らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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箕輪城 1 (高崎市箕郷町西明屋)  

◆百戦錬磨の「土の城」の最終進化形・・・只今整備中です◆

我が師匠の「あおれんじゃあ」殿も「いつでも行けるからイイや、と思っている城には中々行かない」とおっしゃていた。

そう、小生にとって上野国の名城「箕輪城」は常に素通り。

真田丸に出ちゃったし、武田の郡代も置かれた重要なお城だし、こりゃー行っておかねば笑いものになること必死かと・・(笑)

箕輪城2016(高崎市) (1)
箕輪長野氏時代はこちら側が大手口だったらしい。

後発組のよそ者の小生が「日本百名城」であることすら知らない箕輪城を語るのは恐れ多いので、今回は城歴について何の知識も持たない素人目線で書いてみたいと思う。

【立地】

箕輪城は、群馬県高崎市箕郷町にあり、榛名白川によって削られた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された平山城である。城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成していた。
その地形は正に要害の地であり、長野氏全盛時代を築いた長野業正は、武田信玄の幾度かの侵攻を防ぎきり難攻不落の名城を誇っていたという。

箕輪城縄張図① 001
高崎市役所の整備箇所が記された秀逸なパンフレット。これさえあれば、余計な能書きは不要だ。

まず驚くのは城域の広大さでろう。城地は東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約47ヘクタールにおよぶ広大なもので、全ての詳細を踏査するには丸一日かけても難しいと思われる。

今回、小生は三時間弱で一回りしたが、時間が許せばもう一度トライして詳細を確認したいというのが本音である・・(汗)

箕輪城2016(高崎市) (7)
北条時代の角馬出の名残りであろうか。

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搦手馬出と稲荷郭との間の水堀跡(本丸の側)。鉄砲を意識した広い堀。

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本丸北の御前曲輪(ごぜんくるわ)とは高低差70mの稲荷曲輪(いなりくるわ)

箕輪城2016(高崎市) (30)
稲荷曲輪と新曲輪の間の堀跡。新曲輪(しんくるわ)の中に「丸馬出」が置かれている状況から考えると、新曲輪は北条あるいは徳川(井伊直政)時代の普請と考えられる。

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箕輪城の最北端の新曲輪。北の守りを強化した事が伺える。

箕輪城2016(高崎市) (46)
うっかり通り過ぎてしまいそうな丸馬出。規模から見ると武田時代の遺構のように思えるがどうであろう。


【長野業正の死】

関東管領である山内上杉氏家に従い、山内上杉家没落しても義理立てし北条氏につくことも無く、武田信玄ですら退けた「孤高の戦士」であり名君の誉れ高き長野業正であったが、永禄四年(1561)に死去。享年71歳だったという。
業正は死去する前、嫡男の業盛を枕元に呼び寄せて、「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」と遺言したという(関八州古戦録)

また、「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と武田信玄が嘆くほど長野業正は信玄をてこずらせたという。

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稲荷曲輪と本郭の間の巨大な水堀跡。

【その後の箕輪城は?】

まあ、上野国を語るには「黙れ、こわっぱ!!」と上野国衆よりお叱りを受けそうなので、ちゃんと調べてそのうち掲載します・・・(笑)

なので、箕輪城の写真オンパレードでも・・・・

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井伊時代の石垣。(御前郭の西側の堀底にあり、土留めも兼用していた。

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この辺の堀の普請は徳川時代であろう。

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三の丸付近に残る井伊時代の石垣跡。ここに三の丸門があり、西側に下ると大手門(追手門)があった。

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郭馬出(二の丸の南の出郭)に建設中の二階建て櫓門。無理に再現するのはどうかと老婆心(笑)

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発掘調査も行われている事を示すトレンチ。(二の丸)


【城跡を隅々まで見たいなら2時間~3時間は必要】

平成23年度から始められた整備事業は平成26年度で終了予定だったらしいが、まだ終わらない・・・(汗)
高崎市が主体となり2億5000万円をかけて整備事業を継続中である。

郭だった平坦地は伐木し、切岸などの傾斜地は間伐することで全体の遺構がハッキリしてきている。
トイレや東屋が本当に城跡の中に必要な施設なのかは疑問に思うが、戦国末期まで使用され江戸時代の最初まで現役だった中世の山城は全国的に見てもそう例が無い。

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二の丸南側の堀底から見た二の丸と郭馬出を繋ぐ土橋。

城への入口は、「搦め手口」、「榛名口」、「観音様口」、「大手尾根口」、「大堀切口」、「大手虎韜口」、「霊置山口」の七か所がある。その全てを制覇し城の遺構を堪能するには、最低3時間は必要だろう。
弁当持参で来ても後悔しないだけの価値はあると思いますw

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城域の南端の大手門と丸戸張付近。

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広大な城域を分断する通称「大堀切」

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本丸跡の碑

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広大な本丸は北条時代の普請と拡張によるものだという。

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本丸の北に隣接する御前郭。

偉大な戦国時代の名将長野業正の後は14歳の業盛が継いだ。箕輪衆を率いて信玄の侵攻を一度は喰い止めたが、永禄九年(1566)に二万の大軍を率いて上野国に侵攻してきた武田軍に攻められて落城。上杉謙信に応援を請うも援軍は現れず9月29日に本丸北側の御前曲輪において父業正の位牌の前で一族郎党自害して果て、長野氏は滅亡。(業盛の享年24歳)

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御前曲輪に建つ箕輪城将士慰霊碑。

関東管領の謙信さん、国内の反乱分子も鎮圧出来ず、まして武田と北条退治も同時進行ではチョッとキツイか・・・(汗)

それにしても、素晴らしい名城である「箕輪城」

久しく行っていない方、整備がもうすぐ終わるので再訪お勧め。もちろん初回の方も大歓迎!

≪箕輪城≫ (みのわじょう)

標高:280m 比高:60m
築城年代:永正九年?
築城・居住者:長野氏、武田氏、北条氏、井伊氏
場所:高崎市箕郷町
訪問日:2016年2月27日 
お勧め度:★★★★★ (満点) 
城跡までの所要時間:- 駐車場:三ヶ所
見どころ:全て
注意事項:特になし
参考文献:適当
付近の城址:いっぱいあります(笑)

箕輪城2016(高崎市) (213)
長野氏時代の復元予想図なんかもありました。せっかくなのでこの看板もリニューアルして欲しいものですw




















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Posted on 2016/03/01 Tue. 07:33 [edit]

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