らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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長久保宿 (中山道)  

◆真田信繁の息女「すへ」が嫁いだ石合家が本陣を務めた宿場町◆

【長久保宿の賑わい】

中山道の長久保宿は江戸末期には旅籠屋が四十三件もあって、信濃二十六宿の中では塩尻宿に次ぐ規模で賑わったという。
その要因としては、宿場の前後に笠取峠や和田峠の難所を控えていたこと。また、甲州や伊那への近道となる大門道、武石峠越えに松本から佐久へ通じる大内道、北国街道に通じる善光寺道・上田道に接する交通の要衝であったこと。そして、温泉場でもある下諏訪宿に宿泊した場合、日程的に便利であったことなどがあげられるという。

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往時の建物は僅かしか残らないが、宿場町の風情を感じさせてくれる。(町の東側より撮影)

中山道は、同じく江戸と京・大坂を結ぶ東海道より十里(約40km)ほど長く、しかも山道や峠が多く、人々や物の往来には困難が伴ったものの、東海道のように大きな河川がなく大水の際の川留(かわどめ)による逗留がほとんどなく予定通りの旅が出来たので、利用者は多かったと伝わる。

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かつては大勢の旅人や物流で賑わったであろう長久保宿(西側より撮影)

参勤交代の折に中山道を通って長久保宿を通過した大名は、尾張藩、紀伊藩の徳川家など三十四家で、これは東海道の四分の一ほどにあたる。また、大坂城番・日光例幣使(日光東照宮の大祭に朝廷から派遣される使者)などの公用者も片道は中山道を通った。

また、「川留の際に逗留して『滞る(とどこおる)』のを嫌った」、「『今切の渡し』(静岡県浜名湖)、『薩埵(さった)峠』(静岡県)などの地名が敬遠された」など諸説あるが、縁起を担いだためか姫宮のお輿入れはほとんど中山道を通って行われた。(なかでも皇女和宮の御下向行列は有名)
このことから中山道は別名「姫街道」とも呼ばれた。

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長久保宿歴史資料館の「一福処濱屋」(いっぷくどころはまや)。「出梁造り」と言われる二階部分が一階よりも突出した旅籠建物。

【長久保宿の問屋・石合氏について】

長久保の石合氏については、小生の下手な講釈よりも、真田氏研究の第一人者である平山優氏が彼の著書「真田信之 父の知略に勝った決断力」(2016年 PHP研究所)で触れているので、その一部を引用させていただく。(P227~P228)

有徳人(有力百姓)の登用 (第五章 苦難の連続だった信之の内政)

真田信之は、その支配領域を円滑に支配するために、中世以来、地域社会を担い、まとめてきていた有徳人を重用せざるをえなかった。彼らの個々に紹介することは、紙幅の関係もあってできないが、その代表的な事例として、上田・真田領の石合氏と小林氏をとりあげてみよう

小県郡長窪村には中山道が通っており、そこに長窪宿があった。その中心を担っていたのが石合氏である。その当主石合十蔵道定(いしあいじゅうぞうみちさだ)のもとには、真田信繁の息女すへが嫁いだことで知られる。ただし、石合氏の系譜関係については、未検討の課題が多い。

石合氏は、問屋役を請け負っていた。問屋は、商人、宗教者、旅人などの宿泊施設であるとともに、伝馬宿の中心として万事を差配する要職であり、また問屋に滞在する自他国の商人に、自らが管轄する市や宿(ナワバリ)などを、彼らに商いの場として提供することや、自らのナワバリで発生する商売上のトラブルや、事件・事故(荷物紛争、強盗被害、行き倒れ、病気など)の処理や解決にあたる、平和・秩序維持を担う中心的存在であった。これを実現できる実力を有していたからこそ、問屋として領主から任命されたのであり、その逆ではない。戦国期から織豊期にかけて、問屋を務めた者のほとんどが例外なく土豪、地侍としての相貌をも持ち、領主の下級家臣になっていたのは、同時に彼らが地域社会における武力の担い手であったからである。

石合氏も例外ではなく、石合一族は真田氏の下級家臣となった者も多く、石合道房は大坂城に籠城した真田信繁に合流すべく長窪を出奔し、後に戦死している(「石合系図」)。問屋として資料に登場するのは、石合新左衛門である。慶長十二年(1607)十一月、石合新左衛門は「郷中町といや共」の肩書を持っていたことが知られる。石合氏は長窪宿に数人いた問屋役の統括をしていたのであろう。(以下略)

真田信之の本
※この続きは是非、書店で「真田信之 父の知略に勝った決断力」(平山優著 PHP研究所 940円)をお買い求めください!(笑)

石合家

上の写真は、歴史資料館に展示してあった石合家の家系図である。細かい解説が無いのだが、上記の平山優氏の記述と照合すると、石合泉守道重の息子の道房は下級家臣として真田に仕え、大坂の陣で戦死。もう一人の息子の新左衛門道相は問屋となり、その息子がすえが嫁いだ十蔵道定である。道定の兄弟は道房の跡目を継いで真田家の家臣となったようだ。
つまり、石合家は真田の家臣と長久保の問屋に分かれたと見るべきであろう。

【石合家に残る真田信繁書状】

すえの嫁いだ長久保宿の問屋(本陣)の石合家には、信繁が娘婿の十蔵道定に宛てた一通の書状が残っている。

信繁書状
こんなときは古文書読めたらいいなあーなんて一瞬だけ思います・・・(笑)

凡人には何がなんだかわからないので、以下歴史館の資料で解読してもらいます。

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この書状が描かれた時の状況について、やはり歴史資料館の資料で解説してもらいましょう。

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先週の真田丸第47話あたりで、この手紙が書かれたのでしょうね。
信繁は当然の事ながら、敗軍の将の家族は皆殺しにされても文句など言えない戦国の習いをその目で見てきたはずです。
そして、この戦が終わった時に娘が離縁され石合家から追放されることは分かっていたと思います。
それでも敢えて娘の行く末を案じるこの手紙には、同じ子を持つ親として心が動かされます。


【大阪の陣後の真田領内の大坂方に味方した者への処断】

幕府は大坂の陣が終わると直ちに大阪方の落人の詮索を開始する。当然の事ながら真田領に対しても役人を派遣した。大坂の陣では、真田信之が弟の信繁と内通し領内の家来や牢人たちが大坂に向かうのを黙認していたとの嫌疑をかけられていたので、戦後信之は大坂に出奔し残された家族が牢人を匿っていないか厳しく詮議を行いこれを処断した。
特に堀田作兵衛は信之の家臣の身分のまま信繁の元へ出奔し信繁の家臣となり討死したためにその処分は特に厳しく、残された妻子と老母、舅は上田から京都に送られ処刑されたという。
堀田作兵衛を養父とする信繁の息女すへについては、婚儀が大坂の陣より前であり特に問題にならなかった。

おすへさん①
お願いですから、ゆるキャラにはならないでください・・・(笑)

【石合十蔵とすへ夫妻のその後】

ところが、大坂の陣が終わって24年後の寛永十六年(1639)、幕府の目付がすへが信繁の娘であることを知り、夫の石合十蔵とともに幕府の詮議に賭けられる事となった。この時石合十蔵は江戸に出向き、すへとの婚儀は大坂の陣の前であると自ら堂々と申し開きを行い事なきを得たという。また、堀田作兵衛の遺児(又兵衛)を養育している件についても問われたが、出産が大坂の陣の後でこちらも問題にはならなかった。

石合十蔵道定は、信繁からの書状に書いてあった願いを忠実に叶えてすへを守り通したのである。そしてすへの養父である堀田作兵衛のたった一人生き残った遺児をも守ったのである。まさにこれを漢気(おとこぎ)というのであろう。

その三年後の寛永十九年(1642)、すへは57歳(または56歳とも)の天寿を全うしあの世に旅立った。墓所は長和町の古町にある西連寺にある。

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西連寺。

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右から二番目の墓標がすへの墓と伝わる。法名は松屋寿貞大姉。(※墓標については武蔵の五遁様より情報をいただきました)

【もう一通残る信繁の手紙】

長久保の歴史資料館の2Fにはもう一通の九度山蟄居時代の信繁の手紙が展示されている。
せっかくなので、こちらもご披露したいと思います。

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例の如く文面を解読してもらいましょう。

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何を言っているのかよくわかりません・・(汗)  では、解説していただきましょうか・・(笑)

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パパ幸が亡くなり、貧しいながらも楽しい我が家時代(ホントはかなり窮乏している)のお手紙でした。

【その他の長久保宿の建物】

それほど往時の建物は残っていませんが、塩尻宿に次ぐ賑わいのあった長久保宿を散策してみると案外楽しいものです。
石合家の門からすへさんが出てきそうですネ。

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町指定の文化財の釜鳴屋(かまなりや)

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説明板も丁寧で分かり易い。

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字が読めない町民やお百姓さんには読んであげたのでしょうかねえ。

≪長久保宿≫ (ながくぼしゅく)

標高:682m
街道:中山道
場所:小県郡長和町長久保
訪問日:2016年11月9日
お勧め度:★★☆☆☆
見どころ:一福処濱屋(歴史資料館 入場無料)、本陣(石合家)、釜鳴屋(竹内家)、西連寺(古町)など
付近の名所:笠取峠の松並木、和田宿など
その他:真田丸大好きの方は必見
参考文献:「真田信之 父の知略に勝った決断力」(平山優著 2016年 PHP研究所)、長久保宿歴史資料館の解説文
SpecialThanks:武蔵の五遁様

Posted on 2016/12/02 Fri. 17:39 [edit]

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