らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0913
須原城 (木曽郡大桑村須原) 
◆木曽谷に覇を唱えた豪族「木曽氏」の最初の本拠地◆
マイナーではあるが、木曽地方について引き続きお付き合いをお願いしたい。
今回ご案内するのは、木曽氏が福島に移る前に、最初に木曽谷支配の拠点としていた「須原城」。

現在は中山道の須原宿として売り出し中。木曽福島町からは葯20km南に位置し、寝覚めの床からは約10kmである。
戦国時代の豪族の豪族である木曽氏は、自らを木曽義仲(源義仲)の末裔と称していたらしいが、全く関係が無いらしい。
元々は「藤原某」を名乗る須原(現在の大桑村)の土豪が、勢力拡大に伴い義仲にあやかって木曽氏を名乗ったという。素性の知れない在地土豪連中が、坊主に大金を払って系図を自分たちの都合の良いように書き換えてしまうのは、当時とすれば地域支配の正当性を住民に説明する常套手段であり、別に不思議な事では無かったんでしょうネ。

居館跡とされる麓の定勝寺からの大手道が見つからず「ていぴす」殿と右往左往・・(汗) 仕方なく西の尾根伝いで登る事にした。
【立地】
北に木曽川、南に伊奈川の間に挟まれた東西に細長い独立峰が愛宕山である。東の糸瀬山へ続く所は、越坂集落の鞍部になっていて、伊奈かわ流域を須原地区との連絡路になっている。
北東山麓には名刹定勝寺があり、愛宕社を祀ったことにより愛宕山、あるいは城山と呼ばれる。谷中へ張り出した形になるため、眺望は広く、対岸の和村域は眼下にある。山体は、北面及び南面は急で、特に北側の木曽川に面しての斜面は急崖で、登るのは困難である。

木曽川を挟んだ対岸の和村を見る。木曽川に近い場所は「殿中」「殿下」と呼ばれているので、屋敷地だった可能性もある。

それほど比高のある山城ではないが、我々は仕方がなく西尾根先端の鉄塔の保安道から尾根を辿って城跡に向かう事にした。
【城主・城歴】
定勝寺に残る記録によると寺域は木曽義在の館跡とされ、木曽氏が福島に移るまでの本拠地である。築城の時期ははっきりしない。応仁の乱には東軍に味方した木曽家豊は須原に居館を置き、文明五年(1473)に伊那郡の小笠原定基と共に東美濃の土岐氏を討つために出兵していることが「小笠原文書」にある。
定基が福島の興禅寺へ与えた書状(年月不詳 興禅寺蔵)に「御留守中須原の能々」とあって須原の名の初見とされる。

鞍部に出てから一山越さないと城跡には辿り着けない。
「長野県町村誌」では、「古宅址」として「木曽殿館の址、今の定勝寺なりと云い伝ふ。館の時は今の地より三町西の方にあり。木曽川近く、往古木曽川洪水して、近傍崩岸の憂ありて今の地へ移る。年暦不詳」とある。
木曽氏は一旦本拠を福島に移した後、再び須原へ帰っているらしい。家豊の子義元・孫の義在は須原と福島を交互に住んだようであるが、義在の子義康に至って福島を本拠地と定め、義昌に至っている。
以上のように須原は木曽氏の本拠地であり、木曽谷の中心をなる城であったことがあり、その点重要な城と言えよう。

尾根を東に進み、鉄塔のある山を越えるとようやく城域となる。一騎駆けの痩せ尾根(土橋?)は人工的な加工であろう。

鋭さは無いが、まとまりのある縄張である。
【城跡】
連郭式の山城であるが、木曽の城の中で、堀切や土塁がしっかり残っているのは特筆すべきと思われる。
特に観音平と呼ばれる郭1と横平と称する郭2の間にある二重堀切は、中間に土塁を伴う特徴ある土木工法で一見の価値はあるとと思われる。

郭5に立つ「ていぴす」さん。堡塁の役割か?

郭4。ここから分岐する北尾根にも郭があるようだが今回はパスした。

郭4の先端には愛宕神社址の石積みが残る。往時の遺構ではないので注意。

郭3。郭4との接続部分に土塁状の盛り土を施した跡がある。
郭1の南には左右に土塁を伴う虎口がある。堀切㋐の南側に土塁を盛って虎口を屈折させてストレートに侵入させないように「折れ」(横矢掛け)を造成している。
更にその南側にもう一重の堀切を穿つ事で進入ルートを限定し殲滅する工夫の跡がみられる。

観音平と呼ばれる郭1。

強制的に屈折する虎口。左右の土塁址から推察すると門があったのかもしれない。

南側から見た堀切㋐

郭2を突破した攻城兵は強制的に堀に入り横矢掛けの的になるのであろう。

かなり埋まった堀切㋑。往時はもっと深かったと思われる。
横平と呼ばれる郭2は、削平が不完全だが、主郭への侵入を警戒して段差を残した可能性も考えられる。鉄塔が刺さっている場所については後世の改変がありと思われるが数段の段郭程度がったのであろうか。

郭2の東側の鉄塔の場所も段郭があったのだろか?

郭2と郭6の通路は塹壕のようにも思えるが後世の加工であろう。

東側の最終の郭6。越坂の集落からは比高50m程度である。
その後の木曽氏の本拠地となった福島城ですら、二重堀切などはなく、尾根を遮断する堀切が数カ所残存するシンプルな縄張である。須原城は隣接する美濃の山城の築城技術の一部を取り入れたと考えたいが、裏付ける資料は無い・・・(汗)
≪須原城≫ (すはらじょう 愛宕山・城山)
標高:683m 比高:140m
築城年代:不明
築城・居住者:木曽氏
場所:木曽郡大桑村
攻城日:2015年3月22日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:20分 駐車場:路駐
見どころ:二重堀切、土塁など
注意事項:越坂集落から登る道のが近いようだが未確認。
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版 P476参照)
付近の城址:和村城、定勝寺館、大屋城、野尻城など

北側の国道19号線から見た須原城。
マイナーではあるが、木曽地方について引き続きお付き合いをお願いしたい。
今回ご案内するのは、木曽氏が福島に移る前に、最初に木曽谷支配の拠点としていた「須原城」。

現在は中山道の須原宿として売り出し中。木曽福島町からは葯20km南に位置し、寝覚めの床からは約10kmである。
戦国時代の豪族の豪族である木曽氏は、自らを木曽義仲(源義仲)の末裔と称していたらしいが、全く関係が無いらしい。
元々は「藤原某」を名乗る須原(現在の大桑村)の土豪が、勢力拡大に伴い義仲にあやかって木曽氏を名乗ったという。素性の知れない在地土豪連中が、坊主に大金を払って系図を自分たちの都合の良いように書き換えてしまうのは、当時とすれば地域支配の正当性を住民に説明する常套手段であり、別に不思議な事では無かったんでしょうネ。

居館跡とされる麓の定勝寺からの大手道が見つからず「ていぴす」殿と右往左往・・(汗) 仕方なく西の尾根伝いで登る事にした。
【立地】
北に木曽川、南に伊奈川の間に挟まれた東西に細長い独立峰が愛宕山である。東の糸瀬山へ続く所は、越坂集落の鞍部になっていて、伊奈かわ流域を須原地区との連絡路になっている。
北東山麓には名刹定勝寺があり、愛宕社を祀ったことにより愛宕山、あるいは城山と呼ばれる。谷中へ張り出した形になるため、眺望は広く、対岸の和村域は眼下にある。山体は、北面及び南面は急で、特に北側の木曽川に面しての斜面は急崖で、登るのは困難である。

木曽川を挟んだ対岸の和村を見る。木曽川に近い場所は「殿中」「殿下」と呼ばれているので、屋敷地だった可能性もある。

それほど比高のある山城ではないが、我々は仕方がなく西尾根先端の鉄塔の保安道から尾根を辿って城跡に向かう事にした。
【城主・城歴】
定勝寺に残る記録によると寺域は木曽義在の館跡とされ、木曽氏が福島に移るまでの本拠地である。築城の時期ははっきりしない。応仁の乱には東軍に味方した木曽家豊は須原に居館を置き、文明五年(1473)に伊那郡の小笠原定基と共に東美濃の土岐氏を討つために出兵していることが「小笠原文書」にある。
定基が福島の興禅寺へ与えた書状(年月不詳 興禅寺蔵)に「御留守中須原の能々」とあって須原の名の初見とされる。

鞍部に出てから一山越さないと城跡には辿り着けない。
「長野県町村誌」では、「古宅址」として「木曽殿館の址、今の定勝寺なりと云い伝ふ。館の時は今の地より三町西の方にあり。木曽川近く、往古木曽川洪水して、近傍崩岸の憂ありて今の地へ移る。年暦不詳」とある。
木曽氏は一旦本拠を福島に移した後、再び須原へ帰っているらしい。家豊の子義元・孫の義在は須原と福島を交互に住んだようであるが、義在の子義康に至って福島を本拠地と定め、義昌に至っている。
以上のように須原は木曽氏の本拠地であり、木曽谷の中心をなる城であったことがあり、その点重要な城と言えよう。

尾根を東に進み、鉄塔のある山を越えるとようやく城域となる。一騎駆けの痩せ尾根(土橋?)は人工的な加工であろう。

鋭さは無いが、まとまりのある縄張である。
【城跡】
連郭式の山城であるが、木曽の城の中で、堀切や土塁がしっかり残っているのは特筆すべきと思われる。
特に観音平と呼ばれる郭1と横平と称する郭2の間にある二重堀切は、中間に土塁を伴う特徴ある土木工法で一見の価値はあるとと思われる。

郭5に立つ「ていぴす」さん。堡塁の役割か?

郭4。ここから分岐する北尾根にも郭があるようだが今回はパスした。

郭4の先端には愛宕神社址の石積みが残る。往時の遺構ではないので注意。

郭3。郭4との接続部分に土塁状の盛り土を施した跡がある。
郭1の南には左右に土塁を伴う虎口がある。堀切㋐の南側に土塁を盛って虎口を屈折させてストレートに侵入させないように「折れ」(横矢掛け)を造成している。
更にその南側にもう一重の堀切を穿つ事で進入ルートを限定し殲滅する工夫の跡がみられる。

観音平と呼ばれる郭1。

強制的に屈折する虎口。左右の土塁址から推察すると門があったのかもしれない。

南側から見た堀切㋐

郭2を突破した攻城兵は強制的に堀に入り横矢掛けの的になるのであろう。

かなり埋まった堀切㋑。往時はもっと深かったと思われる。
横平と呼ばれる郭2は、削平が不完全だが、主郭への侵入を警戒して段差を残した可能性も考えられる。鉄塔が刺さっている場所については後世の改変がありと思われるが数段の段郭程度がったのであろうか。

郭2の東側の鉄塔の場所も段郭があったのだろか?

郭2と郭6の通路は塹壕のようにも思えるが後世の加工であろう。

東側の最終の郭6。越坂の集落からは比高50m程度である。
その後の木曽氏の本拠地となった福島城ですら、二重堀切などはなく、尾根を遮断する堀切が数カ所残存するシンプルな縄張である。須原城は隣接する美濃の山城の築城技術の一部を取り入れたと考えたいが、裏付ける資料は無い・・・(汗)
≪須原城≫ (すはらじょう 愛宕山・城山)
標高:683m 比高:140m
築城年代:不明
築城・居住者:木曽氏
場所:木曽郡大桑村
攻城日:2015年3月22日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:20分 駐車場:路駐
見どころ:二重堀切、土塁など
注意事項:越坂集落から登る道のが近いようだが未確認。
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版 P476参照)
付近の城址:和村城、定勝寺館、大屋城、野尻城など

北側の国道19号線から見た須原城。
スポンサーサイト
Posted on 2016/09/13 Tue. 23:06 [edit]
« p r e v | h o m e | n e x t » |