らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0703

淡路城 (松本市波田上波田)  

◆外様ながら小笠原家中で立身出世し、秀政の重臣となった春日淡路守の屋敷址◆

昨日は二か月ぶりの信濃先方衆の合同遠征。

初夏の城巡りは異例中の異例であるが、長年の課題である小笠原領の「木曽口」「飛騨口」の謎解きに迫ってみた次第・・。

その様子については近日中にアップしたいと思うておりますが、例の如くお約束は出来かねます・・・(笑)

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白骨温泉の入口に築かれた池尻砦も今回の目的地。馬場美濃守の「ため息」が聞こえそうな飛騨攻めの最前線の砦ですw

今回ご案内するのは松本市波田シリーズ(旧波田町)の「淡路城」(あわじじょう)。

いまでは史跡碑のみが残る屋敷址なのですが、盛者必衰の戦国哀史はここにも伝わるのです・・・(涙)

淡路城 (1)
気が付かないで通り過ぎてしまった史跡碑・・(汗)

【立地】

前回ご案内した櫛木城から東へ600mの段丘上に作られた屋敷址とされ、木曽口・飛騨口に通じる野麦街道は眼下に抑える立地である。

淡路城 (2)


【城主・城歴】

石碑には「慶長十九年(1614)築城」とある。

淡路城址については、「波田町誌」で以下の記載があるので引用転載してみます。

「春日淡路守道次(又は信次)は『笠系体系』によれば、天正十二年(1584)に川中島に攻め込んだ小笠原貞慶に、大日方源太左衛門と共に降参している。

春日氏は七二会村(長野市七二会)の戸屋城萩野城笹平城の城主であったが、小笠原家に降ってからは頭角を現し、慶長十二年には秀政に属し、その重臣となり、慶長十八年(1613)に小笠原氏が信州松本へ八万石で移封したときは、1,000石(あるいは1,300石)の家老となっている。

昭和九年発行の『波田村誌史料』には、「本村西波多官林西南隅に城址あり。東西一丁三十七間・南北五十三間、老松生い茂り四周の土手高さ三尺あまり存せりと、(明治九年頃)東南隅に三十間余隔たり馬場跡あり、東西三間・南北五十間、今は畑なり西の方出丸と唱へ七十間離れ、東西四十間・南北三十一間、慶応年間まで形を存せり。同年開墾、畑になる。(中略)天正の初め春日淡路といふ人之に居る。」

淡路守は小笠原秀政の家老にして、慶長の検地を監督し、元和元年小笠原忠真に従い、大坂の役に従軍せしも、終る所を知らず。という。

淡路城見取図①
波田町誌P188の見取図を引用。東に堀切が貫通しているが、現在は北側に一部痕跡を残すのみである。

春日淡路守は大坂夏の陣にも小笠原秀政父子に従い出撃している。激戦を極めた大坂夏の陣で小笠原秀政・忠脩(ただなが)は父子は戦死してしまい、戦後処理は春日淡路守が一人で取り計らっている。

春日淡路守が波田に住んだらしいことは「淡路屋敷」によってもほぼ間違いないとみられるが、波田町内には史料は少ない。

淡路城 (3)
屋敷跡地。

●謎の父子自害

淡路屋敷は天正十二年(1584)ごろに春日氏が松本へ出てきてから屋敷として作られ、天正十八年(1590)に小笠原氏が古河に転封して二十三年後の慶長十八年(1613)に再封までは空屋敷となっていたのか、石川氏時代に留守居の者が置かれていたのかは明らかではない。

元和三年(1617)に小笠原忠政は播州播磨10万石の地を将軍秀忠より与えられて転封しているが、なぜか明石に移ったのちになって春日淡路(1,300石)とその子春日蔵人(300石)の父子は「生害滅す」とされている。

淡路城 (4)
耕作地が広がるばかりで、遺構は何もない。

春日淡路ほどの人物にしては、明石において生害滅すというのは、寵姫(妾)が禁制の切支丹になっていて処刑された「十三経塚」の伝説と関係がありはしまいか。

●「十三経塚の話」

戦国時代の終わりから安土桃山時代に、松本城主の小笠原貞慶と秀政の二代に仕えた家老に、春日淡路守道次という侍があった。この淡路守は小笠原家中では千三百石取りで、天正十三年ごろから波田に住み、段丘上に「淡路屋敷」をかまえていたが、元和三年大坂夏の陣の後に、難波の遊女津由と共に行方不明になったとも伝えられている。

この春日淡路が全盛のころ、奥女中で「カナザシ姫」という寵姫(かこいひめ=妾)を「御殿場」の別邸に住まわせていた。姫は十二人の侍女にかしづかれ暮らしていた。
ところがこのカナザシ姫は、下波田の「三日市場」へ毎年特産の麻を買いにやってくる、近江商人によってキリシタン宗門に入信を薦められてキリシタンとなっていたのである。

徳川氏が江戸幕府を開くころからは、きびしい禁教令が出されて、改宗しないキリシタン宗徒には容赦ない極刑が待っていた。
しかし女性ながら深く信仰を持ったカナザシ姫と十二人の侍女たちは、最後まで教えを捨てようとしなかったため、御殿場の南にある磔松原という所で処刑されたと伝えられる。

淡路城 (5)
元和三年(1617)には明石への転封に伴い廃城になったのであろうか。

大久保長安事件に松本藩主の石川数正の後継である康長が連座して改易となっている。小笠原氏の後任の石川氏はキリシタンを保護していたので、春日淡路守の妾がキリシタン信者となった可能性は高く、石川氏の改易の責任が春日氏に及んだ可能性は否定できないという。

【館跡】

現場は改変が進み遺構は全く確認出来ない。東西に二ヶ所堀形の址があるというが、屋敷址のものかは断定出来ない。
江戸時代初期の屋敷址で、居住年数も僅かだったらしいので仕方ない。
馬出も想像するしかない・・(笑)

七二会の春日さんが貞慶の配下としてこのような場所で活躍されていたとは知りませんでした・・・(汗)

まだまだ勉強が足りないようでございますw



≪淡路城≫ (あわじじょう)

標高:722m 比高:35m
築城年代:慶長18年
築城・居住者:春日淡路守道次
場所:松本市波田上波田
攻城日:2015年6月21日、2016年7月2日
お勧め度:★☆☆☆☆ 
所要時間:-
駐車場:無し
見どころ:史跡碑のみ
参考文献:「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年)
注意事項:耕作地につき無断侵入禁止。
付近の城跡:若澤寺跡、波田山城跡、櫛木城、夏道の砦、かぎかけ山物見など
Special Thanks:ていぴす殿

淡路城 (7)
東側に残る「一の堀跡」

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Posted on 2016/07/03 Sun. 22:47 [edit]

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