らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0212

和田城 (飯田市南信濃和田)  

◆戦国時代を生き抜きながら、跡目争いであっけなく滅んだ江儀遠山氏の最後の居城◆

十原館をそそくさと撤収した我らは、遠山氏の最初の居城である長山城に攻め入るかどうかを協議するが、つるべ落としとなる晩秋の夕暮れの16:30は危険と判断して「後ろ髪惹かれる思い」で断念。
ならば遠山氏の最後の居城の和田城だけは「足跡だけでも・・」と寄った次第・・(笑)

IMG_4119.jpg
遠山郷土館。既に閉館していたのは言うまでもない。

【立地】

遠山川の左岸で盛平山(森山)の西麓の河岸段丘上に立地している。西側は和田宿に向かって20mの急崖になり、南側は小池川の扇状地に崖となっていて、背後は盛平山の急斜面を背負った形で比高こそ少ないが、要害の地形である。江戸時代初期まで和田城の西側は遠山川の深淵であったが、盛平山の崩落により川床が大きく変わり現在のような地形に変化したという。

IMG_4120.jpg
南信濃和田は、長野県で最も日の入り時間が早いと云われているので、資料館の閉館時間も早いらしい・・(汗)


【城主・城歴】

遠山氏の土着についてははっきりせず、鎌倉時代末期の古文書に、信州遠山に地頭がいたことが明記されており、室町時代の応永7年(1400)に信州で勃発した大塔合戦にも「遠山出羽守」なる人物が参戦していることが明らかになっている。
遠山郷の神社の多くは「鎌倉正八幡社」と号しており、多くの系図や伝承でも、遠山氏の先祖は鎌倉からやってきたと伝えているので、遠山氏は早ければ鎌倉時代、遅くとも室町時代にはこの地に住み、周辺の地方豪族たちと対等に渡り合っていたと想定されている。そして戦国時代に入り、遠山氏は歴史の表舞台に登場したのである。

遠山氏の出自と経歴については他の城館を調査した上でいずれ掲載したいと思うが、今回は郷土館にある二代「遠山景直」についてのみ触れておこう。

IMG_4122.jpg
郷土館の敷地内にある「徳川家康に謁見する遠山土佐守景直」の銅像

≪遠山土佐守景直≫

武田氏の衰退後、下伊那地方は織田氏、ついで徳川氏の支配下に入る。 天正13年(1585)、上田城の真田昌幸が家康に抵抗した際、遠山家二代当主土佐守景直は下伊那の諸侯とともに家康側として出陣。その時の功が認められ、景直は慶長初年(1596頃)に岡崎城内で家康に謁見を許され、領地の安堵を得る。

この時の逸話として下記が伝わるという。

土佐守景直が家康に謁見した際、家康から食事を賜った。そのとき土佐守は左手で茶碗を隠しながら食事をし、食べ終わってから茶碗の上に箸を渡して置いた。(いわゆる「渡し箸」)。
家康がその作法を不審に思って訳を尋ねると、土佐守は 「遠山は貧しい山国で米がとれないために、身分の上下を問わず麦や粟を常食としている。 よって尊い方の前で食事をするときは、恥じて隠しながら食べるのが習慣になっている」 と答えた。
家康はこれを聞いて気の毒がり、上穂(現駒ヶ根市)1000石を加増し、箸を茶碗の上に置いた形を家紋とするように沙汰したという。

IMG_4123.jpg
和田城から見た遠山郷の集落。

迫りくる日没には勝てず、本郭だった龍渕寺も調査出来ないまま僅か数枚の写真を撮り、後ろ髪惹かれる思いで我々は和田城を離脱した。
遠山氏関連だけで10か所ある城館は泊りがけで踏査する価値があるので、次の宿題にしておく。


≪和田城≫ (わだじょう)

標高:427m 比高:20m
築城年代:不明
築城・居住者:遠山氏
場所:飯田市南信濃村和田
攻城日:2015年11月22日 
お勧め度:★☆☆☆☆ (再調査予定)
城跡までの所要時間:3分 駐車場:あり
見どころ:切岸、郷土館見学
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版) 遠山郷観光協会
付近の城址:長山城、大町城、八重河内城など
Special Thanks to ていぴす殿、u-naomochi殿










スポンサーサイト

Posted on 2016/02/12 Fri. 21:51 [edit]

CM: 4
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top