らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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松尾城 (飯田市毛賀)  

◆仁義なき戦いを繰り広げた松尾小笠原氏本拠の城◆

最近の記事は「山城探訪記」というよりも、「特攻野郎Aチーム」に近いアドベンチャーアクションシューティング(チョッと何言っているんのか全然わかんない・・・)に変化してしてお叱りを受ける有り様・・・(笑)

真面目に山城を巡っている方から見ると、異端児であろうか・・・(汗)

基本掲載方針は「老若男女を問わず、山城ライフを楽しみましょう!!」 現地探索では「安全は全てに優先する!」がモットーです、ハイ。

今回ご案内するのは、2年前に訪問した南信濃ではメジャーな連郭式の平山城である「松尾城」。城域が広いので楽しむというよりは一回りするだけで疲れた・・・・挙句の果てに撮影した写真は少ないし的外れな写真ばかりで茫然自失・・・・(笑)

松尾城 (1)
初心者なので、説明板は必ず撮影して内容は帰ってから読むようにしています・・・えっ?それじゃダメなの?

【立地】

飯田市松尾西南の伊賀良段丘の先端部毛賀(けが)にある連郭式の平山城である。東方は下段の毛賀の集落から天竜川を隔てて川東を望み、西は名古熊の台地に連なり、北は北の沢を天然の堀とし、南は毛賀沢の谷を挟んで同族小笠原氏の鈴岡城と対している。

松尾城 (29)
松尾城主郭。発掘調査により、建物跡・炭・土器片など出土したという。

松尾城 (30)
本郭北側の帯郭。

【城主・城歴】

松尾城は、鈴岡城とともに小笠原氏の居城であった。小笠原氏は甲斐源氏の後裔で、鎌倉時代の長清の代に伊那郡とのかかわりができ、建武三年(1336)に貞宗が守護職となってから信濃を地盤とし、府中(松本)にあって同族を統括してきた。
康永三年(1344)、貞宗は守護職と伊賀良庄ほかを子政長に譲っており、この頃、子らによって松尾・鈴岡城が造られたとされ、子孫は府中(松本)・松尾・鈴岡の三家に分立した。

松尾城縄張図① 001
城郭探訪のお仲間のnaomochi-u氏より縄張図をお借りして掲載しています。

家督は政長から子の長基、その子長秀、次いで長秀の弟長将ではなく、鈴岡城の弟政康へと渡ったため、三家が抗争する元となり、政康が死ぬと争いは中央の権力争いと連動して激化する。

家系図①
三家の抗争の序列がチョッと分かりづらいので家系図を載せてみました。ピンとくるのは一番下の長時さんぐらいですね(笑)

政康のあとは子で鈴岡の宗康が継いだので、長将の子府中の持長はこれに不満で戦闘となり、宗康は戦死し、宗康の弟で松尾城の光康が継いだが、光康のあとは府中の持長が家督を握った。応仁元年(1467)、宗康の子で鈴岡の政秀は、府中を攻め家伝文書を奪取した。

松尾城 (26)
主郭の周りには石積みの遺構が残る。

のち、松尾・鈴岡両小笠原家は対立し、明応二年(1493)、毛賀沢川を挟んで戦い、鈴岡の政秀・長貞父子は戦死し、鈴岡小笠原氏は断絶した。しかし、勝った松尾城の定基は、鈴岡の残党・下條氏・府中小笠原氏に攻められ、家伝文書を持って甲斐の武田氏を頼った。

松尾城 (31)
主郭と二の郭の間の堀。現在は堀の一部は道路となっている。(二の郭より撮影)

天文二十三年(1554)、武田軍が伊那郡に侵攻すると、定基の孫の信貴は武田方の先鋒となり、府中長時の弟信定のいた鈴岡城を攻めて旧領を安堵され、松尾小笠原家を再興した。

天正十年(1582)、織田軍の侵入時、信貴の子信嶺は織田氏に下ったのち徳川家康に属したが、同十八年、家康の関東移封に従って本庄(埼玉県)に移り、松尾城は廃城となった。

※「城主・城歴」については、「探訪信州の古城」(2007年 郷土出版社)のP96松尾城の山内尚巳氏の記事を引用しています。

松尾城 (32)
二の郭から見た本郭。堀というよりは谷という広さの堀である。土橋で連結している。

【城跡】

城址は河岸段丘の三段を利用しており、中段が中枢部で、主郭は先端部にあり、南に三段、北に二段の腰郭がある。周囲は堀で、西方で二の郭と土橋でつながる。

松尾城 (27)
長ごろうやまに繋がる本郭北側の腰郭(段郭)。

二の郭は、南が高く北が低い傾斜地のため三段構成となり、勝手・トヤバ・クラヤシキ・城畑などの地名があり、陶器片が多く出土し二の郭の性格を示している。

松尾城 (34)
クラヤシキ・トヤバと呼ばれる二の郭の北側部分。

松尾城 (33)
北側の遊園地と駐車場の部分へ向けて低くなっていく様子がわかるでしょうか。

松尾城 (37)
二の郭の北側は「城畑」と呼ばれている。その先の沢には数条の竪堀が斜面を走る。

松尾城 (39)
追手口から見たクラヤシキ(二の郭)と三の丸(龍門寺屋敷の地名)との間の堀切。(西の堀)

松尾城 (40)
追手口より撮影した城畑と三の郭の間の堀切。(西の堀)

近世初期に出来た「松尾城絵図」には、西の堀の中央部分に大手口がある。三の郭は二の郭の堀の西側にあり、南から北への傾斜地の為に四段構成である。先の絵図には最高所の一角に「御霊屋」(みたまや)・「龍門寺屋敷跡」(りょうもんじやしきあと)があり、寺畑の地名が残る。三の郭の北方は「片羽」(かたは)といい、南古城・北古城・元本城の地名があり一帯に馬場があったいう。

松尾城 (36)
西の堀を隔てて隣接する北側の三の郭。

松尾城 (41)
今回は時間切れであまり詳しく調査出来なかった三の郭。

【長ごろうやま・サカヤシキ】

本郭の東側には、「長ごろうやま」という本郭とは別の独立した小山があり、更にその東側には「サカヤシキ」と呼ばれる広大な削平地があり、ここまで城域に含まれている。

松尾城 (24)
本郭から下り、長ごろうやまに向かう途中にある堀切。

松尾城 (56)
長ごろうやまの東屋。城郭が拡張される前の物見砦あった可能性が高い。

松尾城 (46)
長ごろうやまからの景色

松尾城 (47)
主郭とサカヤシキとの間には、南の沢に向けて段郭が構築されている。

松尾城 (48)
サカヤシキ西端の段郭群。

松尾城 (52)
現在は耕作地として利用されているサカヤシキ。広大な屋敷跡地だ。

後世における松尾小笠原氏の評判はあまり芳しいものではないが、天正壬午の乱で生き残った数少ない信濃の名族には違いなくて、最終的には越前勝山藩として明治維新まで家名を存続させている。

それにしても、隣同士に城を作るという発想はどうであろうか。仲たがいして戦争に至った最悪のリスクを想定していなかったのだろうか。それとも未来永劫仲良し宣言でもしたのでしょうか・・・。案の定戦争が起きてしまいましたが・・(汗)

≪松尾城≫ (まつおじょう)

標高:488m 比高:96m (天竜川より)
築城年代:不明
築城・居住者:松尾小笠原氏
場所:飯田市毛賀
攻城日:2015年11月23日 
お勧め度:★★★☆☆
城址までの所要時間:-分 駐車場:有り
見どころ:郭、土塁、石積み、堀など
注意事項:特になし
参考書籍:「探訪信州の古城」(2007年 郷土出版社) 「定本 伊那谷の城」
付近の城跡:鈴岡城、座光寺北城・南城、神之峰城など
Special Thanks:ていぴす殿、naomochi-u殿



松尾城 (43)
ここを下っていくと毛賀沢川を渡り鈴岡城へ着きます。
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Posted on 2017/10/31 Tue. 17:24 [edit]

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