らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0329
左右秋葉山砦 (長野市信州新町左右) 
◆信州新町と八坂村の境目の見張砦◆
このような趣味が無ければ、「長野市信州新町左右」(しんしゅうしんまちそう)という場所は一生訪れる事がなかったであろう。
今回ご案内するのは難解な読みの「左右秋葉山砦」(そうあきばやまとりで)。
で、単なる通過ではなく、長野県の全市町村をしっかり歩きまわって制覇するのはあと僅かで達成すると思われる・・・(笑)
マイナーな山城の紹介こそがこのブログの本懐である・・・偉そうに言っても中身がプアなのでご容赦願いたい・・・(汗)

お堂のある上の平地は馬場と呼ばれる。左右秋葉山砦はその奥の尾根上に位置している。
【立地】
砦は旧信州新町(現在は長野市)と八坂村(現在は大町市)の境にある長者山(1159.8m)の南東に延びる尾根先の末端部に位置する。ここへ行くには左右集落から東の尾根先にあるお堂から高合に続く道を歩き、途中の分岐から長者山への登山道に入る。尾根の鞍部についたら南へ向かうと城域になる。

畑作業をしていたご夫婦に許可をもらって駐車。
信濃先方衆の共同作戦、実はこの直前に探訪した「左右前山城」(そうまえやまじょう)で時間がオーバーしてしまい、既に15:30であった。11月の山間地の攻城戦のタイムリミットは戻りを16:00ぐらいを目安にしないと危険なのだが、「頑張って行きますか・・」(笑)
地主さんご夫妻にも「今から長者山へ登るの?」と怪訝な顔をされましたが、説明するのも面倒なので「下調べですw」と・・。

分岐地点ですでに15:50。大丈夫なのか?

分岐点から必死こいて尾根の鞍部についたのが16:00。ここから城域。
【城主・城歴】
史料・伝承等なく不明。城跡には以前に秋葉社が祀られていたのでこの名がある。秋葉社は円形城の土檀の上に置かれていたようである。

縄張図。

鞍部の窪地。近くに水源が見当たらないので恐らく天水溜かもしれない。

東斜面の削平地より尾根先の郭を見上げる。
【城跡】
神社の勧進で城跡は一部改変されたようだが、基本的にはL字の尾根を削平して城の中枢部として前後を堀切で遮断し、土檀状の場所に物見櫓があったのかもしれない。郭4は小屋掛け出来そうな広さがある。

堀切㋓。東斜面がかなり緩いので長めの竪堀としている。

東斜面を下る竪堀㋓。上巾は4m程度だが、結構長い。

城域の最高所にある郭(7×4)。前後を堀切㋓と㋒で遮断している。

L字型ながら郭の面積が最も広い郭4。

秋葉社の勧進に伴い改変されたであろう中枢部。

城域中枢部で最大の幅のある堀切㋑(上巾4m)

郭1から見下ろした郭3(10×10)。
オーソドックスな縄張はこの城の南東に位置する左右前山城とほぼ同時期と見てよさそうである。
牧野島城との関連もあると思われるが、八坂へ通じる金熊川沿いの古道の監視目的のように思える。

三角形の郭2。

東尾根の城域最終の堀切㋐(上巾6m)。かなり埋没している。
実際のところ、僅か20分で城跡を探索するのはかなりハードである。さりとて竪堀は堀底から頂部まで歩いたし土檀部はイマイチ形状が掴みきれず周辺を何度も回った。東尾根の堀切二条も疑心暗鬼の有様・・・(笑)
相方のていぴす殿と東尾根を強引に下って、登り口の馬場平にリターンしたのは16:30。正味20分間の探訪でしたが見どころさえ押さえればノープロブレムかと・・・・(笑)

無事生還した馬場平から撮影したていぴす殿と左右前山城。
≪左右秋葉山砦≫ (そうあきばやまとりで)
標高:889mm 比高:130m (殿村お堂より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市信州新町左右
攻城日:2016年11月13日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し
見どころ:特に・・
注意事項:特になし
参考資料:「信濃の山城と館②更埴・長野編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
付近の城址:左右前山城、戸谷城、牧野島城、和田城など
このような趣味が無ければ、「長野市信州新町左右」(しんしゅうしんまちそう)という場所は一生訪れる事がなかったであろう。
今回ご案内するのは難解な読みの「左右秋葉山砦」(そうあきばやまとりで)。
で、単なる通過ではなく、長野県の全市町村をしっかり歩きまわって制覇するのはあと僅かで達成すると思われる・・・(笑)
マイナーな山城の紹介こそがこのブログの本懐である・・・偉そうに言っても中身がプアなのでご容赦願いたい・・・(汗)

お堂のある上の平地は馬場と呼ばれる。左右秋葉山砦はその奥の尾根上に位置している。
【立地】
砦は旧信州新町(現在は長野市)と八坂村(現在は大町市)の境にある長者山(1159.8m)の南東に延びる尾根先の末端部に位置する。ここへ行くには左右集落から東の尾根先にあるお堂から高合に続く道を歩き、途中の分岐から長者山への登山道に入る。尾根の鞍部についたら南へ向かうと城域になる。

畑作業をしていたご夫婦に許可をもらって駐車。
信濃先方衆の共同作戦、実はこの直前に探訪した「左右前山城」(そうまえやまじょう)で時間がオーバーしてしまい、既に15:30であった。11月の山間地の攻城戦のタイムリミットは戻りを16:00ぐらいを目安にしないと危険なのだが、「頑張って行きますか・・」(笑)
地主さんご夫妻にも「今から長者山へ登るの?」と怪訝な顔をされましたが、説明するのも面倒なので「下調べですw」と・・。

分岐地点ですでに15:50。大丈夫なのか?

分岐点から必死こいて尾根の鞍部についたのが16:00。ここから城域。
【城主・城歴】
史料・伝承等なく不明。城跡には以前に秋葉社が祀られていたのでこの名がある。秋葉社は円形城の土檀の上に置かれていたようである。

縄張図。

鞍部の窪地。近くに水源が見当たらないので恐らく天水溜かもしれない。

東斜面の削平地より尾根先の郭を見上げる。
【城跡】
神社の勧進で城跡は一部改変されたようだが、基本的にはL字の尾根を削平して城の中枢部として前後を堀切で遮断し、土檀状の場所に物見櫓があったのかもしれない。郭4は小屋掛け出来そうな広さがある。

堀切㋓。東斜面がかなり緩いので長めの竪堀としている。

東斜面を下る竪堀㋓。上巾は4m程度だが、結構長い。

城域の最高所にある郭(7×4)。前後を堀切㋓と㋒で遮断している。

L字型ながら郭の面積が最も広い郭4。

秋葉社の勧進に伴い改変されたであろう中枢部。

城域中枢部で最大の幅のある堀切㋑(上巾4m)

郭1から見下ろした郭3(10×10)。
オーソドックスな縄張はこの城の南東に位置する左右前山城とほぼ同時期と見てよさそうである。
牧野島城との関連もあると思われるが、八坂へ通じる金熊川沿いの古道の監視目的のように思える。

三角形の郭2。

東尾根の城域最終の堀切㋐(上巾6m)。かなり埋没している。
実際のところ、僅か20分で城跡を探索するのはかなりハードである。さりとて竪堀は堀底から頂部まで歩いたし土檀部はイマイチ形状が掴みきれず周辺を何度も回った。東尾根の堀切二条も疑心暗鬼の有様・・・(笑)
相方のていぴす殿と東尾根を強引に下って、登り口の馬場平にリターンしたのは16:30。正味20分間の探訪でしたが見どころさえ押さえればノープロブレムかと・・・・(笑)

無事生還した馬場平から撮影したていぴす殿と左右前山城。
≪左右秋葉山砦≫ (そうあきばやまとりで)
標高:889mm 比高:130m (殿村お堂より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市信州新町左右
攻城日:2016年11月13日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し
見どころ:特に・・
注意事項:特になし
参考資料:「信濃の山城と館②更埴・長野編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
付近の城址:左右前山城、戸谷城、牧野島城、和田城など
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Posted on 2018/03/29 Thu. 23:22 [edit]
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