らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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殿島城 (伊那市春近中殿島)  

◆上伊那郡で現存する最大級の館城跡◆

先日、父親の四十九日が終わり忌明けとなったが、今週末は初節句のお招きがあり相変わらず山城探訪も叶わないまま二ヶ月が過ぎようとしている。

twitterで他の方のT/Lを眺めては「羨ましいなあ」・・・(汗) 

これ以上、山城に行けないストレスを抱えると「死んでしまうがなあー」とマジで思っております・・・(笑)

今回は再び舞台を上伊那(かみいな)に戻して、2年前に訪問した「殿島城」(とのじまじょう)をご案内しましょう。

殿島城 (2)
城址公園として整備されている。大手門と足場の石垣は根拠のない想像上の復元の産物であり、お役所の勝手な独りよがり。

【立地】

※以下、解説は「定本伊那谷の城」(1996年 郷土出版社 P57殿島城)の飯塚政美様の掲載記事を引用しています

殿島城址は、大部分が伊那市春近中殿島にあり、東側の一部が近年造成された暁野区(殿島団地)に属している。西側は天龍川左岸河成段丘突端部に当たり、北側は宮狭間の洞(県道沢渡・高遠線が通る)、南側は火沢の洞に挟まれた範囲で、約5ヘクタールの面積に達する上伊那地方では最大級の平山城である。

殿島城 (7)
大手門に接続する北側の堀跡。箱掘りではなく薬研堀なのが分かる。

殿島城 (8)
構造はW堀なのだが、大きな段差(高低差)をつけて守りを厳しくしている。(大手門の北側接続部分)

昭和四十年代前半の開田事業によって外郭部は相当破壊され、流し堀(河川を引き込み水流や水の力を利用して堀を造成した手法)によって区画された本城と外城が現存している。

本郭は約1ha(ヘクタール)の面積を有し、北東の一部を除いて四方に土塁が全周している。現在、復元大手門の櫓が再建されている北東部の一隅について江戸時代後期の編集された「箕輪記」にも現存のような姿で絵図化されており、大手の一部分と想定されるが、今後の課題である。


殿島城見取図①
殿島城の縄張図。北東は鬼門除けの隅欠けではなかったのか?とも思える。その場合、大手は南側になる。

土塁は段丘崖面に近い西側は低くなっており、逆に東側は極めて高く、重層感を漂わせている。その最高値は4メートルぐらい、最低値は1メートルぐらいを示す。次に細部の特徴を記す。
●本城を取り巻く堀は断面W型を呈する。
●本城の東側に構築された帯郭の近くは二重の堀が取り巻いている。
●西側の段丘崖面に数段にわたって何ヵ所も帯郭が設置されている。

殿島城 (14)
本城東側の三重堀の中央の堀。廃城後は崖下との連絡通路だったようで石碑が点在する。

殿島城 (16)
西側の崖側から見上げると外堀と中堀がW堀になっているのがハッキリと分かる。

【二度にわたる発掘調査の結果】

外城(二の曲輪)と外郭部は昭和六十二年の団地造成に伴い、発掘調査が実施され、竪穴住居址一件、竪穴十七基、建物址四棟、溝状遺構二基、武将級墳丘墓一基、火葬墓群などが検出され、これらから出土した遺物を列記する。
室町中期古瀬天目茶碗、動機の古瀬戸灰釉大平鉢、同期の内耳土器、鉄製分銅、青銅製の切刃(刀の鍔の裏側に付ける)、貝殻製品による三味線の撥、さらに二十枚の古銭が出土しているが、文字の判読したのからみて北宋銭、南宋銭、明銭である。

殿島城 (17)
外堀と中堀の土塁の上から見下ろして撮影した本城北側の堀切。これだけキレイに残っている三重の堀切も稀有であろう。

殿島城 (18)
本城の北側の三重の堀を隔てた外郭には殿島大和守の宝筐院塔が祀られている。

平成七年度、都市計画公園報道整備に先立ち、本城内の一部分を発掘調査し、四軒の竪穴式住居址、二基の竪穴、一基の集石遺構が発見され、これらの遺構内から室町後期の陶器片が出土。最も注目されるのは竪穴の覆土(深さ1メートルぐらいの層)から礎石が発見された。
この現状は廃城時に竪穴に投げ込んだのであろう。石の表面に墨で柱を建てる一、柱の方角を明瞭に印をしてあり、かつて主殿と思われる建造物は礎石を敷いてあったことが判明した。

殿島城 (34)
西側の崖面に落ちる本城の北側の堀切。三重⇒二重に収斂している。笹薮が酷く細部は見れなかった。

殿島城 (36)
復元大手門に接続する南側の堀切。

【城主・城歴】

殿島城は殿島氏に関連しているといわれているが、同氏が文献上に出現する動向について古い順に羅列する。

●嘉暦四年(1329)、諏訪上宮五月会付流鏑馬之花会頭(中略)結番之事 流鏑馬 殿島小井弩 黒河内三ヶ郷地頭(「諏訪家史料 「鎌倉下知状」)
●応永七年(1400)、小笠原軍に従い大塔合戦に参加(「大塔軍記」)
●永享十二年(1440)、小笠原軍に従い結城合戦に参加(「結城陣番帳」)
●文正二年(1467)、神林越後守盛兼(「諏訪御符礼之古書」)
●文明八年(1467) 同上
神林氏は以後、「赤羽記」によれば高遠頼継の老臣「上林上野入道」なる人物が見られ、殿島の地頭であったらしい上林氏は、高遠氏滅亡後は武田氏の旗下になったのであろう。

殿島城 (37)
本城内部。東側の土塁は結構な高さである。

殿島城 (38)
本城西側の崖面側の帯郭。

殿島城 (41)
本城の西側からみた復元大手門。

●天文元年(1532)、殿島大和守重度百五十貫文を領す(「伊那武鑑根元記」)
●天文七年(1538)、韮崎合戦参加(小平物語」)
●天文十四年(1545)、下諏訪合戦参加(「小平物語」)
●弘治二年(1556)、殿島新左衛門重国、信玄のため御成敗也(「伊那武鑑根元記」)

写真を掲載した宝篋印塔は伝殿島大和守のものと伝承されているが、隅飾突起の傾斜角度から鑑定して室町前期に編年づけられ、前述したように戦国時代に活躍したであろう殿島大和守の塔とはならない。
この塔は本城から堀を隔てた北側、護国寺所有の山林にひっそりと建立されているが、その状態から察して、どこかからか移転された可能性が濃厚であろう。
武士階級の人でなければ建立は不可能であり、周辺の歴史変還より殿島氏に関連すると思われる。

※以上、引用終わり。

殿島城 (42)
本城の広さと周回する土塁には圧倒される。

殿島城 (48)
公園という整備事業には必ず「ブランコ」「お砂場」「滑り台」という三種の神器が必要だった時代の忌まわしい副産物である。

殿島城 (43)
主郭(本城)と二の曲輪(外城)の間の堀切。

【城跡】

高度成長期における行政主体の宅地造成事業が城跡の破壊に直結した例は、伊那市に限らず全国で頻繁に起きており、民間事業も含めれば何百という城が消滅したらしい。

IMG_1174.jpg
東春近村誌に伝わる殿島城の絵図。(現地の説明板)

殿島城も、残念ながら二の曲輪(外城)は住宅地化による壊滅的な打撃を受けたものの、緊急的な発掘調査で城の歴史の一部を垣間見る事が出来たようである。

上伊那には、このような館城が数多く点在し、最も大きい遺構が殿島城である。

殿島城 (49)
本城の南側の虎口。小生、本来はここが大手口と思っているが、どうであろうか?

殿島城 (50)
南側の虎口から東側に回り込む横堀。

伊那八人衆として信玄に叛いて処刑された殿島大和守と他の七人にまつわるお話は、また次の機会としたい。

殿島城 (57)
外城(二の曲輪)との間の巨大なW堀。


≪殿島城≫ (とのじまじょう)

標高:660m 比高:40m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:伊那市東春近
攻城日:2015年2月22日 
お勧め度:★★★★☆ 
館跡までの所要時間:-分 駐車場:有り
見どころ:三重大堀切、土塁、方形居館跡
注意事項:二の曲輪は住宅地なので無断侵入禁止、撮影注意
参考文献:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P279参照)、「定本 伊那谷の城」(1996年 郷土出版社)
付近の城址:お寺の山、洞口城など
Special thanks:ていぴす殿

殿島城 (63)
殿島城は、北信濃の高梨氏居館跡、東信濃の伴野氏居館と共に南信濃を代表する館城で、その造りは正に戦国の居館城である。

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Posted on 2017/03/01 Wed. 08:05 [edit]

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