らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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権現城 (下伊那郡阿南町大下条南條)  

◆南信濃で下条氏と抗争を繰り広げた関氏最後の拠点◆

2014年3月23日、我ら信濃先方衆は同胞のていぴす殿とともに南信濃の国人「下条VS関」抗争劇の舞台となった城巡りを敢行。
がしかし、関氏の最後の居城だった権現城は通常ルートが土砂崩れで通行止めとなり、迂回ルートの林道に迷い込みタイムアウトで訪問叶わず後ろ髪惹かれる思いで撤収した・・・・。

そして1年半後の2015年11月、我々の願いがようやく叶い、リベンジとなった。

「下伊那は 遠くにありて 想うもの」 このことであった・・・・・(笑)

権現城 (2)
城の入口の合戸橋から和知野川を撮影。城跡は和知野集落の対岸に位置し橋を渡り右へ登り徒歩約20分。

権現城 (1)
橋の手前の道路脇には説明版がある。関氏に関しての事前知識が無いと「??」となり、通りすがりの探訪者には優しくない(笑)

【立地】

権現城は和知野川右岸に、天龍村神原郷戸の余脈が和知野川に突出する標高520mの険しい山の峰に築かれている。もともとこの地は猪毛(いもう)と呼ばれ、天龍村福島領分であったが、当時の関氏が威力で強引に築城した。左方の崖下を南沢(犬坊沢)が、右方は城沢が流れ、共に和知野川に注いでいる。
和知野川の河岸より急峻を焼くkm登ると緩い傾斜地があり、ここに屋号を「城」という人家(10年前に火災で焼失)と畑がある。関氏以前より居住していた坂部熊谷家の別家で、落城後再びもとの地に住むこととなったのである。

権現城 (15)
火事で焼失したが、最近になって再建を始めたという熊谷家。城の大手で居住区だったと思われる。(郭6)

権現城 (16)
城平より見た対岸の和知野集落。和知野川をどうやって渡河していたのか問題となる。

【城主・城歴】

伊勢平氏を祖とする関氏は室町時代のはじめに信濃の南部伊那郡に来往し、新野(現在の阿南町新野)を拠点として勢力を蓄積し信濃守護であった小笠原氏の支配下にあってこれに従属した。時には小笠原氏の指揮に従い、各地を転戦ししばしが軍功を挙げて伊那郡南部にあっては下条氏とともに相当強大な勢力を擁するに至った。

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関三社八幡宮への参道を比高30m登ると鳥居があり、ここから城の主要部(郭3)となる。

新野の日差城にあった関氏は、春光の子春仲にいたり、勢いようやく強大となってきた永正の頃より、次第に外部に向かって勢力の伸長を図り、はては和知野川を越えてその以北の大下条の地域に進出しようとするに至った。
(この時に急遽築かれた砦が八幡城だとも)

権現城見取図① 001

所領を接している下条氏はこれに対し、前々より警戒を怠らなかったが、関氏の圧力は次第に強く、このままの状態で放っておくと下条氏の存亡にも影響するものがあるとして、下条氏はついに大永五年(1525)兵を構えて関氏の進出を阻止する為に、関氏の兵と大下条早稲田に戦った。

権現城 (26)
南側から撮影。2と3の段差は曖昧だ。

しかし、合戦は関氏の勝利でとなり下条家氏は敗退。逆に関氏の大下条侵略を許す結果を招いてしまった。一説によれば下条氏は松尾小笠原家と対立状態にあり、充分な兵を投入出来なかった事が原因とも云われている。
関春仲はこの勝利に乗じて勢力拡大を画策し、大下条の地籍に矢草城を新たに築城し新野より拠点を移し、下条氏と対峙して版図拡大の機会を狙った。そして10年後、更に上田城を新たに築城し備えを盤石とした。

下条VS関の経緯

このころ、関春仲は家督を子の盛永に譲った。その盛永は上田城の築城の二年後の天文七年(1538)、更に地形の要害である和知野に新たに城塞を築いてこれに移った。これが権現城(和知野城)である。

権現城 (28)
郭2と主郭(社殿のある場所)との段差。

以後、権現城は関盛永の居城で関氏の最後の拠点となった要害である。その築城にあたっては領下の住民を使役し、城主の盛永が驕慢(きょうまん)に走り民心を失った。盛永は主な老臣、同族の忠告も入れず、家臣たちの不信を高めた。加えて北方の下条氏に対して幾度か軍事衝突があった。この時、吉岡城にいた下条氏の当主時氏は、ついに天文十年(1541)兵三百を率いて関氏の居城和知野を攻撃した。しかし、この時も関氏の守備は固くかえって撤退の際に関氏の逆襲と追撃受けてしまい、下条時氏は大沢古城に辛うじて逃げ込み事なきを得たという。

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主郭に建つ関三社八幡宮。

この時の関氏の版図が最大で領有地は二十七ケ村、石高は三千二百三十二貫文に及んだ。しかし前述の通り領民に対する過酷な労役や戦役を強いた為に人心は関氏より離れ、家臣らも城主盛永を疎んずるに至った。

権現城 (33)
主郭に残る往時の建物の礎石。

この情勢を察知した下条時氏は、天文十三年(1544)八月、おりからの月明りに乗じて一挙に関氏の居城和知野を急襲し落城させた。一説にはその時、城内では月見の宴の最中だったといい、内応者が下条氏の兵を城に密かに引き入れたという。不意打ちされた関氏の近習はこれを防ぐことが出来ず、一族郎党の多くが討死または四散した。関春仲とその奥方は混乱の中で殺され、城主盛永も近臣の一人犬坊丸に槍で刺されて死に、南信濃に覇を唱えた関氏はここに滅亡する。

権現城 (35)
関一族の祟りを恐れて建立された関三社八幡。

一方、関盛永の奥方であるお萬の方は、落城の際に一子長五郎(五歳)を伴って城を脱出し、山伝いに向方村に廻り、生家の浪合に逃れようとした。途中戸口(とこう)の伊藤惣十郎を頼ったが、欺かれて母子は殺されたという。お萬の方の墓は天龍村大河内にある。(残念ながら今回は訪問できませんでした・・・)

権現城 (37)
城の西側の段郭。

【城跡】

縄張りは単純で他の関氏の築城した城と変わり映えしないが、立地条件がその脆弱さをカバーしたなかなかの要害の地である。和知野川が城の大手を守る天然の堀となり、城の東西は犬坊沢と城沢の深い渓谷に守られ人を寄せ付けない険しさである。唯一の攻め場所と思われる主郭の背後の南尾根は一騎駆けの細尾根で巨大な空堀が穿ってある。

権現城 (49)
石垣の施された一段高い位置に置かれた本殿。

本殿よりもさらに高い三角形の場所が城の最高位(郭4)で、ここに関家当主関盛永、父の関安芸守春仲、その室の三基の墓碑が立っている。

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右から「枯嶽浄栄居士」(関盛永)、「殊光院山燈了関居士」(関安芸守春仲)、「灌山貞頂大姉」(春仲室)」の墓碑。

権現城 (56)
郭4から尾根に向かっては一騎駆けの痩せ尾根が23mの長さで続く。

権現城 (60)
深く巨大な堀切㋐を上からのぞき込む。

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堀切㋐を介して向こう側に関氏の氏神である「熊野権現社」(奥の院)が見える。権現城の名前の由来はここからきている。

権現城 (63)
堀切㋐の堀底。東西の沢へ落ちる斜面の角度が急なので竪堀にする必要はない。

権現城 (70)
熊野権現社のあるところが郭5.その先もやはり一騎駆けの痩せ尾根だ。

権現城 (83)
南端の二条の堀切。(ていぴす殿のいる場所が堀切㋑)

人を寄せ付けない要害の地に築城された権現城が、僅かな兵の下条軍の攻撃によって落城するとはとても思えない。やはり関氏の城の守備側に内応者があり、あらかじめ攻撃日時や攻城の際に手引きし下条軍を引き入れたと思われる。

権現城 (30)
権現城の主郭の東斜面の切岸を調査する「ていぴす殿」とゲストの「u-naomochi殿」

南信濃の山間部の土豪から急成長した関氏であったが、経済地盤が固まる前に無理な築城を繰り返し領民の恨みを買い、また下条氏との度重なる戦で人心の離反、家臣の不信が募り自ら破滅の道を辿った。

関氏を滅ぼした下条氏は従来の所領に関氏の所領三千貫を加えて、南信濃では松尾小笠原家を凌ぐ大身の国人となり、その後信玄の信濃侵攻では武田に降り、信玄の妹を娶り伊那郡代秋山信友の配下として百五十騎の軍役を課されている。(ちなみに松尾小笠原は百騎、松岡は五十騎)

がしかし、下条氏も戦国時代を乗り切るあと一歩のところで滅んでしまったのは、ご存じのとおりである。

権現城 (4)
再建中の熊谷家(郭6)の背後の小山が権現城の主要部。帰り際にご子息と色々とお話をさせていただきました。ありがとうございました。


≪権現城≫ (ごんげんじょう 和知野城、城山)

標高:466m 比高:125m
築城年代:天文七年(1538)
築城・居住者:関氏
場所:下伊那郡阿南町大下条南條
攻城日:2015年11月22日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:20分 駐車場:特になし、橋を渡り右へ曲がり適当に路駐 
見どころ:堀切、関氏の墓碑など
注意事項:熊谷さんのお宅の私有地を通るので、家の方がいる場合は挨拶してから登りましょう。(気持ちよく許可してもらえます)
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「下伊那郡史第六巻」(下伊那教育会編纂 )「定本 伊那谷の城」(1996年 郷土出版社)
付近の城址:矢草城、八幡城、上田城など
Special Thanks to ていぴす殿、u-naomochi殿










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Posted on 2016/02/06 Sat. 13:40 [edit]

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