らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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女神岳城2 (リバイス 上田市野倉)  

◆真田氏に反旗を翻した斎藤が立て籠もった山城◆

GW前半は家族への滅私奉公が中心なので、後半戦にゲップが出るほど城巡りでもしようかと・・・(笑)

今回ご案内するのは「若気の至り」でテキトーな写真と解説で恥ずかしい限りの6年前の女神岳城のリテイク記事である。

女神岳城2015 (1)
登山口は野倉公民館の北側の民俗資料館から東へ300m入ったところになる。乗用車は資料館か公民館に置かせてもらおう。

女神岳城2015 (2)
杉林を道なりにしばらく進む。

女神岳城2015 (3)
女神山天宮大神の鳥居があるので、そこから一直線に伸びた恐ろしい傾斜の斜面を約20分程度ひたすら登る。

【立地】

信州の鎌倉として有名な塩田平のいで湯「別所温泉」の南側に聳える女神岳(926.9m)の山頂に城跡がある。現在の山頂周辺は松林で覆われ視界は良くないが、塩田平周辺の城跡は一望出来る立地となる。秋は松茸山で止め山となるので8月末~11月上旬までは無用のトラブルを避けるため登山は控えよう。

女神岳城縄張図① 001
独立峰に築かれたシンプルな縄張だが、主郭前後の堀切の遮断が念入りである。

女神岳城2015 (19)
息絶え絶えに神社の祠に辿り着いくとそこからが城域となる。(女神山天宮大神・城山大神の対の祠)

【城主・城歴】

長野県町村誌には隣接する馬伏城の記載があるが、女神岳城については何もない。「宝永年間 信濃国郡絵図」には斎藤源左衛門拠城とあるらしい。

慶長五年(1600)、斎藤源左衛門が一揆をおこしてここに拠り、真田氏に抵抗したとされ、その時のもう一つの拠点が馬伏城らしく、長野県町村誌にその事が記載されている。この年は関ヶ原の戦いがあり、昌幸・信繁父子が上田合戦で公儀(幕府)を妨害したとして九度山に配流されている。真田氏の配下であった土豪の斎藤氏が何故真田に反乱を企てたのかは定かではない。第二次上田合戦の最中なのか、領主が昌幸⇒信幸に替わった時の反乱なのかはよくわかっていないらしい。この城で合戦があったのかも不明である。

女神岳城2015 (10)
神社から南東へ向かう尾根。

女神岳城2015 (12)
南東の尾根先の平場。見張り台であろうか。

女神岳城2015 (25)
最初の堀切㋐(上巾3m)

女神岳城2015 (28)
神社から北東の主郭への接続部分。

【城跡】

塩田平から見ても結構目立独立峰の山で、東西の斜面はかなり急で人を寄せつけない。大手は比較的傾斜の緩い北尾根または北東尾根となり、北東の尾根には落差を付けた四条の堀切を入れて警戒している。

●四連続の堀切

東西は急斜面なので遮断のみが目的。四連続の薬研堀は結構深く鋭い。写真撮影で表現するのも厳しい・・(ってか使える写真にロクなもが無かった・・・汗)

女神岳城2015 (31)
主郭背後の四連続堀切の最初の㋑と㋒

女神岳城2015 (34)
堀切㋑の堀底断面。

女神岳城2015 (35)
手前の堀切㋑から郭2方面に連続する堀切。

女神岳城2015 (38)
㋒の堀底から見た隣接する㋓との堀壁。深く険しい。

女神岳城2015 (44)
4本のうち、真ん中二本は斜面に対して短い。東西の斜面は急なので尾根を遮断する効果だけを狙ったものであろう。

女神岳城2015 (47)
最終の堀切㋔から見上げた郭2の塁壁。かさ上げした土塁でより高く見える(ピンボケご容赦!)

●主要部

頂部に主郭、段差を付けて副郭(郭2)、そして東の更に一段下に郭3を置き、石積みが全ての郭の周囲を囲む仕様は実に見事である。城の規模としては小さいのだが、領民を動員して大掛かりな石積みを施す土木作業が斎藤氏単独で出来たのかは疑問が残る。

女神岳城2015 (56)
郭2。主郭の周囲を囲んでいた石積みが崩れて散乱している。

女神岳城2015 (58)
郭2の外周の石積み(手前)と郭1の外周の石積み(奥)

女神岳城2015 (60)
郭2の外周の石積み。笹洞城とよく似た仕様の石積みで往時のトレンドだろう。

石積みを用いた山城は北信濃、特に松代町周辺に数多く存在するが、東信濃でも松尾古城、祢津下の城、矢立城、天白城、丸子城、和合城などに見られる。

古いタイプは単純に土砂崩落を防止するための土留めの役割であったが、戦国時代末期近くになると西国の石垣技術を取り入れた独自の石積み技法が北信濃・中信濃を中心に展開していったようである。鉄砲や重装備の攻城兵に対しての防御として取り入れられたようだが、平積みの石積みはせいぜい1.5~2mの高さが限界だった。平城では無意味だが、山城では充分な効果が期待出来たはずだ。

女神岳城2015 (63)
約500年の風雪に耐えた石積み。現代にその遺構が残っているのは奇跡に近い。

女神岳城2015 (69)
丁寧に削平された主郭。三等三角点が置かれている。

女神岳城2015 (65)
主郭から東段下の郭3を見下ろす。結構な段差がある。

女神岳城2015 (78)
主郭の東外周の石積み。至福の時である・・(笑)

女神岳城2015 (73)
郭3.ここから郭2へは直接入れず堀切㋔を通って郭2⇒郭1へと連絡したものであろうか。

女神岳城2015 (76)
このご褒美が拝めるなら「心臓破りの20分一本勝負」はお安い御用だと思います。

●北東尾根の堀切

大手筋と思われる傾斜の緩い尾根にはやはり四条の堀切を置いて厳重に遮断している。落差を付けて堀の内側を削る事で防御効果を増大させているのが分かる。幾重に重ねる段郭も効果的だが、地面の柔らかい女神岳は堀切を刻むのが早かったと思われる。

女神岳城2015 (79)
堀切㋕の堀底を郭3からのぞき込むとこんな感じ。

では、補助線を外して同じ写真。堀切写真でその険しさを視覚でお伝えするのは難しいものです・・・(笑)

女神岳城2015 (79)
小生の視点で見えましたか?

女神岳城2015 (84)
堀切㋕の堀底断面図。斜面をかなり人工的に削らないとこういう角度にはならない。

女神岳城2015 (86)
落書きした堀切㋖

女神岳城2015 (86)
落書き無しで堀切㋖が上の写真のように見えたら「山城マイスター初級検定」終了・・(笑)

女神岳城2015 (88)
堀切㋖の堀底断面。長い年月の土砂の堆積でかなり埋まっているが、発掘調査すればさらに1m以上は深いと思われる。

女神岳城2015 (92)
堀切㋗(上巾10m) もはや補助線は不要であろう・・・(笑)

女神岳城2015 (95)
最終の堀切㋘。間伐の作業道がすぐ近くまで開通していたのには驚いた。

リテイクの女神岳城、如何でしたでしょうか?

「えっ、6年前と比較しても進歩してない」  ・・・・・(汗)

人生、常に奢ることなく前進あるのみです・・・(なんのこっちゃ・・・笑)

女神岳城2015 (97)
北東尾根先からは何とか山田集落が見え、その先には独鈷山。

斎藤氏が真田氏に反乱を企てて籠った城と伝わるが、実際には徳川軍の上田攻めの際に内通してこの城に籠城したのではないのだろうか。関ヶ原の合戦の戦後処理で昌幸・信繁父子の九度山への配流が決定したのは12月である。第二次上田合戦の際に、保福寺峠を越えて青木村で真田昌幸の配下の池田長門守と合戦となった石川康長(石川数正の息子)と呼応する形で蜂起し女神岳城に立てこもったのではないのだろうか?

まあ、そのうち真実が明らかになるのをお待ちしておりますw


≪女神岳城≫ (めがみだけじょう)

標高:926m 比高:200m
築城年代:不明
築城者・城主:不明
場所:上田市野倉
訪問日:2015年11月7日
お勧め度:★★★★☆ 
所要時間:20分
見どころ:石積み、堀切など
周辺の城跡:馬伏城、塩田城、峰小屋城(独鈷山山頂)、駒形城など
注意事項:秋は松茸山の入山禁止なので注意。
参考文献:「信濃の山城と館③上田小県編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)

女神岳城2015 (119)
東信濃を代表する石積みの美しい山城である。

女神岳城2015 (127)
西塩田方面から見た女神岳城。

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Posted on 2016/04/30 Sat. 20:05 [edit]

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