らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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夏道の砦 (松本市波田赤道)  

◆天正壬午の乱のさなか、深志領から逃げ出す木曽義昌から人質奪回作戦が敢行された砦◆

「境目の城や砦は緊張感MAXで実に興味深い・・・」 

そんな事を書くと不謹慎のようであるが、飛騨領、木曽領との境だった波田地区は中世の遺構や伝承が数多く残り楽しい。

今回ご案内するのは「夏道の砦」(なつみちのとりで)。砦といっても遺構などほとんど残っていないのだが・・・(汗)

しかし、こんな超マイナーな砦を扱う物好きは、小生と「ていぴす殿」の信濃先方衆ぐらいで、まさに信濃大好きの真骨頂である(笑)

夏道の砦(松本市波田) (22)
入口は国道158号線の新渕橋の手前を左折し黒川林道に入り途中から鷲沢に入った鷲沢砂防堰堤の手前.。

林道を上るのだが、軽自動車なら4WDじゃなくてもOK。砂防ダムの脇に適当に止めよう。

夏道の砦(松本市波田) (23)
道形がしっかり残っているので迷うことはありません。5分も歩けば砦に入ります。

【立地】

梓川の右岸、鷺沢と前俣沢の間にある段丘上に夏道が通っていて、そこに夏道の砦がある。対岸が旧安曇村大野田になり「大野田小屋」ともいわれる。

中世から近世の木曽および飛騨への道は、冬は松本から上波田あたりで梓川左岸に渡って八景山(やけやま)を通り、日当たりのよい大野田島々から左岸通り、または雑炊橋を渡って橋場に出て稲核に向かう道を利用した。
夏は傍から大野田夏道を通り、かぎかけ山から橋場へ下り、番所を通って右岸を通り稲核へ出た。
夏道の砦はその名の通り、夏道に沿って作られた砦である。

夏道と冬道
夏道と冬道(推定) ※国土地理院の地図に加筆しています


【砦の経歴】

小笠原家の家臣であった岩岡家が記した「岩岡家記」には「夏道の砦」について以下の記載がある。

「一、天正九年(1581)十一月 木曽義昌、信長公と内談にて、勝頼公へ逆心仕りなされ候につき、甲州より木曽の抑えとして、御人数遣わされ、奈良井にえ川(贄川)に陣取り申し候 
いねこき口へは古畑伊賀・西牧又兵衛仰せ付けなされ候こと

一、天正十年尋午の二月二十六日に、右の古畑伊賀・西牧又兵衛、木曽へ内通仕り、甲州型深志を引き切り、近辺郷中の者苅り立てて、大ぬた夏道に取りこもり候こと」
(「いねこき口とは旧安曇村橋場のことで、「大ぬた夏道」は波田町前渕上段の小平地で砦が作られていた⇒夏道砦のこと)

夏道の砦(松本市波田) (2)
上の夏道と呼ばれた道を登っていく。

木曽義昌の謀反を知った武田勝頼は、深志城の城代であった馬場民部に命じて、波田郷の古畑伊賀(伯耆)と畑五郎座衛門を稲核口の橋場と夏道砦へ入れ、梓川の対岸の西牧郷の西牧又兵衛を大野田城と焼山(八景山)の城日影砦(じょうひかげとりで)などへ派遣してその戦力で、木曽氏の侵入に備えさせたのである。

しかし時勢をを見るに敏で、しかも木曽義昌とは長く隣接して唇歯の間柄にあった古畑・西牧・畑氏らは武田を見限って、織田信長と通じた木曽方へ加わり、急遽波田や西牧の住民や郷士をかり集めて、深志の馬場民部らの攻撃に備え、大野田城と夏道砦に立てこもり、木曽方の旗を立てた。

夏道の砦(松本市波田) (19)
台地(平場)に上がる手前には木戸があったと思われる痕跡が残る。

武田氏の凋落が現実となると、それまで武田氏に帰順していた小笠原氏の旧臣の二木氏や岩波氏・岩岡織部などは時機到来とばかりに武田から離反していった。

天正十年(1582)三月、織田・徳川連合軍による甲州征伐で武田氏が滅亡すると、信長は木曽義昌に武功の恩賞として安曇郡と筑摩郡を加増した。

夏道の砦(松本市波田) (16)
夏道砦の入口。ここを横堀と見なす説もあるようだが、どうみても道形。

●天正壬午の乱勃発による小笠原洞雪の深志入城と木曽義昌の安曇・筑摩からの撤退

武田滅亡後の天正十年(1582)六月、信長が本能寺で斃れると、武田氏の旧領は上杉・北条・徳川の奪い合いとなる(天正壬午の乱)
小笠原家旧臣の二木・岩岡・岩波らはこの機会を利用し小笠原家の復興を画策し、長時の嫡男の貞慶を探すも連絡が取れず、やむを得ず上杉景勝の元に寄寓していた長時の弟の洞雪を深志城に迎え入れるべく景勝に申し入れた。景勝も安曇・筑摩の実質的な支配者となるためこれを受け入れ、大軍に守らせ洞雪を深志に向かわせた。

夏道の砦(松本市波田) (15)
砦の内側から見た入口。ここから唯一「横矢」が掛けられる。

この動きを察知した木曽義昌は形勢不利を悟り、本拠地である木曽福島に引き上げた。
だが木曽義昌は木曽へ引き上げる際に、安曇・筑摩の土豪より本領安堵と引き換えに差し出されていた「人質」を同行させ、それを木曽の家臣となった古幡放棄(伊賀)と西牧又兵衛らに預け、大野田・夏道砦に閉じ込めて木曽口からの攻撃を封鎖せしめた。

夏道砦の見取図①
砦というよりは街道を引き込んで段丘を利用した簡単な陣地だったらしい。

小笠原長時の旧臣らは、木曽義昌を追い出し上杉方の力を借りて洞説を深志城主として迎え入れた。
二木一族・岩岡織部・岩波平左衛門・青木加賀之助・飯田左馬之助らは、木曽方についた古幡伯耆(伊賀)らが人質を入れて立て籠もっていた大野田・夏道砦を攻め立てて、「人質」の父や子を猛攻撃の上に奪い取り返した。

「拙者(岩岡織部)乗り付け、父佐渡をうばい取り申し候、その上雑仕橋(雑炊橋)にて木曽の者一人討取り申し候事」(岩岡家記)

夏道の砦(松本市波田) (14)
砦の内部。石塁の址と道を挟んだ反対側に一段高い削平地が確認出来る。

【大野田・夏道砦】 ※波田町誌より引用転載

大野田・夏道砦(入小屋)とは、安曇村大野田とその対岸の波田町前渕と竜島の中間で両集落より一段上にある山腹の小台地を指す。
この夏道は上・下があり「下夏道原」は東となりの「なろ原」とは、鷺沢(さぎさわ)の深い谷によって区分されている。その段丘の先端に立つと眼下東方に波田・梓川村をのぞみ、対岸に安曇村の大野田や島々の集落が見える。また、遠景は松本平の一部をのぞむ三ヘクタールの小平地で、梓川の河床からは500mほどの断崖上の切所である。

大野田風景①
長ったらしい説明文よりも一発で理解できる風景がこれだ(笑)

夏道原には矢竹が群生し、古銭も出土したことがあるので、かつては人が住んでいたと思われる。普通砦に見られるような、土塁・曲輪などの人工的地形は見られないが、鷺沢から下道原へ登る道には、かなりの人口の跡がみられ、その入口は深く窪地を作り、敵に備えた様子がみられる。

夏道の砦(松本市波田) (13)
唯一遺構の残る砦入口を西側から撮影。


【所感】

街道を取り込んだ陣城で、これといった遺構もない。耕作地化に伴う改変と鉄塔建設により往時の姿がどうであったかを辿るのは厳しい。なんでここから木曽口?と思う方もいるかもしれないが、藪原から鳥居峠を越えて奈良井⇒深志よりも藪原から奈川経由で波田⇒深志に入るのが距離的には長いものの少数の軍事行動では楽だったと思われる。
実際に夏道を歩くと、往時の飛騨越えの旅人の苦労が少しだけ分かったような気がしました。

夏道の砦(松本市波田) (10)
鉄塔付近も砦に含まれているようですが、獣の気配を感じて撤収・・・(汗)

夏道の砦(松本市波田) (8)
鉄塔手前の削平地と空間。掘立小屋に人質を収容していたのはこの辺りであろうか?


≪夏道の砦≫ (なつみちのとりで 大野田小屋・大ぬた小屋・入小屋)

標高:830m 比高:115m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市波田赤松
攻城日:2016年6月12日
お勧め度:★☆☆☆☆ 
所要時間:5分
駐車場:路駐
見どころ:石塁、道形
参考文献:「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年) 「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:周辺に熊の気配あり。熊除け対策を万全にするか、単独訪問は避ける。
付近の城跡:若澤寺跡、波田山城跡、櫛木城、波田の撞鐘久保、かぎかけ山物見など
Special Thanks:ていぴす殿

夏道の砦(松本市波田) (6)
西側に続く夏道。江戸時代もここを通り飛騨や木曽へ向かう人々の重要な間道であったという。



夏道の砦遠景①
対岸の冬道沿い(大野田)から見た「夏道の砦」の遠景。
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Posted on 2016/07/06 Wed. 23:00 [edit]

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