らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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櫛木城 (松本市波田上波田)  

◆小笠原家重臣の櫛置(櫛木)父子二代が50年間在城した城◆

この頃はもっぱら神社仏閣巡りに精を出しております・・・飽きっぽいのでいつまで続くか・・・・(笑)

先週は飯山市の小菅神社を訪問し、偶然に出羽三山の有難い修験者様ご一行の修行を垣間見させていただきました。
その様子はまた別の機会にアップしようと思うておりまするw

今回ご案内するのは、波田山城の麓の館城として櫛木氏が滞在したという櫛木城(くしきじょう)。

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残念ながらバイパス道路により一部破壊されたが、遺構は良く残っている。(主郭北側より撮影 2015年6月)

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現在は果樹園となっている主郭の外側には説明板がある。

【立地】

上波田集落の西側の段丘上で、波田氏の水沢の館があったという波田神社から100m東に位置する。上波田バイパスの工事に伴い切岸や堀切の一部が破壊されたが、高台から眼下を通る野麦街道を監視するには絶好のロケーションであり、木曽口や飛騨口を抑えるにも恰好の場所で、背後の水沢には詰め城としての波田山城、信仰の中心として若澤寺が控えている。

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小生の下手な縄張図を掲載するよりも既存の図を借用したほうが百倍分かり易い・・(笑)

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「城畑」と呼ばれる本郭。現在は果樹園となっている。

【城主・城歴】

櫛置氏(櫛木とも)と西光寺城(櫛木城)については、波田町誌に詳しいので「歴史現代編」より以下を引用します。

●櫛置氏の出自

櫛置(木)氏は小笠原氏が初めて甲州から信州へ入ったときには、一門として同行した古い家臣で、四天王といわれている。史料上に初めて櫛置氏の名がみえるのは、応永六年(1399)十月二十一日の市河文書である。(文書略)
また翌応永七年七月十九日には小笠原信濃守長秀は「小笠原櫛置入道殿」に充てて、信濃守護より指令書を出しており、在国の守護代官は小笠原櫛置石見入道清忠、小笠原赤沢対馬守秀国・それに古米(こめ)入道の三名が国務を執っていた。

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主郭と二の郭の間は堀切で遮断されている。

この後守護小笠原長秀は善光寺町平柴の守護所に入り守護権を確立するため制礼を掲げ、川中島では村上氏の所領に対して「守護入部の所務」を命じたことで、国人層の反発を買い信濃国人一揆により大塔で敗れ、守護の地位を追われている。(大塔の乱) このときは伊那勢と少数の府中の武士が守護と行動をともにしており、坂西長国・古米入道・常葉入道・櫛置石見入道らの重臣や一族が討ち死している。
櫛置石見入道は文武両道の達人であったが、死に臨んで避遠の土と化す口惜さを詠じて、腹掻き切って大塔古城の露と散った。

「苦しくも 都の花に別れ来て 今日信濃路の 露と消えぬる」 (櫛置清忠詠)

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二の郭に建つ史跡碑。

「大塔物語」によれば、このとき櫛置五郎太郎・波田小次郎らも同行随身しているが、生死のほどは定かでない。
永享十二年(1440)の「結城陣番帳」にも「櫛置殿」がある。また文明五年(1473)に、将軍足利義政は美濃萩島・大井両城を陥れた小笠原一族の戦功を褒めているが、その中に「小笠原櫛置九郎右衛門殿」とみえている。

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二郭の奥には西光寺があり、縄張に組み込まれていた。

●父子二代50年間の在城

小笠原一族の重臣櫛置氏が波田郷にいつ来たのであろうか。波田町上波田の西光寺跡には「櫛木城址」と云われる所がある。
「旧東筑摩郡誌」によれば、「再興寺城址(西光寺城) 正長年中(1428)櫛木正盛ここに居りしが事歴明らかならず」とある。
「波田村の生い立ち」(百瀬長流編)では「寛正三年(1462)櫛木紀伊守政盛波多郷地頭にて来り、西光寺の隣地に内城を築き居館してより、寺は櫛木氏の保護を受け、櫛木氏と同道して郷内に居住した小笠原将士の氏寺となった。」と述べている。

櫛木城2016 (23)
二の郭と三の郭を隔てていた堀切は消滅してしまったようだ。

櫛置氏が波多郷へ入った年代については、諸説があって詳らかではないが、当時の状況から判断すると、小笠原長朝が文明十二年(1480)に上社の与党であった仁科氏を攻め、西牧郷で人家千軒も焼いた前後に、重臣の櫛置九郎右衛門を波多郷の抑えとして、西光寺の隣に西光寺城を、また光明寺山頂に山城(波田山城)を築き、武士団(20騎)を上波田町と郷内要所に配したとみられる。
この櫛置九郎右衛門は「神戸村の歴史」(穂高町中島弥生著 昭和十六年刊)によれば「櫛木市正(いちのかみ)一俊=寛正文明年代の人」とあるので、同一人物ではなかろうか。

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西光寺を取り込んだ縄張。水堀だったのだろうか。

櫛木紀伊守政盛は天文十七年の塩尻峠の合戦において戦死しているので波多郷在城は「小笠原分限録」には「小立野小池山城主・二十騎」(現在の生坂村小立野)とあることから見ても「分限録」の書かれた大永四年(1525)より以前であったとみられている。
したがって櫛置氏は波多郷西光寺城に約五十年間父子二代在住していたことになる。

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西光城の仁王門跡。(現在は波田神社隣の田村堂に移築されている)

櫛木紀伊守政盛の持ち高は三百五十貫文(水田約100ha)、千石取りの分限で、二十騎の将であったことが「六万石史料(上巻)」にみえる。

櫛置氏は二十騎の武士と多くの従臣を率いて、西光寺城へ入ったとみられ、その使命は対岸の西牧郷地頭で三千貫文(約800ha)の身代と、百六十騎を擁する安曇郡南部最大の豪族、西牧讃岐守満兼とその一族与党に備え、なおまた木曽氏や飛騨の三木氏の侵入を抑えるため、羽柴・夏道砦・桂ハザマ・波田山城・西光城内城と一連の城塞を設けて、小笠原領の西の鎮台として要衝の地を固めていたのである。

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縄張りの南側には武士団の屋敷があったようだ。

武田信玄により深志の小笠原長時が追放された後の波多郷の記録は少なく、武田氏の支配下では輿山城守政信が波田の郷司に任命されたという。

その後、武田が滅亡し織田が斃れ天正壬午の乱が勃発すると、小笠原長時の息子である貞慶が徳川家康の後ろ盾で旧領回復に成功する。安曇や波多郷を支配していた西牧氏は貞慶に追われ奈川に逃亡。波多郷は旧領回復に功績のあった百瀬石見守に与えられたとう。


【城跡】

上波田バイパス工事による改修を受けているものの、崖渕に四条の堀切があり、主郭、二郭、三郭の連郭式の河岸段丘上の館城の跡が確認出来る。西光寺は天台宗の独立した寺として往時は本堂・阿弥陀堂・地蔵堂・仁王門・僧房・鐘楼を配置していたとされるが、現在の改変された城域で範囲の特定は難しい。
※阿弥陀堂と仁王門は波田神社の南側に移築されて残っている。

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田村堂の脇に残る西光寺の仁王門。木造金剛力士像は長野県宝の指定を受けている。

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同じく田村堂の横に残る西光寺の阿弥陀堂。

小笠原領の西端の境目であった波多郷。境目であるが故に、この地域では様々な悲喜こもごものドラマが生まれている。
もうしばらく波多郷の古跡にお付き合い願いたいと思う・・・。


≪櫛木城≫ (くしきじょう 再興寺城 西光寺城)

標高:732m 比高:38m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市上波田
攻城日:2015年6月21日、2016年6月12日
お勧め度:★★☆☆☆ 
所要時間:-
駐車場:波田神社脇の専用駐車場
見どころ:堀切など
参考文献:「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年)
注意事項:耕作地は無断侵入禁止。
付近の城跡:若澤寺跡、波田山城跡、淡路城、夏道の砦、かぎかけ山物見など
Special Thanks:ていぴす殿

松本市1506 (35)
東の三郭よりみた城域と西光寺跡。

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Posted on 2016/06/29 Wed. 21:52 [edit]

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