らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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顔戸館 (飯山市寿顔戸)  

◆尾崎氏分家の顔戸氏の居館跡◆

ここ2年ぐらいの間、飯山地方はとっても好きな街の第一位に君臨している。

そのうち老後には移住しているかもしれない・・(笑) 豊かな自然と何とも言えない素朴な土地柄。イイっすネ!

今回ご案内するのは、飯山の城館シリーズ第四弾の「顔戸館」(ごうどやかた)である。

柏尾館 (27)
柏尾館から見た対岸の顔戸館とその周辺。えいき様には「ジムニー愛」とか言われそうな写真である・・(笑)

【立地】

旧JR飯山線の信濃平駅から越後の平丸峠に向かう県道411号線の寿地区の顔戸集落の東端にあり、東西を小川に挟まれた台地にある。ここからは対岸の野沢温泉方面も良く見渡すことが出来る。北1kmには小境城、平丸峠に向かう北西1.5mの黒岩山には黒岩城があり、飯山と越後を結ぶ交通の要衝を押さえていたものと思われる。

顔戸館 (3)
居館跡の北側道路より撮影した「たてのうち」

顔戸館見取図①
城館の北側は耕地整理により堀の跡に道路が開通してしまい、居館の北側の土塁も破壊されてしまったのかもしれない・・。

【館主・館歴】

室町期に当地方を治めた尾崎氏の分家の顔戸氏(ごうどし)の館跡とされる。「長野県町村誌」の「顔戸氏城墟」の項に、「村の寅の方に在り。東西四十間(72m)、南北二十七間(49m)、東北に空堀(今は田となる)を回し、回字形を為す。永正年間(1504-20)、顔戸勘解由重胤、築きて麓に居る。重胤(しげたね)は尾崎氏の後裔にして奈良沢重直の二男なり。顔戸に別れきたりて顔戸氏と称す。永禄年間より、上杉輝虎に属し、外様十人衆に列る。老衰して病に死す。其子帯刀重敏、継ぎて景勝に勤仕し、慶長三年三月、陸奥国會津に移り、寛永年間(1624-43)朽ちて畑とし、今田となり其塁を存す」とある。

顔戸館 (4)
西側の一段下も郭跡だったようで、嘗ては水田だが現在は休耕地として藪化している。

顔戸館 (6)
館の中心部分は、現在は三枚の水田である。

顔戸館 (7)
館の東端の水田。

【館跡】

「たてのうち」と呼ばれる三枚の水田が館跡で、西、南、東は切岸になる。東側は堀といわれるが、西側にも堀形がある。大手は南で10m余の坂を登ったものと思われる。居館跡の背後には土塁があったと思われるが、今は道路になり分からない。
(「信濃の山城と館⑧」より宮坂武男氏の記述を引用)

顔戸館 (9)
居館の東側の堀跡。

顔戸館 (11)
堀跡(現在は水田)の東側は小川の流れる谷でなので、空堀ではなく水堀だったと思われる。

【小沼・湯滝バイパス関係遺跡発掘調査報告書の記載】

外様地区顔戸(こおど)集落北方の字「館ノ内」(たてのうち)にある館跡である。
図示したのは現在の耕地整理後の略測図であるが、文献5あるいは地元の人によれば、東北および西北に
堀があったと言われる。南西は谷状地であり南東は比高約7mの崖をなしている。堀の推定地内の面積は
現況から判断すると50m四方で2500㎡となる。

小沼湯滝バイパス関係遺跡調査資料① 001 - コピー
調査報告書に記載されている顔戸館の見取図。

顔戸館 (14)
城館跡の南側の「壁(切岸)」

顔戸館 (17)
館跡の南側も堀が巡っていたと推定される。

≪顔戸館≫ (ごうどやかた 館の内)

標高:342m 比高:18m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:飯山市寿顔戸
攻城日:2015年6月5日
お勧め度:★★☆☆☆ 
所要時間:
駐車場:無し、路駐
見どころ:切岸、掘跡など
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)、「小沼・湯滝バイパス関係遺跡発掘調査報告書」(1988年 飯山市教育委員会)
注意事項:耕作地につき無断侵入禁止
付近の城跡:小境城、黒岩城、北条城、五束城など

顔戸館 (19)
居館跡の西側の堀跡。

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Posted on 2016/06/11 Sat. 22:51 [edit]

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