優 著)
参考歴史小説:「戦国鬼譚 惨 (いらぬ駒)」 (2012年 伊東潤)
付近の城址:根羽砦、根羽城ヶ峯、根羽女城など
Special Thanks to ていぴす殿、u-naomochi殿













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Posted on 2016/01/24 Sun. 16:46 [edit]

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