らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
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さるが城(岩原古城 安曇野市堀金) 
◆ゴム長での信濃先方衆未到の比高700mは、心が二度折れながらの成果だった・・◆
先月の岩櫃城フォーラムでは、我ら信濃先方衆が全国区の山城マニアの間では「信濃の稀有でマイナーな山城探訪マニア」として名を馳せている現実を知った・・・(汗)
「信州の山城を検索すると、必ず貴殿のブログがヒットしますよね。しかも誰も知らないような山城の紹介がメインでしたよネ・・・」
全くもってその通りなので苦笑するしかなかったが、我らに対する最大の賛辞として解釈するようにはしているのだが・・・(笑)
先日の20日(日)、我々は安曇野市のラスボス(どんだけラスボスがいるのやら・・・)として1年越しで「さるが城(岩原古城)」に挑んだのである。
1,000m付近の林道からは二週連続で雲海に遭遇。この雲の下に安曇野市がある。
前日は雨だったので、足元の装備はゴム長(スパイクピン付き)。比高700mをゴム長で行くのも初体験である(笑)
登路は、烏川第三発電所の導水管の途中まで林道が入るが、工事車両以外は通行禁止。ここを歩いて終点につき、ここから導水管脇の作業道を伝って標高1301mの三角点から城跡の1,510mへ辿り着く予定だった。
舗装された林道を徒歩で登るのも辛いものがある。
ようやく林道の終点(登り口から比高250m)について、我々は愕然とした。導水管の脇の作業道はモノレールの軌道になっており、しかも有刺鉄線の張られた頑丈なフェンスが延々と1,301mの三角点まで続いていて全く入れないのである。反対側にも回り込めないし、フェンス沿いに登るにしても酷い藪が続きとても行かれそうにない。
「ここまで登ったのに、諦めるしかないのか・・・」 心が折れた。(第一回目)
さるが城攻略ルート(国土地理院1/25000の地図に加筆しています)
【ルート変更の決断】
我々は諦めが悪い(潔くないともいう)ので、林道を戻りながら違う尾根から1,301m地点に行かれないか思案した。
「鉄塔まで登れば保安道で行けるかもしれない・・・」 このことであった。
地形図を読みながら沢から適当に尾根にへばり付いてひたすら登る。しっかりした道形があるので、林道開通以前はこの尾根が使われていた可能性がある。
ようやく辿り着いた高瀬川No.66の鉄塔。
東京電力の鉄塔保安道はかなり荒れていたが、なんとか導水管の終点まで続いているので、これを辿り何とか1,301の三角点まで行けた。この時点で登山開始からすでに2時間30分が経過していた・・・(汗)
「さあ、城跡までラストの比高200m!!」
1301.5mの三角点のある平場。草も刈られていた。
しかし喜びもつかの間だった。
「この先、身の丈ほどもある熊笹が藪となっていて、道が消えているゾ・・・」 心が折れた (第二回目)
150cm~170cmもある熊笹が尾根全体を覆っていて万事休すだった。
正面に見えるのが「さるが城(岩原古城)」ここを進む覚悟はあるか?
【不退転の覚悟で熊笹を突き進む】
ダメ元で熊笹の大藪を10mほど進んでみた。足下に僅かだが道形があった。
「行っちゃいますか・・・、どうしてもダメなら引き返しましょうか・・・」 お気楽極楽な思考回路とは、このことであった(笑)
ご覧のような「熊笹の海原」をひたすら進む。帰り道に遭難しないように黄色テープを木に巻き付けながら進む。
何も障害物が無ければ20分程度の工程を「熊笹薮漕ぎ」+「テープ貼」の作業が加わるので60分かかって無事到着。
【城跡に最初に来た宮坂氏は神であろう】
登山開始から3時間40分後の11時40分、我々はとうとう「さるが城(岩原古城)」に到達した。標高は1510mである。
信濃の山城研究における第一人者である宮坂武男氏は、この笹薮の中をたった一人で藪漕ぎしながら来たのである。
背丈ほどある笹薮なので、時々木に登るか、斜面からでしか周囲が見えず、何か得体のしれない生物と遭遇する危険度は高い。
「地元の史料を確認し、ここを城跡として特定し、調査し、縄張図を描く・・・・まさしく神の所業である」
到達時にスマホの国土地理院マップに表示された1,510m地点。このアプリが無いと我々の到達も難しかった。
残念ながら、さるが城と呼ばれ熊笹の絨毯が覆うこの場所は猿も来ないと思われる・・・(笑)
こんな場所を調査するのは至難の業であるが、我々も必死に徘徊した。
さるが城の主郭。
そして、この城が「逃げ込み城」として存在する理由の一つが「舟窪の池」(ふなくぼのいけ)で、確かに我々も確認した。
熊笹の藪の中に忽然と現れた「舟窪の池」。水が確保出来れば、10日間くらいは籠れるだろうか。
「自然地形じゃないの?」
賢明な読者の方や山城ツアラーの方はそう指摘するかもしれない。
しかし、ここには岩原●●(おそらく古城か)という標柱が存在していた事を宮坂武男氏は記述している。
我々は熊笹藪の中に標柱の残骸を必死に探した・・・腐って消滅したかもしれない・・・・
「あった!!」
根本に白ペンキの痕跡が残っている。周辺に標柱の破片を探したが見つからず、消滅したのであろう。
山道が通っていた往時は笹薮など無く、キチンと手入れされていたと思われるが、今じゃ一面熊笹の海。
さるが城は、小笠原氏配下の堀金氏の岩原城の詰め城と言われている。岩原城とは直接尾根は繋がっていないが、ここを詰め城としたのは、水が十分に確保できているためであろう。
宮坂武男氏の調査によれば、舟窪の意ねの周囲には土塁らしきものが囲っているようだが、笹薮が酷くて詳細は確認出来なかった。防御構造というものはほとんどなく、俗にいう「足弱の逃げ込み城」と推定される。
比高700mをゴム長で登るというのはグリップが低い為に大変な負担だったが、藪漕ぎにおける蛇対策には最強の防具であった。
こんな場所で標柱を探すのも正気の沙汰ではない・・・(笑)
満面の水を湛えた「舟窪の池」
≪さるが城≫ (さるがじょう 岩原古城 奥の城)
標高:1,510m 比高:700m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:安曇野市堀金烏川
攻城日:2016年11月20日
お勧め度:☆☆☆☆☆ (お勧めしません)
館跡までの所要時間:120分 駐車場:道路脇に路駐
見どころ:舟窪の池
注意事項:遭難の危険あり。単独訪問不可。
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇の編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P66参照)
付近の城址:岩原城、小倉城など
SpecialThanks:ていぴす殿 (感謝感謝でございますw)
下山途中から見た岩原城。対面の尾根にあるので直接訪問することは出来ない。
先月の岩櫃城フォーラムでは、我ら信濃先方衆が全国区の山城マニアの間では「信濃の稀有でマイナーな山城探訪マニア」として名を馳せている現実を知った・・・(汗)
「信州の山城を検索すると、必ず貴殿のブログがヒットしますよね。しかも誰も知らないような山城の紹介がメインでしたよネ・・・」
全くもってその通りなので苦笑するしかなかったが、我らに対する最大の賛辞として解釈するようにはしているのだが・・・(笑)
先日の20日(日)、我々は安曇野市のラスボス(どんだけラスボスがいるのやら・・・)として1年越しで「さるが城(岩原古城)」に挑んだのである。
1,000m付近の林道からは二週連続で雲海に遭遇。この雲の下に安曇野市がある。
前日は雨だったので、足元の装備はゴム長(スパイクピン付き)。比高700mをゴム長で行くのも初体験である(笑)
登路は、烏川第三発電所の導水管の途中まで林道が入るが、工事車両以外は通行禁止。ここを歩いて終点につき、ここから導水管脇の作業道を伝って標高1301mの三角点から城跡の1,510mへ辿り着く予定だった。
舗装された林道を徒歩で登るのも辛いものがある。
ようやく林道の終点(登り口から比高250m)について、我々は愕然とした。導水管の脇の作業道はモノレールの軌道になっており、しかも有刺鉄線の張られた頑丈なフェンスが延々と1,301mの三角点まで続いていて全く入れないのである。反対側にも回り込めないし、フェンス沿いに登るにしても酷い藪が続きとても行かれそうにない。
「ここまで登ったのに、諦めるしかないのか・・・」 心が折れた。(第一回目)
さるが城攻略ルート(国土地理院1/25000の地図に加筆しています)
【ルート変更の決断】
我々は諦めが悪い(潔くないともいう)ので、林道を戻りながら違う尾根から1,301m地点に行かれないか思案した。
「鉄塔まで登れば保安道で行けるかもしれない・・・」 このことであった。
地形図を読みながら沢から適当に尾根にへばり付いてひたすら登る。しっかりした道形があるので、林道開通以前はこの尾根が使われていた可能性がある。
ようやく辿り着いた高瀬川No.66の鉄塔。
東京電力の鉄塔保安道はかなり荒れていたが、なんとか導水管の終点まで続いているので、これを辿り何とか1,301の三角点まで行けた。この時点で登山開始からすでに2時間30分が経過していた・・・(汗)
「さあ、城跡までラストの比高200m!!」
1301.5mの三角点のある平場。草も刈られていた。
しかし喜びもつかの間だった。
「この先、身の丈ほどもある熊笹が藪となっていて、道が消えているゾ・・・」 心が折れた (第二回目)
150cm~170cmもある熊笹が尾根全体を覆っていて万事休すだった。
正面に見えるのが「さるが城(岩原古城)」ここを進む覚悟はあるか?
【不退転の覚悟で熊笹を突き進む】
ダメ元で熊笹の大藪を10mほど進んでみた。足下に僅かだが道形があった。
「行っちゃいますか・・・、どうしてもダメなら引き返しましょうか・・・」 お気楽極楽な思考回路とは、このことであった(笑)
ご覧のような「熊笹の海原」をひたすら進む。帰り道に遭難しないように黄色テープを木に巻き付けながら進む。
何も障害物が無ければ20分程度の工程を「熊笹薮漕ぎ」+「テープ貼」の作業が加わるので60分かかって無事到着。
【城跡に最初に来た宮坂氏は神であろう】
登山開始から3時間40分後の11時40分、我々はとうとう「さるが城(岩原古城)」に到達した。標高は1510mである。
信濃の山城研究における第一人者である宮坂武男氏は、この笹薮の中をたった一人で藪漕ぎしながら来たのである。
背丈ほどある笹薮なので、時々木に登るか、斜面からでしか周囲が見えず、何か得体のしれない生物と遭遇する危険度は高い。
「地元の史料を確認し、ここを城跡として特定し、調査し、縄張図を描く・・・・まさしく神の所業である」
到達時にスマホの国土地理院マップに表示された1,510m地点。このアプリが無いと我々の到達も難しかった。
残念ながら、さるが城と呼ばれ熊笹の絨毯が覆うこの場所は猿も来ないと思われる・・・(笑)
こんな場所を調査するのは至難の業であるが、我々も必死に徘徊した。
さるが城の主郭。
そして、この城が「逃げ込み城」として存在する理由の一つが「舟窪の池」(ふなくぼのいけ)で、確かに我々も確認した。
熊笹の藪の中に忽然と現れた「舟窪の池」。水が確保出来れば、10日間くらいは籠れるだろうか。
「自然地形じゃないの?」
賢明な読者の方や山城ツアラーの方はそう指摘するかもしれない。
しかし、ここには岩原●●(おそらく古城か)という標柱が存在していた事を宮坂武男氏は記述している。
我々は熊笹藪の中に標柱の残骸を必死に探した・・・腐って消滅したかもしれない・・・・
「あった!!」
根本に白ペンキの痕跡が残っている。周辺に標柱の破片を探したが見つからず、消滅したのであろう。
山道が通っていた往時は笹薮など無く、キチンと手入れされていたと思われるが、今じゃ一面熊笹の海。
さるが城は、小笠原氏配下の堀金氏の岩原城の詰め城と言われている。岩原城とは直接尾根は繋がっていないが、ここを詰め城としたのは、水が十分に確保できているためであろう。
宮坂武男氏の調査によれば、舟窪の意ねの周囲には土塁らしきものが囲っているようだが、笹薮が酷くて詳細は確認出来なかった。防御構造というものはほとんどなく、俗にいう「足弱の逃げ込み城」と推定される。
比高700mをゴム長で登るというのはグリップが低い為に大変な負担だったが、藪漕ぎにおける蛇対策には最強の防具であった。
こんな場所で標柱を探すのも正気の沙汰ではない・・・(笑)
満面の水を湛えた「舟窪の池」
≪さるが城≫ (さるがじょう 岩原古城 奥の城)
標高:1,510m 比高:700m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:安曇野市堀金烏川
攻城日:2016年11月20日
お勧め度:☆☆☆☆☆ (お勧めしません)
館跡までの所要時間:120分 駐車場:道路脇に路駐
見どころ:舟窪の池
注意事項:遭難の危険あり。単独訪問不可。
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇の編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P66参照)
付近の城址:岩原城、小倉城など
SpecialThanks:ていぴす殿 (感謝感謝でございますw)
下山途中から見た岩原城。対面の尾根にあるので直接訪問することは出来ない。
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Posted on 2016/11/23 Wed. 15:40 [edit]
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