らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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鈴岡城 (飯田市駄科)  

◆小笠原氏の内訌から生まれた城◆

昨日、信濃先方衆は北信濃のレアな城巡りと称して飯山市と中野市をブラブラしていたのだが、11月に入ったというのに紅葉は進まず相変わらず藪だらけだし、スズメ蜂には追い回されるし、「なんかオカシイゾ、信州の晩秋」と思った次第・・・(汗)

このまま霜が下りたら広葉樹は紅葉せずに「立枯れ」するんだろうな・・・・で、今回ご紹介するのは松尾城のお隣にある鈴岡城。

鈴岡城(飯田市) (1)
松尾城と鈴岡城は毛賀沢川という深い渓谷を挟んで隣接している。現在は公園化された際に橋が架けられ遊歩道が整備されている。

【立地】

鈴岡城は飯田市駄科の西北部のp段丘上の標高約490mにある。北側は毛賀沢川で比高役50mの渓谷を挟んで松尾城と相対している。
南は伊賀良井(大井)の流れを挟んで松ヶ崎台地や念通寺山などに相対している。東方は段丘崖下に空堀があり、眼下に駄科・長野原集落、天竜川を越えて下久堅・龍江・上久堅などの龍原の村々を経て伊那山脈の連なりが見える。西方は遠見原台地で伊賀良の集落や笠松山などが遠望できる。松尾城に比し眺望はよい。段丘崖を利用して、人手を加えた幾多の堀や郭が設けられ、現存する形で南より二の郭・本郭・出郭などに分けられている。

鈴岡城(飯田市) (2)
毛賀沢川の水道橋を渡り遊歩道を喘ぎながら登ると出丸に到達する。もちろん、往時にこのような道などありません。

鈴岡城縄張図① 001
小生の縄張図には美的センスなどありませんおで、今回もnaomochi-u様の芸術的な縄張図をお借りしました。

鈴岡城(飯田市) (5)
出丸。ほぼ正三角形で主郭から堀切によって切り離されている。隣接する松尾城の監視小屋だったのだろうか?

鈴岡城(飯田市) (3)
出丸からは松尾城と城下町の松尾方面、遠く喬木村まで見通せる。

鈴岡城(飯田市) (65)
もちろん、出丸から松尾城の主要部も良く見える。仲良き時は気にならなくとも、仲違いすれば憎さ百倍か・・・。

【城主・城歴】

ここの城主は鈴岡小笠原氏である。小笠原氏の総領職を巡っての内訌(ないこう)により、深志小笠原氏、松尾小笠原氏、鈴岡小笠原氏の三家に分立した。
鈴岡小笠原氏と松尾小笠原氏の対立については松尾城の項で若干触れているので、ここでは領家の対立の遺構二ついて述べる。

鈴岡城(飯田市) (8)
出丸から見た主郭と間の巨大な堀切。

松尾小笠原定基は鈴岡小笠原政秀と抗争を続け、政秀を滅ぼした。これに対し深志小笠原長棟と下条家氏の連合軍は定基と争い、定基は小笠原家の家督承継の資料を持って武田氏の元に走った。このため松尾城は一旦断絶するに至った。
そこで深志の長棟は二男の信定を鈴岡に送り再興を図ったので、廃絶されていた鈴岡は信定により勢力を盛り返し伊賀良庄を管掌したという。

鈴岡城(飯田市) (11)
主郭と出丸の間の巨大な薬研堀の堀切。この地域の河岸段丘の城の特徴でもある。

天文十七年(1548)に深志小笠原長時が武田勢の攻撃にあい、信定はその支援のため出陣した。しかし長時は信玄に追われ越後の長尾氏に身を寄せたが、その後信定の元へ在居した。
天文二十三年(1553)、武田信玄は長時・信定兄弟の鈴岡城を松尾小笠原信貴を先鋒として攻め落居させたので鈴岡城は廃城となり松尾城が再興された。信定は下条に走り、さらに阿波の小笠原の三好長慶の元に身を寄せたが、のちに戦死した。

※以上の城主・城歴については「定本 伊那谷の城」(1991年 郷土出版社)の鈴岡城の石川正臣氏の記事を引用しました。

鈴岡城(飯田市) (10)
堀跡の植込み。天正壬午の乱では飯田城がメインで使われているが、松尾城、鈴岡城も徳川軍による改修が行われたのであろうか。

【城跡】

主郭は城跡の中央東端にあってほぼ梯形をした地形である。北・西・南に堀をめぐらし東は急崖である。この主郭の平場の広さは、広い部分が約44mあり、幅は約64mである。西縁部に土居が設けられてあり、長さ27m、高さ約14m、底部の幅は約1.8m前後である。

鈴岡城(飯田市) (13)
主郭。

鈴岡城(飯田市) (15)
何故か「鈴岡城址」ではなく「鈴岡公園」の石碑。背後に土塁が巡る。

鈴岡城(飯田市) (28)
結構立派な土塁が本郭に残っているのには驚いた。

二の郭は堀を隔てて主郭の西南に続く鉤状に屈折する平場で、西南は堀で遠見原に対し、南面にも堀があって外方は伊賀良井の谷に傾斜し寺山に対峙する。現在は大部分が畑地として耕作されており、かつてあった井戸は埋められている。北・西・南の三方に土塁があったが、現在は一部残っているのみである。土塁の延長は約45m、高さ1.2m、底部は約2.7mである。

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主郭と二の郭の間の堀切。ここは箱掘。

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北の毛賀沢に向けて薬研堀は竪堀となり落ちていく。

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主郭からは知久氏の神之峰城も視野に入る。

出郭は主郭の北にあって、ほぼ三角形の平場である。主郭との間にほぼ東西に堀切があり、東西の両斜面は急傾斜の断崖で、北側は毛賀沢川の渓谷に臨み松尾城と相対している。

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二の郭を囲む南側の堀切。道路による改修があるものの、かなり幅広く長大である。

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L字形の郭2。以前は畑だったようだが公園整備化に伴い、現在は駐車場と遊園地に変化している。

鈴岡城(飯田市) (43)
昔も今も遊園地さえ作れば住民の同意を得やすいという凝り固まった考えは捨てて頂きたいと思うのだが・・(汗)

鈴岡城(飯田市) (44)
二の郭に残る土塁跡。


外郭のうち、南外郭は二の郭の西方にあって一段低くなっており、「的場」の地名で呼ばれる。南北に長い平場で、長さ90m、幅5~22m、二の郭との間は堀で区切られている。
北外郭は南外郭の北に位置し、遠見原段丘麓を北東に延びて毛賀沢川に突き出したところにある平場で荒小屋と呼ばれる。遠見原との間には堀切があり、ほかの三面は急崖で、東方は谷を隔てて本郭・出郭と相対する。規模は西面の長さ90m、北面約80m、南方は広いところで約51mであるが、現在ではすべて畑地となっている。

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二の郭と南郭の間の堀切。芸術的な美しさである。

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鉄炮の使用を意識していたような幅を持つ堀切。武骨な松尾城とは対照的な機能美に溢れていると思うのだが・・・。

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荒小屋と呼ばれる毛賀沢に突き出した平場。

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的場に隣接する堀切。この仕様は松尾城に共通するものがある。

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巨大であるが美しい堀切。

同行したnaomochi-uさんによれば、この城の訪問は二度目だそうだが、徳川軍による改修が施されたのではないか?と推測されている。
天正壬午の乱では、迫りくる北条軍に対して飯田城で籠城して耐えたという記述はあるが、松尾城や鈴岡城の記載は見られない。ここは、徳川方に付いた小笠原信貴の要請を受けて徳川軍が急遽改修工事を行ったとみたいがどうであろうか・・・。

鈴岡城(飯田市) (59)
北斜面の防御施設。今回詳細は調査出来なかったが、毛賀沢川に対する斜面に入念な防御施設が構築されているという。

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的場と呼ばれる細長い郭跡。

以前は仲の良かった兄妹縁者が、本家の家督争いで仁義なき戦いを続けた。結果として、信濃国守護職の深志・松尾の両小笠原氏は武田氏のような戦国大名にはなれなかったものの、武田家滅亡後の信濃国における戦国時代の荒波を潜り抜けて家名を存続させることに成功した。卑怯者と罵られようが、その働きは値千金の価値であったと思われる。


≪鈴岡城≫ (すずおかじょう)

標高:485m 比高:93m (天竜川より)
築城年代:不明
築城・居住者:鈴岡小笠原氏
場所:飯田市駄科
攻城日:2015年11月23日 
お勧め度:★★★☆☆
城址までの所要時間:-分 駐車場:有り
見どころ:郭、土塁、堀切など
注意事項:特になし
参考書籍:「探訪信州の古城」(2007年 郷土出版社) 「定本 伊那谷の城」
付近の城跡:松尾城、座光寺北城・南城、神之峰城など
Special Thanks:ていぴす殿、naomochi-u殿

鈴岡城(飯田市) (70)












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Posted on 2017/11/05 Sun. 21:52 [edit]

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