らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0716

三木秀綱夫妻の終焉地伝説 (松本市奈川・波田)  

◆史実と伝説が交錯する三木氏の逃避行悲話◆

昨日の健康診断で右耳の南朝難聴と判定されてしまった。北朝に味方すれば完治するのか・・・そういう問題じゃない?(笑)

という訳で、小生の右耳のサポーター募集開始・・・詳しくはWEBで・・・(爆)。

深志領の西端の境目だった飛騨口・木曽口を押さえた波田地区の探訪は、今回で区切りとしたい。

この地域のラスボスは「殿様小屋」。相当な覚悟がないと間違いなく遭難するので我ら信濃先方衆は二の足を踏んでいるのだが・・(汗)

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信濃先方衆の最後の目的地は西牧氏が最後に立て籠った殿様小屋の探索。宮坂武男氏も到達出来ずに終わった未踏の地だ。

今回ご案内するのは「三木秀綱夫妻の終焉の地」。

激動の戦国時代の中にあって飛騨一国を統一しながら、秀吉に抗い佐々成政に与した為に滅ぼされた三木自綱(頼綱)。
自綱の二男で松倉城主であった三木秀綱は、徹底抗戦を唱え籠城するも金森長近に攻められ、落城と共に夫婦で信濃への逃亡と再興を計り北アルプス越えを敢行したが、その途中で落武者狩りに遭い落命したという。

【今回の調査に関する動機】

「波田町誌 歴史・現代編」(昭和六十二年)を読み進めると、この地域には三木秀綱夫妻の遭難の伝説があり、近年まで「秀綱神社」なるものが多く存在していた事を初めて知った。

そんな話を信濃先方衆の相方の「ていぴす殿」に伝えると、さすがによくご存知で「そういえば、島々神社に秀綱の奥方の最期を伝える説明板がありましたよ」と言って案内してもらった。

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かぎかけ山の対岸にある島々神社。ここに三木秀綱の方の遺品が祀られており、近年に安曇資料館に移されたという。

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島々神社の西隣の社と「秀綱公と奥方の伝説」の看板。そろそろ書き換えないと字が読めなくなっている。

ここでやめておけば、「ふーん、そんな伝説もあったんだね・・」で終わるのであろうが、義仲・義経大好きな判官贔屓の血が騒いでしまい、「敗者の歴史となった三木秀綱」について気が済むまで調べる事になった・・・(汗)

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島々神社は国道158号線の松本市役所安曇支所の東側にある。

【波田町誌の記述】

波田町誌(歴史現代編)には「秀綱伝説と史実」(P191)について以下の記述がある。

三木氏は元は京極家の執事で飛騨益田郡萩原豪を本拠に桜洞から上呂・下呂などに進出し、三木自綱(よりつな)のとき高山に近い松倉に城を築いている。永禄元年(1558)には天神山城主の高山外記を亡ぼし、ほぼ飛騨一国の主権を握った。

天正十三年(1585)豊臣秀吉は越中の佐々成政の討伐に際し、佐々の与党の三木自綱とその嫡子の松倉城主三木秀綱を討つことを越前大野城主金森長近に命じ、長近は飛騨へ攻め込み、破れた秀綱は中尾峠から大野川、奈川角ヶ平に出て、そこで殺された。奥方は徳本峠(とくごうとうげ)を越えて、波田の淡路城へ逃げようとして島々谷へさしかかったとき、土地の杣(そま)に殺された。
三木氏の一族は波田に住んで「森」と変名したといわれ、飛騨萩原にも三木氏の残党に森と称する一族がおり、水無神社の神官も森姓を名乗っている。

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三木夫妻はこの場所で再度合流する予定だったというがその願いは叶わなかった・・(島々神社から見た野麦街道)

奥方一行は波田の春日淡路守を頼り、秀綱一行は木曽福島の興禅寺には叔父が住職で居たのを頼って行ったものと言われる。安曇村の島々では死んだ秀綱の奥方の伝承は、「殺した杣(そま ※林業を生業とする人)の家系から代々悪病が出ている。」とて、怨念を払うために蚕玉神社に霊を祭っており、秀綱奥方の奥方の持ち物は現在稲核水殿の「安曇村民族資料館」(現在の松本市安曇資料館)に展示されている。

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現在の安曇資料館。水殿ダムの道の駅「風穴の里」の手前にあり、入場料は無料。

奈川村角ヶ平でも秀綱を殺した後に色々の「たたり」が出たため、角ヶ平に「秀綱神社」をまつり、昭和四十年に奈川度ダムによる水没後は神社を波田町森口の「三神社」に合祀した。

天正十三年は天下の体制が大きく変わった都市である。松本城主の小笠原貞慶はこのとき「人質」の長子秀政を徳川家康に出して親交を結んでいたので、豊臣方の金森長近に追われた三木秀綱の奥方が、小笠原氏を頼って淡路城に向かったというのは、この時代の史実にあてはまっている。

しかし、春日淡路と三木氏の関係については不明であり、あるいは三木氏は一族森神官家を頼ったとの見方が妥当ではなかろうか。

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この時期は上高地へ向かう観光客の中継地点として賑わう「風穴の里」。安曇資料館はここの手前のカーブを左折した場所。

次に奈川角ヶ平(ながわつのがだいら)で死んだ秀綱であるが、「信府統記」にある「土民に討たれ死ぬ」というのが史実らしい。奈川の豪族古畑孫助(伯耆守重家)は、このとき小笠原貞慶に臣従しており、徳川方の小笠原氏を頼って落ちていく三木秀綱を討ったとは思えないので、あるいは木曽義昌の手の者が、奈川で秀綱を待ち受けていたかもしれない。
木曽氏はこのとき豊臣方であって徳川方の小笠原とは対峙していたからである。

【飛騨・越中と信濃を結ぶ鎌倉道】

源頼朝により鎌倉幕府が成立すると、地方の御家人たちは「いざ鎌倉!」に備えたり、鎌倉と故郷の往復に備えて鎌倉道を整備したのだという。
岐阜県高山市と長野県松本市はその国境が険しい北アルプスであり、比高差も約2500mと尋常な高さではないので一般的に考えれば道など無かったと思いきや、飛騨と信濃を結ぶ間道として6月~10月頃まではかなりの通行量があったという。越中や能登の海産物はこの鎌倉道を介して牛や馬の背に揺られて信濃に運ばれてきたのであろう。

三木夫妻逃避行の図
鎌倉道は2つのルートが想定されていて、徳本峠を越える北側も現在の沢沿いルートとは違い、山の尾根を通っていたらしい。


【松倉城の落城と三木氏の滅亡】 ※安曇資料館の掲示板を引用。「飛騨誌」並びに「定本 飛騨の城」参照

天正十三年(1585)、三木自綱は秀吉の命に従わず越中(富山城)の佐々成政に同意して秀吉打倒をくわだてた。そのため秀吉は金森長近に命じて自綱を討たせた。

天正十三年8月15日、小島城・小鷹城・古川蛤城等を攻め落とした長近は蛤城に入り、田中城(吉城郡国府町)に立て籠る三木自綱と対決した。長近は牛丸又右衛門を使者として自綱に降伏をすすめたが自綱はこれを聞かず反抗したので、長近は田中城に総攻撃をくわえた。歴戦の勇将長近の攻撃に自綱は力及ばず、謝罪して赦され国外へ逃れた。

翌16日、長近は高山盆地に攻め入り鮎崎山(現高山市北山公園)に本陣を構えた。
自綱の次子秀綱は畑六郎左衛門を参謀に家臣や土豪を総動員して松倉城に籠城防戦した。一方可重(ありしげ 長近の長男)軍は益田街道を北上して三木氏の属城を次々と落とし鍋山城(高山市松ノ木)を本拠とし長近軍と合体した。
これにより金森軍はいよいよ勢いを増し、天正十三年8月17日、秀綱が立て籠もる松倉城に迫り城下に火を放った。

戦いの中で参謀畑六郎左衛門らが戦死し、主将秀綱は動揺する部下を押さえ切れず、また籠城軍のなかの藤瀬新蔵というものが金森軍に寝返りをうち本丸屋形に放火したため松倉城は落城寸前となった。

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安曇資料館の常設展示室。(撮影許可をいただいています)秀綱夫人の遺品は一番奥の左側にあります。

秀綱はもはやこれまでと覚悟し、弟季綱(系図に不明)と奥方をともない二、三の家臣に護られて深夜松倉城を抜け出した。伝家の宝刀「三池典太」の太刀を持って鍋山城に辿り着いてみれば、ここもすでに可重軍に占領され、金森軍があふれ近づくことも出来なかった。

失望落胆した秀綱は、「宝刀三池」を従者の家臣に渡し豪農池ノ端総左衛門に預けさせた。これが今の高山市国分寺蔵の重要文化財「伝小烏丸の太刀」である。
奥方及び弟季綱と共に落ちていく先は間道を逃れて信州路へ。安房峠を越えて大野川へ。しかし奈川村角ヶ平(つのがたいら)において土民のためにあえない最期をとげた。ときに姉小路中納言三木秀綱は三十二歳の若さであった。これにより三木氏七代の正統はここに亡び去った。

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三木氏の末裔は最終的に500石取りの旗本となったという。


【三木秀綱夫妻の伝説】

以下は地元に伝わる三木秀綱夫妻の伝説である。かなり長くなるが、お付き合い願いたい。

天正十三年(1585)秋の頃飛騨から信濃に急ぐ一群の旅人があった。これは飛騨高山の松倉城主三木秀綱が豊臣秀吉の将、金森長近ととその子金森可重に攻められ松倉城が落ちようとするとき、父自綱が「わが姉小路家は公卿の出で代々勤王の名家である。この度の戦いで家系が断絶するのはしのびない」と一子秀綱をさとして、秀綱奥方の里である筑摩郡波田の淡路城に落ち延びて後日の挽回をはからせるため、人目を忍ぶ落人の群れであったのである。

高原郷から中尾峠へさしかかるころ、「大勢の旅は人目につきやすい」ということで中尾峠(北アルプス焼岳の北側の峠)の頂上で落ち合う場所を島々と決め、秀綱は安房峠を越えて大野川へ、奥方は徳本峠(とくごうとうげ)を越える事にし、道を急いだ。

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奈川度ダムから見た祠峠と角ヶ平方面。ダム建設によりかつての集落は水没し秀綱神社も水没した。

秀綱は大野川村の里庄の家に宿をとったが早くも追手に迫られた。里庄は秀綱を桑の大ボテに入れて桑をかぶせてかくまったが追手は聞き入れずに火を放つという。里庄は「蚕には罪がないから生き物を外に出すまで待ってくれ」と頼んで蚕と桑の入った大ボテを外に出し秀綱は難を逃れた。

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野麦峠(県道26号線)の角ヶ平隊道の北側の出口で偶然見つけた角ヶ平の水没記念碑と秀綱神社の史蹟碑。

秀綱はそれから祠峠にさしかかり土民の家に立ち寄って食を求めたところ、粟めしを出してもてなしてくれた。出立寸前お礼に持参していた金・銀の小粒を椀一杯に出した。これをみた峠の土民は奈川の豪族に知らせて攻めさせた。峠を下った秀綱は角ヶ平の河原の絶壁に追い詰められ、もうこれまでと覚悟を決め懐の金・銀を「石になれ」と前の渕に投げ込み自刃したという。その後この淵を秀綱渕と呼ばれるようになった。

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角ヶ平の秀綱神社がダム建設で水没する為に記念碑をここに建てたらしい。秀綱の末裔の方の筆跡で石碑が書かれている。

大野川の里庄の家は年々蚕がよくできて繁昌したが、峠の家は悪病が続いて苦しんだ。また淵に投げ込まれた金銀の小粒は川底に光っているが里人が拾おうとすると小石に変わってしまうという。

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水没した場所を探す訳にもいかないが、地形図から探すとおおよその場所はあの辺りのようです。

一方奥方は徳本峠を越えて島々への道を急いだ。途中持っていた梨を食べて渇きをいやし、その種を地に落として「姉小路家再興の期あらばここに生えて梨の実よ甘かれ、然らずんば渋かれ」と祈ったという。ここに実る梨の皮が厚く渋いのはそのためだという。

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秀綱夫人の遺品と伝わる手鏡と懐刀。(安曇資料館蔵) ※撮影許可あり。

それからしばらして杣人(そまびと 林業を生業とする人)に行き会い道を聞いたところ奥方の身なりの良いのに悪心をおこし捕らえて木に縛り付け絹の内掛や懐刀を奪って立ち去ったという。
奥方は嘆き悲しみ、懐中の鏡に顔を写して「鏡は女の魂の宿るところ、魂隗永久に鏡に残り、恨みをはらさん」と髪を逆立てて息絶えたという。

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秀綱夫人の着物(打掛)

その後、しばらくして杣人がここを通ったところ、奥方の姿は以前のままで少しも変わっていないので不思議に思ってそばへ寄ってみると、急に笑みをたたえ全身が崩れ落ちたという。杣人は恐れおののき家に帰って寝たきりになり、その後悪病にかかって亡くなったという。

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秀綱夫人の小袖。

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秀綱夫人の着物。鑑定の結果、鏡以外は本物であると立証された。

これらの遺品は島々神社に納めれていたものである。

また、一説には、秀綱は飛騨萩原の禅昌寺の親類にあたる木曽福島の興禅寺を頼らんとして安房峠越えをしたとも言われている。

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安曇資料館に展示されている秀綱夫人の遺品。※撮影許可を取っています。

秀綱神社は数多くあるようで、中尾峠(焼岳の北側)には石碑があり、北アルプス登山者の方のブログに多く記載があります。また、奥方の遭難の地である徳本峠の島々側の登り口には慰霊碑があるようです。(んーん、確か万見仙千代様のブログにあったような気もしますが⇒「三木秀綱の奥方」

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奥方が遭難した島々は徳本峠の入口にあたる。

史実があって伝説が脚色される・・・

最近まで、敗者の悲劇を語り継ぐ民衆の姿がそこにあったのだ。

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島々谷川を辿れば、秀綱夫人の伝説が蘇るかもしれない・・

「生き延びる事が、お家再興の近道なのだ」

そう信じて北アルプスを越えた三木秀綱だったが、あと一歩で夢が途絶えた。

佐々成政も三木自綱も「秀吉に叛いたから凋落したのだ」と、結果論で言われてしまう事が多く、戦国大名としては評価が低いが果たしてそうであろうか。

そうなるべくしてなった歴史など無い。そのことを今一度考えてみたい。

【三木秀綱夫妻の終焉地伝説取材への協力お礼】

●ていぴす様

●松本市立博物館附属施設 松本市安曇資料館及び2016年7月10日の担当職員様(お名前聞きそびれてしまいました)


角ヶ平隊道の北側にある水没記念碑の場所はこの辺。

Posted on 2016/07/16 Sat. 00:45 [edit]

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