らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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地蔵峠長城塁壁への問題提起  

◆中世の遺構であるという判断には慎重でありたい◆

上田市真田町と長野市松代町を結ぶ県道35号線は、古来より「松代街道」と呼ばれており、戦国時代は北信濃の川中島と東信濃の真田郷を結ぶ戦略上とても重要な軍用道であり、江戸時代から明治維新にかけては地場の生活道路として住人が多く利用したという。(幕末に活躍した松代藩士の佐久間象山は、上田の大日堂の活文禅師の教えを乞うためにこの街道を馬で通ったという)

この街道の境目の峠は「地蔵峠」(じぞうとうげ)と呼ばれ、現在県道35号線の走る峠は「新地蔵峠」、それ以前の旧道の峠は「地蔵峠」と呼ばれ、ルートがいささか異なっている。

地蔵峠付近の地図
今回調査した「地蔵峠の長城塁壁」とその周辺の地図(国土地理院1/25000に加筆)

【地蔵峠長城塁壁とは】

以前より、「地蔵峠には峠を守る戦国時代の出城のような遺構がある」との情報がありマニアの間では噂になっていた。場所は不明であったが、6年前に小生も旧地蔵峠周辺を探索したがそれらしき遺構を発見することは出来なかった・・・。

「ガセネタだったのだろうか?」・・・・この話はそれきり忘れていたのである。

ところが昨年、真田丸ブームに便乗するように(?)新規に大量発刊された真田氏関連本を立ち読みしている最中に、偶然「地蔵峠の長城塁壁」の記事を見つけ購入した次第である。

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2015年11月、宝島社より発刊された

この本のP73に「真田郷を守る西の防衛線 地蔵峠の長城塁壁」の記事と藤井尚夫氏の縄張図が掲載されている。

著者の二宮博志氏は「お城ジオラマ復元堂城郭復元マイスター」として全国区であり、城郭復元モデルの作製や、各地での講演会活動等に多忙を極める城郭研究のスペシャリストである。小生もその活動には心より尊敬の念を抱いている。

なので、地蔵峠の長城塁壁に関しては、小生も何の疑問も持たずに現地へ向かうことにした・・・・。

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第一次調査として向かった2016年11月29日は予想外の雪で断念。林道から見上げる塁壁は遺構を確証するに充分だった。

地蔵峠の長城塁壁
藤井尚夫氏の認定の遺構という前提。「真田三代 名城と合戦の秘密」(二宮博志著 2015年) P75の縄張図を引用転載。

【2016年11月29日 第一次確認作業】

場所の特定作業も含めて新地蔵峠から脇の林道に突入したが、数日前の降雪が予想外に積もっていたために遺構への立ち入りは諦め、周辺の間道の調査のみで終了した。
林道から見上げる塁壁は確かに迫力があったので、雪解けの調査が待ち遠しかった。

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垂直に近い壁(切岸)には、違和感よりもワクワク感が勝っていた・・・

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なるほど林道からは、藤井尚夫氏が作成した縄張図と同じ景色を仰ぎ見る事が出来る。

【2017年4月16日 第二次遺構調査】

満を持して雪解けの4月に再調査に入った。せっかくなので、ていぴす殿にも同行頂き全容解明をお手伝い頂く事となった。
縄張図を参照しながら、長城塁壁の西側からアタックを開始した我らは、腰の高さまで生い茂る熊笹を掻き分けて長城の後方になる小山の乗り越しまで登る。道形が残っているが、近世の耕作地に付随したもので、古道とは考えにくい。

地蔵峠長城塁壁探索①
地図上の直線破線はGPS測定用。小さな赤い点が点在するのは我々が歩いた道のりの記録。

林道から見えた立派な塁壁を探して斜面一面に生い茂る熊笹の藪の中をウロウロ。
ヘビが出回る季節に入っているので、もちろんスパイクピン付き長靴を履き膝下をガードしている。

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ここが虎口らしい。(ていぴす殿の立っている場所)

我々は昨年末に岩原古城の探訪時に熊笹との戦いを延々と1時間以上続けた経験があるので、この程度の笹薮には驚かない。あっちゃこっちゃ地図と睨めっこしながらようやく辿り着いた。

「んで、ここか??」

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林道側に対してせり上がるように盛られた土塁状の土手。(単なる笹薮に見えたらゴメンナサイ・・笑)

確かに縄張図の土塁と横堀(?)のラインはここらしい。

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引いて全体を撮影し補助線を加えると、こんな感じになる。

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虎口の拡大写真はこんな感じ。

土塁と横堀を辿ってみる。人工の工作物には違いないが、中世の遺構としては何かがおかしい。

「堀の中に轍(わだち)がありますねえ・・・」ていぴす殿が地面の笹薮を掻き分けて指摘する。

我々の目は「節穴」ということを自覚していても、土塁はこの作業道を開けた時に出来たものと推定された・・・。
そしてこの土塁と横堀を辿って東に下ると、林道に接続していたのである。

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地面には林業の作業道として使われていたと思われる轍(わだち)の跡が確認された。

では、百歩譲って、遺構の横堀に作業道を開けたという解釈があるかもしれない。だとしても、あの叩き土塁は整然としていてとても不自然なのである。

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桝形虎口の内部。窪地になっていて池の跡のようにも見える。

さて、肝心の枡形の内部と高台については自然地形に近いものであり、人の手が加えられたとは思えなかった。

繰り返すようだが、我々の目はアマチュアであり、節穴である・・(笑)

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窪地の横の高台。そう言われてみれば、そんな形に見えなくもないが・・・。

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高台の奥は地山となって奥の丘陵(小山)に続いている。

ここに砦を作る必要性について検証してみた。

●武田氏時代のノロシ山(844m)からの避難経路の途中の防衛ライン
●同じく武田時代の烽火台と推定される高遠山(1221m)の詰め所
●旧地蔵峠から保科地区(霜台城)への脇道の監視所

二宮氏は真田氏との関連を指摘するが、もしこの場所が長城塁壁なる砦であれば武田氏時代のもので、真田時代のそれは「猿ヶ城」と「弥六城」という見方が妥当であるような気がする。

今回調査した「地蔵峠の長城塁壁」について我々は肯定も否定も出来る立場には無い。
ここを戦国時代の遺構として世間に公表するには、証拠が足りないし現地調査もまだまだ不十分である。

長野県の中世城館館のリストにも載っていないし、宮坂武男氏もこの場所に関しては記事にしていない。

問題提起としてアマチュアの小生が批判覚悟でこの検証記事を載せておきます。

もしよかったら訪問して感想をお願いします。(夏場は訪問不可だと思われます)

そしてわれわれの目が節穴であったことを証明して欲しい・・・・(笑)

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長城塁壁の真実は何処に・・・。

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Posted on 2017/04/28 Fri. 13:03 [edit]

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