らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0308
新野八幡城 (下伊那郡阿南町新野) 
◆関氏四代目の春仲の後見人 関右馬允の居館跡◆
気分転換と思い、5年ぶりとなる模様替えをしていたら、せっかくの平日休みが終了してしまった・・・(汗)
先日買った平山優氏の「武田氏滅亡」も未だ「108/751」で先に進まないのに・・・「春眠暁を覚えず」である・・・(笑)

戎光祥出版には10万円以上の散財をしているので上得意様であろうか。それにしても「武田氏滅亡」の本の厚さは凄い。
今回ご案内するのは、新興勢力として下伊那に覇を唱え、次々と築城を繰り返して領民の怨嗟を買い滅亡した関氏の三代目春清の弟の居館跡と伝わる新野八幡城(にいのはちまんじょう)である。
戦国時代の初期、奥三河と下伊那の境の新野盆地から下伊那に覇を唱えた関氏五代については下記を参照願えれば幸いです。
⇒日差城
⇒八幡城
⇒矢草城
⇒上田城
⇒権現城

館跡と伝わる曹洞宗祥雲山瑞光禅院の山門。
【立地】
下伊那郡阿南町(あなんちょう)の新野盆地の西北の寺山の麓。東と西に尾根が延び、その間の南斜面の台地上に瑞光院があり、その前身が居館跡だという。
【城主・城歴】
関氏の三代目当主の清治の弟の関右馬允春光(せきうまのじょうはるみつ)は、下条氏と争って下伊那に覇を唱えた四代目春仲の幼少期の後見人として関氏を支え、新野城の北東の鬼門に館を構えたので八幡殿と称せられたという。
その館跡が瑞光院で八幡城と呼ばれるが、関氏の八幡城は上記の案内の通り他にも存在するので、新野八幡城と仮称する。
関右馬允春光は、永正十七年(1520)三月に、北方にあった瑞光庵を館の傍に移し、享禄元年(1528)長子義玉(越前守と称す)が28歳で早世すると、その菩提を弔うために、三河国二連木全久院二世光国舜玉和尚(武田信虎の弟)を招いて開山として、境内、伽藍を改め、瑞光院とする。この時に寄進されたのが日差城の隣の仏具田という。享禄三年(1530)、右馬允が大村に分知し、居館を瑞光院に寄進し、自分は日差城に住む。天文十三年(1544)、関氏が滅びた後も、下条氏、徳川氏の保護を受けて、信濃南端の一大伽藍を誇っていたが、近年火災で焼失。現在は再建されている。

瑞光院(居館跡)からみた南西の傾斜地。嘗ては家臣の屋敷が並んでいたという。

最近再建されたという社殿。
【城跡】
館城時代よりも寺院境内として長年使用され、また近年の罹災による再建で削平がやり直しされているので、旧態ははっきりしない点が多いが、東西80m、南北40めほどの所が主要部分になる。沢水も豊かで、国道までの100mの傾斜地には、家下等の屋敷があったものと思われる。南面した山塊に抱かれているために、要害性も考えている。
日差城跡は、水田化の上、跡形もなくなっているが、この八幡城は寺となっていたために旧態をある程度残すことが出来た。
日差城は南西約1km弱の位置にある。
(以上、「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」P381を引用)

こんな南信濃の片田舎のお寺にしては、壮大な伽藍の寺院なので驚いた。

お寺の西側。
関氏三代は、伊勢崎町にある瑞光庵に葬られ、その後の享禄元年(1528)、関右馬允春光がその供養の為に古鐘を鋳造し寄進したという。その鐘がこの瑞光院に伝わる。

瑞光院に伝わる関右馬允の古鐘。
一説には、日差城の鬼門除けの場所なので、関右馬允春光が館と寺院を築き自らが住んだのだとも伝わる。
確かに日差城(現在の道の駅 信州千石平)からは北東約1kmの位置である。
関氏四代目の当主の春仲は、叔父の春光の後見により経営基盤の安定を得ることが出来、そのおかげで成人したのちも堅実な成長路線を続ける事が出来た。
しかし、嫡子の盛永が五代目当主となるに及び、慢心による無益な戦への兵役と度重なる築城に対する労役負担で領民の我慢は限界となり、そこに付け入った下条氏の奇襲により関一族は権現城で滅亡する。

瑞光院の参道は嘗ての館の堀跡であろう。

参道を南から撮影。
![20160206092050862[1]](http://blog-imgs-121.fc2.com/r/a/n/ranmaru99/20170308222822fef.jpg)
関氏一族の興亡をまとめた解説もご確認ください。(我ながら秀作、自画自賛・・・笑)
≪新野八幡城≫ (にいのはちまんじょう)
標高:812m 比高:22m
築城年代:永正十七年
築城・居住者:関氏
場所:下伊那郡阿南町新野寺山
攻城日:2014年3月23日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分 駐車場:瑞光院の駐車場借用
見どころ:古鐘
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「定本 伊那の城」
付近の城址:八幡城、矢草城、砦山城、権現城など
Special Thanks to ていぴす殿

参道腋の水路。東側にも同じように水路が巡っているので、館城時代の堀の跡と思われる。
気分転換と思い、5年ぶりとなる模様替えをしていたら、せっかくの平日休みが終了してしまった・・・(汗)
先日買った平山優氏の「武田氏滅亡」も未だ「108/751」で先に進まないのに・・・「春眠暁を覚えず」である・・・(笑)

戎光祥出版には10万円以上の散財をしているので上得意様であろうか。それにしても「武田氏滅亡」の本の厚さは凄い。
今回ご案内するのは、新興勢力として下伊那に覇を唱え、次々と築城を繰り返して領民の怨嗟を買い滅亡した関氏の三代目春清の弟の居館跡と伝わる新野八幡城(にいのはちまんじょう)である。
戦国時代の初期、奥三河と下伊那の境の新野盆地から下伊那に覇を唱えた関氏五代については下記を参照願えれば幸いです。
⇒日差城
⇒八幡城
⇒矢草城
⇒上田城
⇒権現城

館跡と伝わる曹洞宗祥雲山瑞光禅院の山門。
【立地】
下伊那郡阿南町(あなんちょう)の新野盆地の西北の寺山の麓。東と西に尾根が延び、その間の南斜面の台地上に瑞光院があり、その前身が居館跡だという。
【城主・城歴】
関氏の三代目当主の清治の弟の関右馬允春光(せきうまのじょうはるみつ)は、下条氏と争って下伊那に覇を唱えた四代目春仲の幼少期の後見人として関氏を支え、新野城の北東の鬼門に館を構えたので八幡殿と称せられたという。
その館跡が瑞光院で八幡城と呼ばれるが、関氏の八幡城は上記の案内の通り他にも存在するので、新野八幡城と仮称する。
関右馬允春光は、永正十七年(1520)三月に、北方にあった瑞光庵を館の傍に移し、享禄元年(1528)長子義玉(越前守と称す)が28歳で早世すると、その菩提を弔うために、三河国二連木全久院二世光国舜玉和尚(武田信虎の弟)を招いて開山として、境内、伽藍を改め、瑞光院とする。この時に寄進されたのが日差城の隣の仏具田という。享禄三年(1530)、右馬允が大村に分知し、居館を瑞光院に寄進し、自分は日差城に住む。天文十三年(1544)、関氏が滅びた後も、下条氏、徳川氏の保護を受けて、信濃南端の一大伽藍を誇っていたが、近年火災で焼失。現在は再建されている。

瑞光院(居館跡)からみた南西の傾斜地。嘗ては家臣の屋敷が並んでいたという。

最近再建されたという社殿。
【城跡】
館城時代よりも寺院境内として長年使用され、また近年の罹災による再建で削平がやり直しされているので、旧態ははっきりしない点が多いが、東西80m、南北40めほどの所が主要部分になる。沢水も豊かで、国道までの100mの傾斜地には、家下等の屋敷があったものと思われる。南面した山塊に抱かれているために、要害性も考えている。
日差城跡は、水田化の上、跡形もなくなっているが、この八幡城は寺となっていたために旧態をある程度残すことが出来た。
日差城は南西約1km弱の位置にある。
(以上、「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」P381を引用)

こんな南信濃の片田舎のお寺にしては、壮大な伽藍の寺院なので驚いた。

お寺の西側。
関氏三代は、伊勢崎町にある瑞光庵に葬られ、その後の享禄元年(1528)、関右馬允春光がその供養の為に古鐘を鋳造し寄進したという。その鐘がこの瑞光院に伝わる。

瑞光院に伝わる関右馬允の古鐘。
一説には、日差城の鬼門除けの場所なので、関右馬允春光が館と寺院を築き自らが住んだのだとも伝わる。
確かに日差城(現在の道の駅 信州千石平)からは北東約1kmの位置である。
関氏四代目の当主の春仲は、叔父の春光の後見により経営基盤の安定を得ることが出来、そのおかげで成人したのちも堅実な成長路線を続ける事が出来た。
しかし、嫡子の盛永が五代目当主となるに及び、慢心による無益な戦への兵役と度重なる築城に対する労役負担で領民の我慢は限界となり、そこに付け入った下条氏の奇襲により関一族は権現城で滅亡する。

瑞光院の参道は嘗ての館の堀跡であろう。

参道を南から撮影。
![20160206092050862[1]](http://blog-imgs-121.fc2.com/r/a/n/ranmaru99/20170308222822fef.jpg)
関氏一族の興亡をまとめた解説もご確認ください。(我ながら秀作、自画自賛・・・笑)
≪新野八幡城≫ (にいのはちまんじょう)
標高:812m 比高:22m
築城年代:永正十七年
築城・居住者:関氏
場所:下伊那郡阿南町新野寺山
攻城日:2014年3月23日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分 駐車場:瑞光院の駐車場借用
見どころ:古鐘
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「定本 伊那の城」
付近の城址:八幡城、矢草城、砦山城、権現城など
Special Thanks to ていぴす殿

参道腋の水路。東側にも同じように水路が巡っているので、館城時代の堀の跡と思われる。
Posted on 2017/03/08 Wed. 22:40 [edit]
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