らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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山城の最高峰に位置する「御坂城」(山梨県笛吹市)のリベンジに挑む ②  

◆天正壬午の乱で北条軍一万人が在陣するにはチョッと無理があるが、峠を守る凄い規模の長城◆

甲斐国(山梨県)は、四方を山々に囲まれた土地柄で、甲府盆地を中心とした「国中」(くになか)と、盆地東側に連なる御坂山地と北東域の大菩薩連峰を隔てた県東部の「郡内」地域に大別される。
さらに国中は、盆地中央部を中心に「峡中」「峡東」「峡西」「峡南」「峡北」という広域名で呼ばれる。

小山城(笛吹市) (8)
小山城(笛吹市)から見た御坂城。凄まじい標高なのがお分かりいただけるでしょうか・・・。(2015.2.21 撮影)

甲斐の地図① 001
御坂城(御坂峠)は、国中と郡内を結ぶ鎌倉街道の境目の要衝として武田時代にも狼煙台や砦が置かれていたという。

【城主・城歴】

甲斐国内では、古来より国中と郡内の境を結ぶ難所の峠として、そして戦国時代には甲斐国と関東を結ぶ軍事・経済上の重要拠点として重視され、武田氏時代には郡内との連絡手段として狼煙台が置かれたと思われるが、天正壬午の乱における北条方の大規模な改修で武田時代の遺構は失われたという。

この城が戦国史にその名を刻んだのは、天正十年(1582)「天正壬午の乱」の時であった。

御坂城 (66)
西側より撮影したE地区。峠の西の黒岳方面への防御地点。堀切の土橋の先は食い違い虎口で武者溜りとなる構造。

【天正壬午の乱】

①乱の勃発

天正十年(1582)三月、織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡する。甲斐と信濃は信長の領国となり、甲斐は配下の河尻秀隆が領主となる。しかし、同年六月に本能寺の変で信長が斃れると、甲斐では一揆が起き河尻秀隆は領民によって殺されてしまった。無政府状態の旧武田領国の甲斐と信濃は上杉・北条・徳川の草刈り場となり、特に甲斐は北条氏政・氏直父子と徳川家康が直接対峙し、激しい争奪戦が繰り広げられた。
この戦いはその年の干支によって天正壬午の乱と呼ばれる。

御坂城 (59)
E地区の北斜面の竪堀は、城の中枢であるA地区と間を連結するD地区の北側を守る長大な横堀と合流させて守りは固い。

②北条VS徳川の仁義なき戦い

相模から侵入した北条軍は郡内をほぼ制圧し、徳川軍は駿河から中道を経て甲府に入り、旧武田遺臣を募りこれを登用し対抗した。北条氏直は上野から碓氷峠を越え信濃の佐久を制圧し甲斐へ向けて南進した。家康は北条への帰属を決めた高島城の諏訪頼忠を攻めるが落ちず、氏直が率いる大軍を前に衆寡敵せず新府城まで撤退した。追撃する北条軍は峡北を勢力下として若神子城(北杜市須玉)に布陣した。

八月十日、家康は甲府から新府城に本陣を移し、若神子城の氏直と対峙した。八月二十日、御坂城に布陣していた北条氏忠の軍が、徳川軍を背後から挟撃するために出撃したが、事前に察知した徳川軍により黒駒付近で返り討ちとなり北条軍は敗走、御坂城に逃げ戻った。

局所の数度に渡るゲリラ戦には勝利したものの、峡北の若神子城に布陣する北条氏直の兵四万三千と郡内の御坂城に布陣する北条氏忠の兵一万に挟撃される形となった新府城の徳川家康(兵数八千)は相変わらず絶体絶命の危機に直面していたのである。

御坂城 (72)
E地区の南側の処理。竪堀に横堀を組合わせるL字処理を二連としているが、北側ほどの厳重さは感じられない。

③徳川方に寝返った真田昌幸による碓氷峠封鎖で停戦と和睦に追い込まれた北条氏直の誤算

全くやる気のない北条軍でも43,000vs8,000の大差なら勝てそうなものだが、「腹が減っては戦が出来なかった」らしい・・(笑)

10月に入り、西上野と信濃の小県に所領を持つ真田昌幸が、徳川方の依田信蕃の誘いに乗り北条方を離反し手切れを通告してきた。そればかりか、依田信蕃と共に北条氏直軍の兵站補給基地のある碓氷峠を攻撃・封鎖してしまったのだ。
※一説によると真田安房守昌幸は、北信濃を占拠した上杉景勝との決戦を避けた北条氏直に愛想をつかしたとも。

これが北条氏直への致命的なカウンターパンチとなった。若神子城の北条軍は補給路を断たれ戦闘が継続できない事態となってしまったのである。圧倒的な兵力の北条軍は、寡兵の徳川の優れた戦略にではなく、真田と依田という信濃の名もなき国衆の戦術に敗れ去ったのである。

※参考文献:「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(平山優著 平成23年6月発刊)

御坂城縄張図①
色々な方が御坂城の縄張図を描かれているが、宮坂武男氏の縄張図が小生にはしっくりくるのである。

【城跡を区切って検証してみた】

御坂峠を挟み込むように築かれた長大な城は、宮坂氏の解説によればざっと5区分に分けることが出来るので、それぞれについて検証てみた。(区分は宮坂武男氏の縄張図を参照願う)

●A地区・・・御坂城の中枢部分で司令塔にあたる。三日月堀に折れを伴う横堀を複雑に組み合わせている。
●B地区・・・峠のピークで茶屋のある平場。後世にだいぶ改変されてしまったようだ。
●C地区・・・東側の御坂山方面からの敵に備えた郭で二重堀の間に馬出を備えている。斜面にL字の横堀を組合わせている。
●D地区・・・A地区とE地区を結ぶ約100m程の平場で前後を横堀でガードされている。建物はここに集中していたと思われる。
●E地区・・・西側の黒岳・大石峠からの敵に備えた郭で食い違い虎口を持つ。南北の斜面の横堀と竪堀の組合せは見どころだ。

【E地区】

稜線の西側からの敵を想定した強固な郭で、大堀切で区切られた郭の入口は食い違い虎口となっている。前後を土塁で守られた武者溜りで南北の斜面に対する備えも厳重だ。

御坂城 (50)
D地区からE地区へ延々と続く北側の横堀を登るていぴす殿。結構な比高差がある。

御坂城 (53)
E地区北側の長大な横堀。箱堀ではなく薬研堀だ。もはや芸術品としての美しさを感じる。

御坂城 (78)
南斜面の横堀。L字に竪堀を組合わせる念の入れ方が観察できる。

御坂城 (94)
D地区との接続部分の東側より見上げたEの斜面には段郭が構築されている。

【D地区】

A地区とE地区を連結する長さ約100mの長大な郭で、前後を横堀で守られた居住空間である。この区域への出入りは完璧な防御システムを持つA地区を通らなければならないので、武器弾薬庫や兵糧等の倉庫も建てられていた可能性はあるだろう。
また、傾斜の緩い南斜面は河口湖側からの峠道が並行して通っているので数段の帯郭と竪堀を入れることで防御を強化している。

御坂城 (36)
D地区の北側の横堀。もはや言葉は要らない・・(笑)

御坂城 (97)
E地区とD地区の接合部分。巨大な北斜面の横堀の南側は長大な防塁壁となってD地区への侵入を拒む。

御坂城 (98)
D地区。防塁(土塁)の高さが半端ないのが分かる。削平が中途半端なのは、工事が中断されたせいであろう。

御坂城 (101)
南側の横堀。河口湖方面からの敵襲はあまり想定していないためか、北の堀に比較すると幅も深さもかなり緩い感じがする。

御坂城 (31)
A地区~D地区の北斜面の長大な横堀のさらに一段下の北側に残る堀切構築の跡。徳川を意識した増築工事であろう。

御坂城 (34)
北斜面の水の手跡。沢の水を汲み上げたものと推定されている。

御坂城 (24)
造成途中で放置された北斜面の横堀と従来の横堀を結ぶ竪堀。

D地区は未完のまま終わったとみてよいだろう。

北斜面にはもう一本の横堀が増築半ばで放棄された様子が確認出来る。

御坂城 (30)
VS徳川対策として藤野木側となる北斜面に造成された二連目の横堀。

天正十年の天正壬午の乱において、北条氏忠(氏政の弟)の軍約1万が御坂城に駐留していたという。

果たして、この御坂峠にそれほどの大軍が三ヶ月もの間駐留していたとは思えないが、兵隊のほとんどは御坂城の築城の労役を担っていたのであろう。それにしても凄い土木工事量である・・・。

さて、城の中枢部と東側(A地区・B地区・C地区)については、次号へ続くとしましょうか・・・・(笑)


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Posted on 2016/11/03 Thu. 22:56 [edit]

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