らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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齢松山城 (茅野市本町)  

◆鬼場城の後詰めの駐屯地か◆

こんなに難しい読み名の山城は珍しい。齢松山城と書いて、「れいしょうざんじょう」と読む。

名前の由来は、江戸時代の安永年間(1772-80)に本町にある「齢松山福寿院」(れいしょうざんふくじゅいん)という曹洞宗のお寺にこの主郭部を寄贈したので、この名がついたという。

このお寺、諏訪高島藩の二の丸家老諏訪頼雄が開基とされるが、八代目頼保の時に諏訪藩の跡目争いで三の丸の千野家との政争に敗れ、家名断絶となり、その妻子を祀る墓所があるという。その話はいずれまたの機会に。

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麓のコンビニから見た城跡。畑の脇道を登り、その先の鳥居のある場所から適当に斜面を5分も登れば城域である。

【立地】

西側の支脈の中腹に上原城のある永明寺山(1119.6m)の南へ延びた支尾根上にある。標高871m、比高51mで集落に面した小山に築かれている。城の主郭部は、かつて矢ヶ崎、塚原の財産区であったものを、江戸時代の安永年間に齢松山福寿院に寄贈されたことから、この名がついているという。

齢松山城見取図①
郭2つを堀切で囲んだ古典的な縄張である。

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地山との境界を示す堀切㋐。

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南東方面よりみた堀切㋐と郭2。残土で盛った土塁で深さを稼いでいる。

【城主・城歴】

諏訪市の支族矢ヶ崎氏の居城と伝えられるところから、往古は「矢ヶ崎城」と呼ばれた可能性はある。また鬼場城が別名「矢ヶ崎城」と言われたらしいので、鬼場城と区別して、別の呼び名があったことも考えられる。

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主郭より北東の郭2方面を見下ろす。

齢松山の山号を持つ福寿院の創立年代は不明であるが、創立当時の所在地は、小字古屋敷の一角と考えられており、現在地に移ったのは万治二年(1659)あるいは寛文初年(1661~)頃のようである(茅野市史 中巻)

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郭2から見た堀切㋑と主郭方面。堀切㋑は二重堀切だった可能性がある。

矢ヶ崎氏の館の位置ははっきりしないが、この殿屋敷であった事も考えられ、裏山へ砦を築き、本町、塚原の一帯を領知していたと考えられる。一説には殿屋敷に住んだのは小池氏であるとも言われる。
※「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)P177の説明文引用。

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北東斜面の処理。堀切がここで二股に分かれている。

【城跡】

主郭(22×16)と副郭、それらを囲む3本の堀切で構成された古い縄張の城館である。北東の尾根続き以外の三方を急斜面で囲まれた要害の地で、尾根を遮断する二つの堀切が守りを堅固としている。
特に堀切㋑はその幅広さから二重堀が穿ってあった可能性は高い。

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東側より見た堀切㋑。主郭との落差もかなりある。

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三方を土塁に囲まれた本郭(22×16)。

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主郭に最近建てられたらしい説明板。宮坂氏に依頼して縄張図も掲載すれば完璧なのに、惜しい・・。

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主郭北側の段郭。横堀が埋められた跡のようだが、真相は・・。

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南西に落ちる竪堀㋒。

全体的に規模は小さく、比高も50m程の小山にあるので築城年代は鬼場城よりも古い年代のだと想定される。
武田軍が大門街道の監視砦としての鬼場城を強化していく過程の中で、上原城との連携を考慮され使われたものと想定される。

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西側の段郭。

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主郭の切岸。

≪齢松山城≫ (れいしょうざんじょう しろやま)

標高:871m 比高:51m
築城年代:不明
城主;不明
場所:茅野市本町
攻城日:2017年4月29日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:10分
見どころ:堀切、土塁、郭など
注意事項:特になし
駐車場:ファミマで買い物しましょう。
参考書籍:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)
付近の城址:鬼場城、上原城、御天城、埴原田城など。



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コンビニから見た齢松山城全景。

Posted on 2017/06/16 Fri. 22:24 [edit]

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