らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0531
静間館 (飯山市静間) 
◆小豪族が交代で移り住んだであろう居館跡◆
山城のオフシーズンとなれば運動不足と不摂生により体が鈍ってしまい、ここ数日ヘルニアの症状に悩まされている・・(汗)
ワンダーコア2でも購入して腹筋・背筋を鍛えるとしようか・・・(笑)
今回ご案内するのは、飯山市の静間館(しずまやかた 静間神社館とも)。居館の縄張りは簡単でいいやという横着者の発想。

静間神社のある場所が居館跡として伝わる。
【立地】
飯山市街地の南口で、斑尾山(まだらおさん)を源流とする清川が渓谷を刻み、扇状地の出口に当たる開けた場所に位置する。清川渓谷は越後の頚城地方に通じる古道が通じていて、居館のある場所は交通の要衝にあたる。

居館跡に鎮座する静間神社。安土桃山時代に勧進されたと伝わる。
【城主・城歴】
静間神社の境内は静間小太郎館跡と伝承されているが、静間小太郎の資料は現存していない。ただし、関連の静妻(志津摩・志妻・志津間・閑妻)氏については「保元物語」や「平家物語」などの軍記物語に散見し、平安末期の静妻氏の存在は明らかであろう。保元の乱を記す「保元物語」では平清盛と同様、後白河天皇方としての源義朝の配下に志津摩太郎、同小次郎(各写本により字は異なる)などが見える。
また、「平家物語」には越後の平家党の城氏の配下に閑妻六郎が見えるが、善光寺平の横田川原合戦で城氏が源氏の木曽義仲に敗退し、静妻氏も衰退したと推察される。

居館跡は神社の勧進や耕作による改変があるものの、中世の居館を彷彿とさせる。
清川の対岸のやや下るところには北畑館があり、伝承では小倉四郎大夫の館とあるが、静妻氏との関連については明らかでない。これらの館跡は支配下の集落や水田地帯を一望する高台にあり、静妻氏以降も若槻新庄静妻郷の地頭やその代官が居住することがあったであろうし、甲越合戦時代には飯山城の防衛線としてこれらの館跡が利用された可能性もある。

南側も土塁が周回していたようだが破壊され一部が残っているのみである。
したがって、厳密には現在の静間神社境内が平安末期の館の遺構を残しているとは断定できないが、神社敷地には土塁が残存し、以前は館跡の西・南・東に廻っており、その外側に空堀の跡も散見した。館東側の郷倉の西では箱堀状の空堀が発掘調査されている。
(※以上現地説明版より引用)

南に残存する土塁の拡大。

居館跡の南側と東側の外枠は耕作地になる前は空堀跡とも帯郭跡ともいわれるがハッキリしない。

この場所は甲越紛争時には最前線であったので、利用されたかもしれない。
【館跡】
飯山市誌には静間館について以下の記載があるので引用しておく。
館跡は堀敷を除いて50m×45mの方形で、かつては西側から南側にかけて郭内部からの高さ1.5m~2.3mの土塁があった。しかし残念にも一部を残して破壊されてしまった。土塁の西側も空堀の痕跡を残していたこともあり、館の北東隅の道路の崖にも空堀の断面が確認されているので、土塁の外側をコの字形に取り巻いていたものと推定さる。
なお、館の外側にある幅10mの平坦部は空堀跡が耕地化したものと考えられるが、これを腰郭(帯郭)とする意見もある。
館は小規模だが、方形台状に地形を整えた本格的な造りであり、有力な豪族の館に間違いない。(以下は略す)

社殿の奥には土塁跡が残る。

土塁の拡大。

神社の西側に居館としての痕跡が残る。

北西隅の土塁痕

居館の北側。用水路があるので、元々水堀だったかもしれない。
付近には、宝田、門田、中町、裏町、きょうの町、雲井、土常分(道場分)、法花(華)寺、観音寺などの城下町の地名が残っている。
≪静間館≫ (しずまやかた 静間神社館)
標高:350m 比高:7m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:飯山市静間
攻城日:2015年4月2日
お勧め度:★★☆☆☆
所要時間:-
駐車場:無し(路駐)
見どころ:土塁、掘跡、帯郭など
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版)、飯山市誌など
注意事項:特になし
付近の城跡:北畑館、田草城、小田草城、蓮城、とんば城など

静間居館うより越後への間道のあった清川渓谷を臨む。
山城のオフシーズンとなれば運動不足と不摂生により体が鈍ってしまい、ここ数日ヘルニアの症状に悩まされている・・(汗)
ワンダーコア2でも購入して腹筋・背筋を鍛えるとしようか・・・(笑)
今回ご案内するのは、飯山市の静間館(しずまやかた 静間神社館とも)。居館の縄張りは簡単でいいやという横着者の発想。

静間神社のある場所が居館跡として伝わる。
【立地】
飯山市街地の南口で、斑尾山(まだらおさん)を源流とする清川が渓谷を刻み、扇状地の出口に当たる開けた場所に位置する。清川渓谷は越後の頚城地方に通じる古道が通じていて、居館のある場所は交通の要衝にあたる。

居館跡に鎮座する静間神社。安土桃山時代に勧進されたと伝わる。
【城主・城歴】
静間神社の境内は静間小太郎館跡と伝承されているが、静間小太郎の資料は現存していない。ただし、関連の静妻(志津摩・志妻・志津間・閑妻)氏については「保元物語」や「平家物語」などの軍記物語に散見し、平安末期の静妻氏の存在は明らかであろう。保元の乱を記す「保元物語」では平清盛と同様、後白河天皇方としての源義朝の配下に志津摩太郎、同小次郎(各写本により字は異なる)などが見える。
また、「平家物語」には越後の平家党の城氏の配下に閑妻六郎が見えるが、善光寺平の横田川原合戦で城氏が源氏の木曽義仲に敗退し、静妻氏も衰退したと推察される。

居館跡は神社の勧進や耕作による改変があるものの、中世の居館を彷彿とさせる。
清川の対岸のやや下るところには北畑館があり、伝承では小倉四郎大夫の館とあるが、静妻氏との関連については明らかでない。これらの館跡は支配下の集落や水田地帯を一望する高台にあり、静妻氏以降も若槻新庄静妻郷の地頭やその代官が居住することがあったであろうし、甲越合戦時代には飯山城の防衛線としてこれらの館跡が利用された可能性もある。

南側も土塁が周回していたようだが破壊され一部が残っているのみである。
したがって、厳密には現在の静間神社境内が平安末期の館の遺構を残しているとは断定できないが、神社敷地には土塁が残存し、以前は館跡の西・南・東に廻っており、その外側に空堀の跡も散見した。館東側の郷倉の西では箱堀状の空堀が発掘調査されている。
(※以上現地説明版より引用)

南に残存する土塁の拡大。

居館跡の南側と東側の外枠は耕作地になる前は空堀跡とも帯郭跡ともいわれるがハッキリしない。

この場所は甲越紛争時には最前線であったので、利用されたかもしれない。
【館跡】
飯山市誌には静間館について以下の記載があるので引用しておく。
館跡は堀敷を除いて50m×45mの方形で、かつては西側から南側にかけて郭内部からの高さ1.5m~2.3mの土塁があった。しかし残念にも一部を残して破壊されてしまった。土塁の西側も空堀の痕跡を残していたこともあり、館の北東隅の道路の崖にも空堀の断面が確認されているので、土塁の外側をコの字形に取り巻いていたものと推定さる。
なお、館の外側にある幅10mの平坦部は空堀跡が耕地化したものと考えられるが、これを腰郭(帯郭)とする意見もある。
館は小規模だが、方形台状に地形を整えた本格的な造りであり、有力な豪族の館に間違いない。(以下は略す)

社殿の奥には土塁跡が残る。

土塁の拡大。

神社の西側に居館としての痕跡が残る。

北西隅の土塁痕

居館の北側。用水路があるので、元々水堀だったかもしれない。
付近には、宝田、門田、中町、裏町、きょうの町、雲井、土常分(道場分)、法花(華)寺、観音寺などの城下町の地名が残っている。
≪静間館≫ (しずまやかた 静間神社館)
標高:350m 比高:7m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:飯山市静間
攻城日:2015年4月2日
お勧め度:★★☆☆☆
所要時間:-
駐車場:無し(路駐)
見どころ:土塁、掘跡、帯郭など
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版)、飯山市誌など
注意事項:特になし
付近の城跡:北畑館、田草城、小田草城、蓮城、とんば城など

静間居館うより越後への間道のあった清川渓谷を臨む。
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Posted on 2016/05/31 Tue. 21:53 [edit]
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