らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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小菅山 (飯山市瑞穂)  

◆戸隠山・飯綱山と並ぶ信濃三大修験霊場◆

飯山市の名誉市民になりたいと思うならここは避けて通れない場所であり、戦国時代の甲越紛争を語る時も外せないだろう。

山城に飽きて、「いよいよ神社仏閣に突入するのか?」と思われるかもしれないが、広義的に見れば宗教と戦国時代は常に繋がっているのでここを掘るのは不思議な事ではないと思っております・・・。

今回ご案内するのは同じ修験者の霊場としての歴史を背負いながら、戸隠山(戸隠神社)のように観光地として生き残れるのか微妙な立ち位置となっている小菅山(小菅神社)。

小菅山 (37)
大倉崎館南手前の国道117号線の大関橋西交差点の脇の美妙寺(小菅山元隆寺の末寺と伝わる)に華表(一の鳥居)址がある。

小菅山 (40)
一の鳥居から見た大関橋。千曲川左岸からは渡し船で小菅山に向かったようである。

【パンフレットに記載された小菅山の歴史】

信州飯山観光局「小菅の里を歩く」のHPには小菅の歴史について以下の記載があるので引用する。

小菅神社は、明治時代の神仏分離まで、新義真言宗に属する小菅山元隆寺(こすげざんがんりゅうじ)といい、かつては戸隠や飯綱と並ぶ北信濃の三大修験場として隆盛を誇りました。創建の由来は定かになっていませんが、来由記によると、仏法を広めるのに相応しい地を求めて諸国を巡っていた修験道の祖・役小角(えんのおづの)が小菅山に出合い、白鳳8(680)年に小菅山を開山し、大同年間(806~810年)に坂上田村麻呂がこの地を訪れ、八所権現本宮や加耶吉利堂を再建したほか、修験寺院・小菅山元隆寺を創建。これが小菅神社の起源とされています。小菅権現(摩多羅神)を祀り、さらに熊野、金峰(吉野)、白山、立山、山王、走湯、戸隠の七柱の神々を観請して、八所の宮殿を石窟内に祀ったという記述が残されています。また平安時代後期には、本地垂迹思想が定着し、熊野修験が入り込んで、小菅山の確立に寄与しました。

小菅山 (1)
二の鳥居。

小菅山 (3)

小菅山 (4)

その後鎌倉時代に入り、南北朝時代の始まりころまでには、小菅一帯は、南朝の高梨氏勢力と北朝の市河氏勢力に接し、南朝党の高梨氏が逆撃を受けて小菅にて惨敗。以後、室町幕府の支配が安定すると共に、小菅山は修験霊場としての隆盛期を迎え、4年の歳月をかけた元隆寺の宮社坊中寺観の再建、奥社内の宮殿の建立や、桐竹鳳凰文透彫奥社脇立二面が制作されています。つまり、室町時代までは小菅山では造営が営々と続けられており、それを可能にするだけの繁栄があったと考えられています。

現在の小菅山
現在の小菅山周辺の散策図(小菅むらづくり委員会作成)

戦国時代に入ると、信濃全域が上杉氏と武田氏の争覇の舞台となり、小菅山一帯は、上杉氏の庇護下に置かれました。上杉謙信が武田信玄に合戦を挑んだ際には必勝祈願の願文を捧げましたが、そうした繁栄も、永禄10(1567)年の川中島の戦いまでのこと。この合戦で上杉軍は敗退し、武田氏の軍勢によって元隆寺は兵火に遭い、本堂を除く堂塔はことごとく焼失したとされています。その後、武田氏を滅ぼした織田氏支配の時期を経て、小菅は上杉景勝領となり、情勢が安定すると奥社本殿が再建されました。

小菅山 (48)
仁王門は17世紀後半に元隆寺の西大門として建てられ、元禄十年に改修されて今日に至る。


江戸時代になると、奥社参道の杉並木や宗教建築の多くが整備され、霊場としての小菅の統治は、領主の庇護下にある寺院の手から里人の手に移りました。祭礼の性格も宗教的なものから、観客(参詣者)に見せることに重きを置いた愉楽的・観光的な性格が加わったものになっていきます。

江戸時代を過ぎ明治になると、神仏分離によって、大聖院別当職が神職に就き、仏式什器を菩提院に移管する一方で、小菅社八所大神となり、明治33(1300)年には小菅神社と改称します。今日の直接的な起源にあたる小菅神社が成立したのです。

小菅山 (49)
仁王門の金剛力士像。(正面右手)

小菅山 (51)
仁王門の金剛力士像(正面左手)。金網デスマッチなので撮影には非常に苦労した・・・で、ピンボケ・・・(汗)

●仁王門

二の鳥居から、左右に田畑が広がる急な坂道を上ると、最初に現れる社殿が入母屋造の仁王門。もともとは仁王堂と呼ばれ、17世紀後半(元禄10年改修)に元隆寺の西大門として建てられた建物で、両脇には金剛力士像が祀られている。仁王尊堂との別称もあり、現在では門という機能ではなく、健脚の神である仁王尊が祀られている御堂とされ、草履などが奉納されている。明治時代初頭に発令された神仏分離令により大聖院が廃寺(小菅神社に移行)となり、多くの堂宇が破却されるなか、往時と同じ位置にある遺構として貴重な存在。(信州飯山観光局のパンフレットより)

小菅山 (53)
両脇を舗装道路が通ると嘗ての西大門のイメージが台無し・・・(汗)

【小菅山の歴史における通説への疑問】

パンフレットの引用文に小生が着色した赤文字に「?」と思った方は素晴らしい。

「永禄十年(1567)の川中島の戦い」・・・・んなアホな。小生も危うく鵜呑みしてしまうところであった・・・・(汗)

川中島合戦の最終戦は永禄七年(1564)の第五次で、これ以降は甲越合戦の記録は確認されていない。永禄十年の武田軍は今川氏真の駿河侵攻を企て、氏真の妹を正室とする嫡男義信の謀反が露見する。そのため信玄は家中を二分する家臣の統制に必死となり、信濃で上杉と会戦した記録は見当たらない。

これはいったいどういう事であろうか。

小菅山元隆寺之図
小菅の観光案内パンフレットに掲載されている絵図は「信州高井郡小菅山元隆寺之図永禄九年」(永禄九年=1566年)を元に作成されたもの。※史実と異なる部分はある、としています

この文の元はどうやらこの「信州高井郡小菅山元隆寺之図(永禄九年銘)」らしい。
中世における小菅山の繁盛の様子を描かれてものとして有名だが、調査によれば近世において遡及的に作られたものではないかという見解があり、絵図の史料としての信憑性には留意する必要があるとしている。

同様に、小菅山の通説は「信州高井郡小菅山元隆寺略縁起」(慶長五年作成・元禄元年改稿)が元となっていたようだが、近年の小菅山研究では従来の通説とは異なる展開をみせているようで、今後の解明に期待が持たれている。

恐らく南北朝の戦乱による兵火を受け、その後の甲越紛争においても二大勢力による宗教勢力の取り込みに巻き込まれて戸隠山と同様に受難の時代が長く続き、戦乱の終息とともにこの地を領有した上杉景勝により再興されたのであろう。

小菅山 (54)


【小菅山の散策】

小生のような門外漢が小菅山の歴史を語るなどお門違いなので、散策して見た現在の小菅山の様子を綴るとしよう。

●小菅神社里社本殿

石段を登った先に神楽殿(拝殿)、右手に柱松柴灯神事で担ぎ出される神輿が納められている神輿殿、左手に神馬殿が建っている。万治三年(1660)に飯山城主の松平忠俱によって改築され、現在の建物は大正十二年(1923)に大きく改修されている。

小菅山 (61)
小菅神社里者本殿の入口に建つ鳥居。

小菅山 (7)
比較的新しい狛チャンズと参道。

小菅山 (76)
神楽殿とその奥の神輿殿。

階段を上ると人の気配があり、里社本殿で何やら儀式が行われているではないか・・・。

見れば修験者の装束を身に纏った方々が祝詞・般若心教を唱えて、本殿から出てきたところであった。

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出羽修験者の先達「星野尚文」様ご一行。(階段に腰かけ、横に法螺貝を置いているのが星野さん)

この時点では何の予備知識もなくて、この修験者一行の長があの有名な羽黒修験道最高位の松聖(まつひじり)である星野尚文氏であると知ったのは、最近の事であった・・・・(汗)

これが運命の出会いになるのであろうか・・・・。小生が消息不明になったら出羽三山に修行に出掛けたと思って頂きたい・・(笑)

●講堂

小菅神社の参道の西側。かつては元隆寺の中之院に属しており、付近には、南大門、中門、金堂などが建っていたが、戦国時代の武田氏の侵攻でほとんどが焼失してしまった。(※異説あり)現在の講堂は元禄十年(1697)に飯山城主の松平氏によって修復された。中には阿弥陀三尊像が安置されている。また、講堂の天井絵は素晴らしいものだったようだが、残念ながら煤により見えなくなったという。

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講堂の手前には金堂、中門、五重塔があったという。

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講堂より見た奥社方面。この時は奥社まで片道1時間もかかるとは思ってもいなかったのである・・・(汗)

●菩提院(ぼだいいん)

かつては小菅じんっじゃの別当院である小菅山元隆寺大聖院の一坊桜本坊。川中島の戦いの兵火により焼失し上杉氏によって再建、享保年間に法印俊栄によって中興開基し菩提院と改称している。明治時代の廃仏毀釈により大聖院が廃寺(小菅神社に移行)となり寺宝、仏式諸道具などが菩提院に移された。寺宝には室町時代初期に制作された絹本著色曼荼羅図(県宝)の他、江戸時代に制作された紙本著色涅槃・極楽・地獄絵図と紙本著色十六善神画像があり市指定有形文化財に指定されている。

小菅山 (82)
菩提院の梵鐘。(昭和六十二年の再建)

小菅山 (83)
由緒ある風情の残る菩提院。


●三の鳥居

三の鳥居からは奥社へ続く石畳が延々と続く。鳥居の南側は護摩堂(大聖院跡)だが見学は後回しにして奥社へ向かう。

出羽修験者の皆様の邪魔になってはいけないので、一足先にここから奥社本殿を目指した。

偶然にも修験者ご一行のアテンドをされている地元の小菅神社奥社の管理責任者の方に同行させていただく事となった。
出羽修験者の方々が奥社本殿で祝詞と般若心教を唱えるというので、本日は奥社の建物の内部を先行して見せていただけるというラッキーが重なった。

小菅山 (89)
三の鳥居。ここから奥社本殿まで、まさか1時間の苦行となるとは想像だにしていなかったのである・・・・。

小菅山 (90)
弘治三年(1557)五月十日の上杉景虎(謙信)の祈願文が三の鳥居の入口に掲示されている。

●奥社本殿への参道

奥社本殿の標高は840mで、登り口の三の鳥居の標高が528mなので比高差は312mということになる。この比高差は山城探訪の中でも峻険な部類に入る。また移動距離は1,200mもあるので、山城探索に慣れてきた小生といえども辛いものがあった。
その上、途中から降りだした小雨と山全体を覆う霧は湿度を上げる効果をともなったので不快指数の高さは「ハンパ無かった・・」

小菅山 (11)
永遠に続くような錯覚をもたらした杉林は800m続く。石畳とのコントラストは素晴らしい。

小菅山 (163)
現在は休憩場所となっている旧観音堂跡。菩提院の隣に移転している。

小菅山 (162)
登ってきた参道を振り返る。こんな急坂だとは・・・・。

さて、ここからはツラツラと途中の見どころをご案内します。

●隠れ石

川中島合戦の際に上杉謙信が追手から隠れたとされる石。信玄は小菅の里まで追ってきたが山鳴りと共に突然大岩が崩れ落ち、大木が倒れてきたため、小菅権現の神威に恐れをなし逃げ帰ったと言われている。

小菅山 (161)

●御座石(ございし)

役行者や弘法大師が参拝の折に座ったという「御座石」。小さなくぼみは、持っていた杖の先がめりこんだものと言われている。

小菅山 (158)

●加耶吉利堂跡(かやきりどうあと)

坂上田村麻呂が再建したと伝わる。

小菅山 (99)

●舟石(ふないし)

大海の波頭に船が浮かんでいるようだと言われたことから舟石と呼ばれる。

小菅山 (102)
ピンボケご容赦!(笑)

●蝦蟇石(がまいし)

その名の通り、形がガマガエルに良く似ている石。

小菅山 (108)
疲れすぎてピントも合わない・・・(汗)

●愛染岩(あいぞめいわ)

岩の下に恋愛成就の願いを叶える愛染明王が祀られている。

小菅山 (107)
不倫ばかりがもてはやされるこのご時世に愛染明王もお嘆きであろう。

●鏡石

鏡のような平らな鏡石と鎧石、隠れ石、御座石、舟石の五つの石の他に現在存在が不明の御割石、大黒石、臥象石を合わせて「七木八石」とされている。(七木って何?)

小菅山 (117)
同行させていただいた奥社本殿の管理人様の姿をお借りしてパチリ。

小菅山 (112)
不動岩の付近から視界が開ける。ヘタな山城訪問より体力的に厳しいものがある。

●不動岩

弘法大師が筆を投げて岸壁に梵字を書いたとされ、投げた場所には注連縄が張られている。深い沢の向こうに不動岩が見え、不動岩の中腹に不動明王が置かれている。

小菅山 (155)
弘法大師が筆を投げたと伝わる場所。

小菅山 (113)
対岸の不動岩。深い沢の向こう側にあるので、渡って登るのも不可能と思われる。

小菅山 (154)
対岸の不動明王を拡大撮影。奥社の管理人さんもあの場所までどうやって担ぎ上げたのか全く不明だと言っておられた。

●築根岩

戦国時代に上杉氏がここで千灯を献じたという。奥社本殿の手前の最後の難関の始まりである。

小菅山 (151)


●比丘尼岩(びくにいわ)

殺生禁断・女人禁制の掟を破ったものが石と化したと伝わる場所。奥社へはこの岩を乗り越えていくのだ。

小菅山 (149)
苔むした岩は滑りやすいので注意が必要。

小菅山 (119)
鎖場を上がると奥社は目の前である。

●小菅神社奥社本殿

息絶え絶えで最後の岩場を登ると再び景色が開ける。

小菅山 (124)
標高840m(比高312m)まで登るとは夢にも思わなかったが、この景色を見るとホッとした・・(笑)

小菅山 (129)
簡易宿泊施設跡。奥社の祭りの際は前日から泊まり込みで準備したのだという。嘗ては里の子供たちも寝泊まりしたという。

小菅山 (128)
北側に岩窟を背負い南に張り出した形の奥社。降雪による建物屋根の倒壊を防止するために最近文化庁による補強工事が為されたという。

天正19(1592)年の修復記録があり、小菅神社の祭神8柱を祀る。本殿と附属宮殿は室町時代中期のものであり、昭和39(1964)年に国の重要文化財に指定された。

建物は、南側を正面にして妻入りの入母屋造で、 北面に岩窟を背負って建てられており、庇は北側にはついておらず、西側の階段から社殿に上るようになっている。背後の岩場からは水が滴り、本殿の中には甘露池があって、この池がまず信仰の対象になったのではないかと言われている。また、上杉謙信が川中島出兵の折、必勝祈願の願文を捧げており、新潟県にも崇拝者が多い。ご本尊は馬頭観音だが、祭りなど特別な日以外は建物の中に入ることはできない。また、建物の奥には「鼓岩」と呼ばれる岩があり、手を打つと太鼓の音が聞こえるそうだ。

小菅山 (131)
社殿には西側の階段より入る。※社殿の外側の新しい木枠は文化庁による補強工事。

小菅山 (133)
室町時代の建築とされるが、このような山の上に資材を運んでの建築工事は想像が出来ない・・・。

小菅山 (134)
社殿の南側正面。こちら側に階段を付けるのはさすがに無理であろう。

小菅山 (17)
当初の信仰対象ではないかと伝わる甘露池。

小菅山 (143)
今回は特別に奥社の内部を見せていただく恩恵に賜り。社殿を掃き清めるお手伝いをさせていただく。(ピンボケご容赦!)

小菅山 (19)
上杉謙信公が祈願文を捧げたという奥社本殿。500年の時を越えて同じ場所に立てるとは恐れ多い・・・。

奥社の管理人様のご説明によれば、新潟県からの戦前から新潟県からの参拝者が多く、寄付もかなりの額にのぼったのだという。もっとも、最近は高齢化が進み、かなり少なくなってしまったという。
また、明治に入り神仏希釈により小菅山の管理が寺院から里に移った際には、里人は維持管理費の捻出に相当な苦労をしたらしく、樹齢三百年の杉の木を内緒で何本か伐木したらしい。(管理人様に該当箇所の切株を見せてもらった・・)

小菅山 (148)
山伏様ご一行が有難い祝詞をあげられるそうなので、一所懸命お掃除しました!!

管理人様のお話しによれば、7月15日に前信州大学副学長で長野県立歴史館の館長の笹本正治氏と長野県立歴史館の専門主事の遠藤公洋氏が小菅山に来られるとの事であった。(小生の訪問は6月25日)チョッと迷惑そうな口ぶりだった・・(笑)
小生も直接の面識は無いものの、笹本氏や遠藤氏のご活躍は存じ上げております、と言ったら結構驚いていました。

そう、笹本氏は白馬村の三日市場城の破壊事件の後に一度お目にかかっておりました。

小菅山 (18)
東側から見た奥社の縁側。奥の下に見えるのは宿泊施設跡。

奥社の境内にある太鼓を叩くと、こちらに向かって参道を登っている出羽修験道の星野様が法螺貝を鳴らしてコラボしてくださいました。
雨に煙る小菅山の深い森にこだまするように響く太鼓の音と法螺貝の音色は、小生を嘗ての修験場として隆盛を極めた小菅山にタイムスリップさせてくれました。

こんな体験は一生のうちでも滅多に無いと思われるので、我を忘れ、とても感動してしまいました。

この奥社で羽黒修験道最高位の松聖であらせられる星野様の有難い祝詞を直に拝聴したかったのですが、次のスケジュールも迫っていたので、奥社の管理人様にお礼を申し上げて退去させていただきました。

途中、比丘尼岩の付近で羽黒修験者様ご一行とすれ違いました。星野様には改めてもう一度お会いしたいと思った次第・・。

しかし、三の鳥居まで戻るのも結構大変でした。奥社に登るのなら、それ相当の装備と体力・心構えが必要かと。


●大聖院跡・護摩堂

最盛期には、上の院16坊、中の院10坊、下の院11坊、合計37坊を有し、100の末院、6社、5堂が立ち並び、修験、山伏、僧侶が300人いたとも言われている元隆寺。その総括をしていたのが大聖院だ。現在は元隆寺別当大聖院の跡地に護摩堂が建てられ、柱松行事の出発点のほか、火口焼きの神事も護摩堂脇で行われる。建物は1750年に再興されたもの。

また見事な石垣は「大聖院石垣」と呼ばれ、江戸時代末期、お台場を築いた地域の職人が造ったものだという。大きな石を使った梅鉢積みが素晴らしい。

小菅山 (21)
石碑だけじゃよくわかりません・・・(汗)

小菅山 (22)
説明板があってもなんとなくしか分かりません・・・(汗)

小菅山 (24)
大聖院跡地。想像力を働かせるしかないようです・・・・(笑)

小菅山 (23)
護摩堂。ここも廃仏希釈運動の犠牲になってしまったらしい。

小菅山 (27)
大聖院跡の石垣。

小菅山 (29)
近世城郭も真っ青の美しく力強い石垣。

さて、如何でしたでしょうか。

自分でもこんなに長い記事になるとは夢にも思わず・・・(笑)

平成27年1月26日に「小菅の里及び小菅山の文化的景観」が国重要文化的景観に選定された。

同じ修験場でありながら、小菅神社は戸隠神社のように観光地としての華やかさとは無縁である。そこが魅力なのだが、小菅の里の方々の尽力による景観の維持管理はもはや限界に近いのではないか。

飯山市、長野県、国の支援への期待もあるが、それ以前に私たちが一人でも多くこの地を訪れてその素晴らしさを体感し、リピーターを増やすという地道な活動の積み重ねが大切だとも思った次第。

といいつつ、そのうち修験者になりたいなどと夢妄想が始まりそうな予感・・・(爆)


≪小菅山 奥社本殿≫ (こすげやま おくしゃほんでん)

標高:840m 比高:491m(二の鳥居より)
造営年代:室町時代
場所:飯山市瑞穂
訪問日:2016年6月25日
お勧め度:★★★★★ (満点)
所要時間:60分(三の鳥居より)
駐車場:菩提院に有り
見どころ:いろいろ
参考文献:「小菅の里を歩く」(信州いいやま観光局)など
注意事項:岩場なのでトレッキングシューズは靴底の厚めのものが良い。奥社にはそれなりの装備でお越しください。
Special Thanks:奥社本殿管理人殿 (小菅の里で民宿を経営なさっているとか・・ご利用ください・・小生もそのうち・・・)

小菅山 (123)

北信濃にお越しの際は、是非お訪ねください。(奥社はパスしても大丈夫・・・笑)


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Posted on 2016/07/22 Fri. 23:46 [edit]

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