らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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百瀬陣屋 (松本市寿豊丘)  

◆旗本諏訪氏の代官所跡◆

「旗本」の定義を50字以内で簡略に説明せよ・・・・

「大名もしくは大名と同等の扱いを受ける者以外で、石高が1万石未満であり将軍に謁見する家格を持つ者の総称」
 (我ながら素晴らしい・・・拍手・・・笑)

現代の感覚では「○○藩の大名=お殿様」といイメージが強いが、1,000石以上の知行を持つ旗本も往時は立派な「お殿様」でした。

今回ご紹介するのは、諏訪高島藩から分知され旗本となった諏訪氏の代官屋敷跡である。

旗本というと常に江戸屋敷に詰めているように思うのだが、実際は交代寄合の身分を持つ旗本は参勤交代が許され知行地に陣屋を構え帰る事も許されていた。もちろん、他の旗本も陣屋を設置し代官を置くことは許されていたらしい。

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百瀬陣屋跡に立つ説明版。

【立地】

松本市の寿豊丘地区に百瀬集落がある。陣屋はここの集落の北端に位置し、背後には小河川が水堀の役割を果たしていたというが、現在は北側にマンションが建ち往時面影は無い。陣屋の西側もアパートが建てられ陣屋跡の東側に僅かにその面影を残すのみである。

百瀬陣屋跡①
史跡とはいえ、消滅するのは時間の問題であろう。

【城主・城歴】

現地の案内板には次の記載がある。

「江戸時代この地は諏訪高島領の東五千石に属していたが、明暦三年(1657)領主の弟に、内田、赤木、の千石余の地を分地しこれが旗本諏訪氏百瀬陣屋のはじめとなった。

当初は内田に代官所がおかれていたが、寛文十一年(1671)赤木山の入会の山論(村と村の境界線争い)が起こったので所領を変更し、内田・赤木の代りに、瀬黒村、竹渕村、白川村、と百瀬村の一部を知行所とし、ここに代官所がおかれた。

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今も残る陣屋の門。

当初の代官は三井氏が、享保(1916)の初年より、萩原氏と近藤氏が交代で代官をするようになりその後近藤氏が御用人格兼代官となり明治維新まで続いた。

明治維新、全国の幕府領は朝廷のものとなったので、旗本領であった百瀬代官所も廃された。

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門とその周辺には往時の面影が残る。


【陣屋跡】

往時の陣屋は間口五間、奥行三間で茅葺屋根であったが、近年に至って瓦葺に改められた。建築年代は不明であるが江戸時代中期以降と推定される屋敷地は土居と枡形に囲まれ旧態を存している。
(昭和五十三年七月 松本市教育委員会)

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東西に走る道路脇に残る土塀跡。

宅地化の進む市街地のど真ん中でこれだけの遺構が残っているのは奇跡的である。所有者である近藤様には感謝申し上げたい。

個人の所有物なので、いずれ取り壊されるにしてもキチンと記録を残しておいて欲しいと切に願うばかりです。


≪百瀬陣屋≫ (ももせじんや 市史跡)

標高:622m 比高:- 
築城年代:1671年
築城・居住者:諏訪氏
場所:松本市寿豊丘
攻城日:2015年3月16日
お勧め度:★☆☆☆☆ 
所要時間:-
駐車場:無し
見どころ:土塀、門、陣屋建物など
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
注意事項:個人住宅なのでプライバシーには充分注意の事
付近の城跡:中山砦、埴原城、赤木北城、赤木南城など


Posted on 2016/05/27 Fri. 00:50 [edit]

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